電脳工廠・兵器(武器,弾薬)庫

日本が国として自立する為には覚悟が必要です、中共の核(200発以上)が日本に向けられている現実を認識しましょう。

竹田恒泰 著 「皇族たちの真実」

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「サイタニのブログ」からの転載記事です、是非転載元へも脚をお運び下さい。http://blogs.yahoo.co.jp/nyxyd264/MYBLOG/profile.html
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続き 皇室が2000年続いた理由

続き 皇室が2000年続いた理由

 
「私〈寛仁親王殿下〉は伯父様〈高松宮殿下〉をずっとお手本にしてきたところが
あって、こういう言い方は申し訳ないんだけれど伯父様を水先案内人と心得て
やってきました。

中でも伯父様が生前よくおっしゃっていたのは、皇族というのはいにしえの
昔から国民に守られてきたんだ、ということです。

京都の御所を見てもそのことがよく分かる。あそこはどこからでも侵入
できるし、外国の城のような大きな濠もなければ、高い塀もない。ところが
長い年月、泥棒が入るでもなくずっとあのままの佇まいで在りつづけて
いるわけです。伯父様は、そのことを見ても皇室がいかに国民によって
守り育てられてきたかが分かるとおっしゃっていました。私もその通り
だと思います。」
(寛仁親王殿下「皇室と日本人」『文嚢春秋』93年7月号)

また、皇居や御所が過剰に警備されていることに対して、高松宮は喜久子
妃殿下に次のように語っていた。

「皇族というのは国民に護ってもらっているんだから、過剰な警備なんか
いらない。堀をめぐらして城壁を構えて、大々的に警護しなければならない
ような皇室なら、何百年も前に滅んでいるよ」(『文嚢春秋』98年8月号)

多くの王は軍事力によって守られていた。高い城壁に深い堀を巡らし、
軍事要塞に住むことによって安全が保たれていた。軍事力によって守
られる者は軍事力によって倒される運命にあったわけだ。しかし、
軍事力を持たずに、国民によって守られてきた日本の皇室は軍事力に
よって抹殺されることはなかったということになろう。

そして皇室が国民に守られてきたのは、天皇と国民の間が強い信頼関係で
結ばれていたからにほかならず、それを可能にしたのは、例外はあるも
歴史的に 天皇は政治に関与せず、主な御役割は民の幸せを願う
ことであったことによる。

天皇に「私」はなく民全体の幸せのためにあり続けてきたのだ。その
ことは、天皇の御日常が質素であり続けたことからも察することができよう。
世界中の王宮が賛沢の極みであることと、1000年以上 天皇の居所として
使用された京都御所が質素の極みであることを比較すれば容易に理解
することがでる。

皇室が長年存在してきたことはその他にもたくさんの要素があると思うが、
日本の歴史を通して皇族方の担ってこられた御役割もその重要な要素の
一つであることは、本書を読んでいただいて理解していただけたことと思う。

とにもかくにも、これほど長い歴史を持つ皇室が、現在もしっかりと存在して
いることは、私は日本人として大変誇りにしており、途中で廃絶させること
なく大切に継承させてきた先人たちに、最大の敬意を表わさずにはいられない。

そして 天皇とは男系によって継承されるものであり、男系によって継承され
てきた 天皇こそが「万世一系の天皇」である。なぜ先人たちが男系継承に
こだわってきたかについては既に述べたのでここでは繰り返さない。

しかし、もし男系でない天皇が誕生したとしたら、それは「万世一系の天皇」
とは似て非なるものであり、その時点で「万世一系の天皇家」は断絶した
ことになる。したがって、皇統は絶対に男系によって継承されなくては
ならないと断言して結語としたい。




                        竹田恒泰著「皇族たちの真実」より


※「皇族たちの真実」はここで終わらせて頂ます。最後までおつきあい頂き
 ありがとうございました。今日感じましたのは、私20何年前に奈良にある
  歴代の 天皇御陵を御参り(みささぎ巡拝)させて頂いた事がありました。
 それは、天皇陛下、御皇室の大切さを、有難さを知りたくて御参りさせて
  頂きました。(本を読んでも解らなかったからです。)あれから、皇居の
 奉仕活動に偶々何回か参加させて頂き間近に 今上陛下」、美智子妃
 殿下を拝見させて頂き感動した事を覚えています。
 マッカーサーが 昭和天皇にあって私は紳士を見たと感動して玄関まで
 送ったと言われていますが、やはり普通の方ではないのではと思います。
 また 、皇族の子孫竹田の宮様の講演も偶々聞かせて頂きこれも奈良の 
  天皇御陵を御参りさせた縁ではないだろうかとこの頃感じている次第です。
 時間が取れたらもう一度すべての天皇御陵(みささぎ巡拝)を御参りさせて
 頂こうと思っています。よろしかったら皆様方も行かれませんか。
 素晴らしいですよ。(御陵に御朱印?がありまして、全ての御陵を廻ら
 れて御朱印を掛け軸にされておられる方もいます。
   





