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「信長」〜下天は夢か幻か〜 【第20回】

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ポルトガル人たちが島から去ってしまうと、小四郎と金兵衛はさっそく金兵衛の鍜治場を工房にして、鉄砲の製作に取りかかった。
時堯は、手に入れた二挺のうちの一つを二人に渡して、
「これをその方らに与えよう。分解してよくよく研究するのだ。一挺はわしの手元に置き、わしも研究する」
小四郎も金兵衛も、
「殿様に負けてはいられぬ」
「やりましょう」と、知恵を絞って研究に没頭した。
それは、想像を絶する困難な道のりであった。
何しろ当時は機械がなかったので、すべて手作業で行なわねばならない。
鋼を鍛えに鍛えて鉄板にし、丸い鉄棒を芯にして、そこへ鉄板を巻くように打ちつけて、筒の形にこしらえた。
それから継ぎ目を合わせ、その上から薄く鍛えた鉄板をテープのようにぐるぐる根元から先まで巻きつけて鍛えた。
こうしないと、銃身が発射の衝撃に耐えられなかったからだ。
銃身にちょっとでも歪があれば、一発で捻じ曲がってしまう。
また、内側に凸凹があれば弾はまっすぐ飛ばないし、ひどければ爆裂する。
ままならぬことばかりであったが、特に銃床の底を塞ぐのが難しかった。
どんなに工夫しても、火薬を詰めて点火すると、その爆発力のために底が吹っ飛んでしまうのだ。
この難題を解決したのが、ネジという概念である。
当時の日本人は、まだネジというものの働きについて知らなかった。
小四郎と金兵衛が初めてネジを作り、おかげで銃床は何発撃っても底が抜けないようになった。
泉州堺、紀州根来、江州国友など、各地で多くの鉄砲が造られる頃になると、製作技術も格段に進歩して、たとえば、銃身一つとっても轆轤(ろくろ)を使って造るようになった。
種子島で小四郎と金兵衛が苦心の末国産第一号の鉄砲を造り上げて半年後には、すでに時堯の手元には約六百挺もの種子島銃があったという。
それから十五年後には、はや全国で三十万挺も完成して、ひろまっていた。
およそ信じがたい驚異的なひろまりであったが、それというのも、時堯が予言したとおり、全国の武将が、戦に勝つため、こぞって最新最強の武器である鉄砲を手に入れようとしていたからだった。
たとえば、種子島で鉄砲が造られていると聞き知った泉州堺の貿易商橘屋又三郎は、刀鍛治と細工物師を種子島へ派遣して鉄砲製作を学ばせた。
また、紀州根来寺の僧兵杉の坊は、単身種子島へ渡って鉄砲製作を習い、火薬の製法を極めた。
こうして、種子島の製作方法が世間にひろまる一方で、さらに最新式の鉄砲が続々と輸入された。
運んできたのは、ポルトガルの商船と、それに乗ってやってきたキリスト教の宣教師たちであった。
宣教師らは諸国の大名が皆鉄砲と火薬を欲しがっていると知り、それらを手土産にして領内で布教する許可を求めた。
大名は鉄砲と火薬を得る代わりに、宣教師に布教の許可を与え、商船の積んできた鉄砲や火薬を大量に買い入れ、多額の金銀を支払った。
国産品、輸入品ともに増えて、国内に出回る鉄砲の数は爆発的に増加した。
輸入品との競争を経て、国産品もより精巧、高性能になってゆく。
また、それにつれて、鉄砲を扱う技術、すなわち銃砲術も急速に発達していった。
鉄砲が全国にすっかり行き渡ったといわれる弘治年間には、有名な川中島の合戦や、中国地方でも、毛利元就と陶晴賢の厳島の合戦など、群雄が割拠して、日々合戦に明け暮れ、鉄砲は各地で火を噴き、硝煙が山野を覆い、轟音は大地を震わせた。
織田信長の吉法師が、今川家へ引き取られてゆく人質の松平竹千代を、一人の友として清洲城外に見送ったのも、ちょうどその頃であった。
吉法師はその翌年、十三歳で元服し、織田三郎信長となった。
当時すでに鉄砲は全国にひろまっており、織田家でもこの最新兵器を有効に活用すべく砲術師範の橋本一巴を召し抱えていたが、信長は砲術を習うより、むしろ鉄砲そのものに興味津々であった。
毎日鉄砲をいじくるばかりで、砲術に一向に興味を示さない。
そんな信長の態度に一巴も途方に暮れ、ある日、ついに後見役の平手政秀に相談を持ちかけた。
「若殿には困りました」
「どうされたかな」と、政秀は眉をひそめた。
またしても若殿の気まぐれが始まったかと、苦い顔になった。
それを見て、ちょっと言いにくそうにした一巴だが、
「若殿の砲術指南をいたしておりますが、一向に稽古をなされませぬ」
「鉄砲がお嫌いかなあ」
「いえ、稽古はお嫌いですが、鉄砲はお好きと見えます。鉄砲を玩具にして遊んでおるのがお好きなのです」
一巴としては、自分の言うことをまるで聞かず、いつも好き勝手に振舞っている信長を、どう扱えばよいか、ほとほと困り果てていたのであった。
