九州〜列車で行こう〜下町親父の珍道中

東京下町おやじが移転先の九州で楽しく過ごす珍道中!?一緒に楽しみましょう♪

全体表示

[ リスト ]

先日2月上旬に参拝した「崇福寺(そうふくじ)」の続き。
崇福寺」の墓地をお参りした後は、まだまだ広い境内を回りました。


崇福寺(その1)山門・心宗庵・唐門の様子は、「こちら」
崇福寺(その2)黒田家墓所・玄洋社墓所の様子は、「こちら」


まだ見ていない境内を進むと、お堂が見えて来ました。
イメージ 1

お堂に沿って右回りに進むと、沢山の仏像が納められていました。
イメージ 2

こちらにも!
イメージ 3

こちらは立派ですね〜。お地蔵様のようです。
イメージ 4

境内の塀に沿って、並べられていました。
イメージ 5

ホントにいっぱいいらっしゃいますね!
イメージ 6

こちらにも…。
イメージ 7

塀に沿って、ぎっしりと!博多の人々の信仰の篤さを感じます。
イメージ 8

朱の鳥居が見えて来ました。
イメージ 9

鳥居には「正一位 稲荷大明神」とあります。
イメージ 10

鳥居の奥には、小さなお稲荷さんの社があって…。
イメージ 11

社の脇には、布袋様がいらっしゃいました。
イメージ 12

稲荷大明神」は、福岡県有形文化財に指定されている山門のすぐ傍にあるんですよね。
福岡城本丸表門だった山門は威厳がありますね〜、やっぱり。
イメージ 13

1枚目の写真のお堂の正面に来ました。
イメージ 14

お堂に近付いて…。「地蔵堂」とあります。
イメージ 15

地蔵堂」の中に入ります。お参りされている方がいらっしゃいました。
イメージ 16

旭地蔵願王大菩薩」とあります。
イメージ 17

旭地蔵尊
随乗坊湛慧が横穴を掘って隠棲しそのまま座位の姿で息絶えたとされる地に石塔が立てられ、のちに地蔵が祀られた。崇福寺が現在の地に移転した際に地蔵も共に移された。百度参りの地として崇敬を集める。
(ウィキペディア「崇福寺」より)
ウィキペディア「崇福寺」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A6%8F%E5%AF%BA_(%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E5%B8%82)

崇福寺を太宰府の横岳の地に創建した「随乗坊湛慧禅師」が亡くなった場所に祀られたお地蔵様を、
この地に移転した際に、一緒に移されたものなんですね。

地蔵堂」の脇にも、お地蔵様が沢山いらっしゃいました。こちらにもお参りされている方がいらして…。
イメージ 18

先程の塀に沿ったお地蔵様も、「旭地蔵菩薩」のご縁を願って奉納されたものなのかも知れません。
そのお地蔵様に近付いて…。
イメージ 19


福岡市博多区千代にある「崇福寺」。九州大学病院の隣にあり、福岡県庁や東公園に近い場所にあります。
崇福寺」の創建は古く、仁治元年(1240)。太宰府の横岳の地、今の太宰府天満宮の西側、筑紫台高校の西側に創建されました。

戦国時代に九州制覇を目指す島津氏大友氏が激突。横岳の背後にある岩屋山岩屋城に立て籠もる大友氏家臣の高橋紹運と熾烈な合戦「岩屋城の戦い」に起こり、その戦火で堂宇は焼失してしまったそうです。
岩屋城の戦い(いわやじょうのたたかい)は、日本の戦国時代に、九州制覇を目指す薩摩の島津氏が、大友氏の家臣・高橋紹運が籠る岩屋城を落とした戦い。
苛烈かつ激戦であった攻城戦であったと言われている。
(中略)
合戦の経過
岩屋城には763名の城兵が籠る。1586年(天正14年)7月12日島津軍は降伏勧告を出すが紹運はこれに応じず、徹底抗戦を行った。7月14日、島津氏による岩屋城攻撃が開始された。しかし、島津軍の大半は他国衆であり戦意に欠けていた。紹運の采配により、島津軍は撃退され続け、おびただしい数の兵を消耗していた。城攻めで苦戦する島津方は紹運の実子を差し出せば講和する旨を伝えたが紹運はこれにも応じなかった。
籠城戦が始まって半月が経過した27日、島津軍は島津忠長が自ら指揮をし総攻撃を仕掛けた。多数の死者を出し城に攻め入り、ついに残るは紹運の籠る詰の丸だけになっていた。紹運は高櫓に登って壮絶な割腹をして、果てた。紹運以下763名全員が討死、自害して戦いの幕は降りた。
一方、島津氏は岩屋城を攻略したものの多数の将兵を失ったため、態勢の立て直しに時間を要し、九州制覇という島津氏の夢が叶わなかった遠因となった。
(後略)(ウィキペディア「岩屋城の戦い」より)
ウィキペディア「岩屋城の戦い」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B1%8B%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
高橋 紹運 / 高橋 鎮種(たかはし じょううん / たかはし しげたね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。初名は吉弘 鎮理といい、のちに宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種と称した。
(後略)(ウィキペディア「高橋紹運」より)
ウィキペディア「高橋紹運」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%B4%B9%E9%81%8B

関ヶ原の戦い後に、筑前に黒田長政公が入り、太宰府から現在の地に移転された由緒正しき寺院なんですよね。

境内には文化財が沢山あって、また福岡藩主黒田家墓所にもなっていますし、頭山満を始めとする玄洋社の墓所もあって…。
頭山満に影響を与えた高場乱(たかば おさむ)のお墓もありますが、高場乱は当ブログでよくレポしている平尾山荘野村望東尼と従姉妹と言われているそうです。
前回レポの時は知りませんでしたので書きませんでしたが、その後ネットで調べていると従姉妹だと…。
繋がっているんですね〜。ビックリです!

野村望東尼平尾山荘跡の書庫は、「こちら」

崇福寺」。歴史のある由緒正しき寺院を参拝出来て、良かったなぁ。
とても勉強になりましたし。
博多の寺院散策。興味深いですよね。また散策に行くけん、よかろうもん♪



臨済宗 大徳寺派
横岳山勅賜萬年崇福禅寺
福岡市博多区千代4-7-79



にほんブログ村 福岡(市)・博多情報
http://localkyushu.blogmura.com/fukuoka_town/
↑ランキング参加中!クリックして戴けますと、嬉しいです!

人気ブログランキング
http://blog.with2.net/in.php?819555
↑ランキング参加中!クリックして戴けますと、嬉しいです!

この記事に

開く コメント(13) ログインしてすべて表示

開く トラックバック(0) ログインしてすべて表示


.


プライバシーポリシー -  利用規約 -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2016 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事