「どうか、平手殿からきちんとお稽古なさるよう、申し上げていただきたい」
「よろしい、申し上げよう」と、政秀は立ち上がり、さっそく信長のもとへ向かった。
膝の上で種子島銃をひねくりまわしている信長に、政秀は言った。
「砲術のお稽古をなさらぬそうですな。橋本一巴殿がそう申しております」
「ふん、一巴は一巴、わしはわしだ」
「ですが、それではせっかく高禄をもってお召し抱えられましたのも無駄になりまする」
「聞け、政秀」
「はっ」
「おれは大将だ」
「さようにござりまする」
「一巴は雑兵だ」
「いいえ、砲術師範にござりまする」
「物の考え方が雑兵だと言っている」
「考え方、でござりまするか」
「鉄砲を撃たせれば、一巴は百発百中、実にうまい」
「さすがは師範でござりまするな」
「感心してどうする」
「と、申されますると?」
「一巴の教えている鉄砲では、百人の敵を倒すには、百発撃たねばならぬ。一人一発ずつだからな」
「はい、さようで」
「十人なら十発、五十人なら五十発、千の敵を倒すためには、鉄砲を千発撃たねばならぬ。千発撃つには、大変な手間と時間がかかる計算になるではないか」
「お言葉のとおりにございます」
「わしが考える砲術とは、一発で百人、二百人の敵を倒す、十発で千、二千の敵を撃退する砲術なのだ」
「すばらしい砲術でござりまするなあ」
「政秀、わしは大将だ」
「はい、大将でいらっしゃいます」
「大将がいちいち敵を狙って鉄砲を撃っているようでは、戦には勝てぬ」
「は、さようにございまする」
「昔、源義経は壇の浦で平家の能登守教経に挑まれると、背を向けて逃げた。船から船へ跳んで、ついには八艘まで跳び移ってやっと逃げ延びた。これが有名な義経の八艘跳びだ。一騎打ちではかなわぬと知っていた義経だから逃げた。しかし、合戦に勝ったのは教経ではなく義経であった。そして、とうとう平家を滅ぼしてしまったではないか。義経は大将だ。ゆえに一騎打ちなどしなかった。一騎打ちで敵を倒して首を取るなど、足軽雑兵のすることだ」
「はい、おっしゃるとおりで」
「そう言ってわしに義経八艘跳びの話を教えたのは、政秀、そなたではないか」
「はい、まったく、お言葉のとおりにござりまする」
政秀は、感極まって涙ぐみそうになった。
この方は生まれながらの大将なのだ。考え方や目のつけどころが、われらなどとは比べ物にならぬほど斬新で大きい……末楽しみな若殿だ、とそう思ったのだ。
政秀は目を輝かせた。
「楽しみでござりまするなあ」
「何が楽しみか」
「御初陣でござります」
「初陣だと。いつだ」
「二、三日中には」
「敵は」
「三河の大浜城にござりまする」
「大浜城を取るのか」
「そのようでございます」
尾張をほぼ勢力下においた織田信秀は、東に駿河の今川、北に美濃の斎藤に挟まれながら、順調に領土を拡大し、押しも押されぬ大大名の一人になりつつあった。
攻めなければ潰される、討たねば討ち滅ぼされるのが戦国のならい、一日たりとも安閑としてはいられない。
合戦合戦の明け暮れであった。
「初陣か」と信長は笑って、
「初陣には手柄をたてねばならないか」
「あなたさまの将来が決まりまする。織田家をお継ぎになられるか、将来大物になれるかなれないか、合戦がじょうずかへたか、勇気があるかないか。世間の皆が注目いたしておりまする」
「ふん」と、信長は面白くもなさそうに、
「三河の大浜城は、問題にならん小城ではないか。わしの力をためすほどの城攻めではない」
「大敵を恐るるなかれ、小敵をあなどるなかれ、でございます」
「わかっている」
「不肖政秀、御後見させていただきまする」
「父上の御命令では仕方なかろう。ところで政秀、そなたの初陣はどうであった」
「私の初陣は十五歳の夏でございましたが」
「そなたのことだ。さだめし手柄を立てて初陣を飾ったことであろう」
「それがもう、手柄どころでなく、怖くて、恐ろしくて、最初から最後まで、ずっと震えておりました」
「初陣とは恐ろしさで震えが止まらぬというのは本当らしいな。誰でもそうらしい」
「これではいかぬと、勇気を奮って敵陣へめくらめっぽう斬り込みましたが、もう無我夢中で何がなにやらさっぱり。やっとのことで敵を一人槍で突き伏せ、首を取り、ようやくまわりが見えるようになり申した」
「なるほど」
「いくども戦場へ出て手柄を立てている剛勇の者も、初陣では目の前が真っ暗で、三度、五度と出陣して、初めて敵が見えるようになるものだと申しまする」
「戦場では、殺すか殺されるかだ。いかに大剛の勇士といえど、そうであろう。わしとてきっと、戦の間中ずっと震えておるであろうよ」
信長はそう言って笑った。

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