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それぞれの人生 「戦後の皇族」

それぞれの人生
 
 
事業に苦戦しながらも結果を残した元皇族もいた。
賀陽宮恒憲(つねのり)王は戦前から「野球の宮様」として知られており、
皇籍離脱後は好きな野球を事業化させた。自ら主将になって六大学野球の
ベテランを加えてチームを発足させたものの、やはりうまくいかず、
解散となった。しかし引揚者や戦災孤児のための社会福祉事業は続けられ、
昭和45年(1970)に長野県に特別養護老人ホーム「敬老園」を完成させて
理事長に就任した。

一方、朝香宮鳩彦(やすひこ)王は、皇籍離脱した十一宮家の当主の中でも
、安定的な生活を手に入れ、ゴルフ三昧の余生を過ごした旧皇族である。
「ゴルフの宮様」として知られる鳩彦は皇籍離脱前から毎週ゴルフをたしなみ
、暇を見つけては自宅の庭でシヨートアプローチの練習に明け暮れていた。

離脱後は白金の宮邸を外務省に貸し、自らは熱海の別荘に移り住み、
五十余ものゴルフクラブの名誉会長を務め、昭和56年(1981)に90歳で
亡くなるまでの間、ゴルフに打ち込む毎日を過ごしたという。

皇籍離脱時に若年の当主だった伏見宮博明王と北白川宮道久王は、
いずれも大手企業に就職した。15歳で皇籍を離れた伏見博明は米国留学を
経てモービル石油に入社〔既に退職〕し、また10歳で皇籍を離れた北白川道久
は東芝に入社〔既に退職〕し、現在は神宮大宮司を務め、清子内親王殿下と
黒田慶樹氏の結婚式では斎主を務めている。

伏見家と北白川家は、いずれも当主が若年だったため、周囲に乗せられて
事業に手を出すことがなく、それが幸いして他の旧宮家のように事業による
痛手をこうむることはなかった。

精力的に事業に着手した家ほど惨めな結果になっていることからして、
やはりそれまで商売にかかわったことがない者がいきなり成功するほど
世の中は甘くはないということだろうか。ただし、これは偶然にも、事業に
失敗した家ほどたくさんの子孫に恵まれているとみえる。

久邇家、賀陽家、東久邇家は、現在はいずれも大家族である。特に
東久邇家では、昭和18年、稔彦王の第一王子である東久邇宮盛厚王と
昭和天皇第一皇女照宮茂子(てるのみや)内親王との結婚が成立し、
昭和天皇の外孫を三人儲けるに至ったことは既に述べた。

皇籍離脱時の当主たちのその後を眺めてきたが、彼らの息子たちの世代に
なると、若年当主二人と同様に、ほとんどが大企業に入社した。竹田家でも
同様で、私の父の代の男子三人は皆大企業に勤務した。ただし、私の父
だけは企業を退社して自ら会社を興し、現在はその会社の社長と日本
オリンピック委員会(JOC)会長を兼務しており、他家の同世代の中でも
異色といえる。

 
私の世代についても、やはりほとんどが大手企業に勤務している。年齢的
には20代前半から40代半ばまでの広がりがあり、男系男子だけを挙げると、
久邇家に三名、賀陽家に一名、朝香家に一名、東久邇家に三名、竹田家に
五名の合計十三名がおり、そのうち八名が独身である。

ちなみにその八人の内訳は、久邇家に二名、東久邇家に一名、竹田家に
五名となっている(平成17年12月現在)。私の世代はまだ若い人が多いだけ
あって、既に男児を儲けた人は少ないが、それでも私の一つ下の世代に、
賀陽家に二名、東久邇家に一名、合計三名の男系男子がいる。

前出の久邇朝宏は月刊誌の取材で「サラリーマンにならないと食べて
いけないことは子供のころからわかっていました。そのあたりは、普通の
家庭と変わりがありませんよ」(同前)と語っているが、軍人だった元皇族が
会社勤めに転じることは容易ではないものの、下の世代の元皇族や、
その子孫たちは、企業に勤務することに何ら抵抗がなく、離脱時の当主の
次の世代になって完全に社会に溶け込むことができたわけである。




                                    竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より



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さまざまな事業を展開   「戦後の皇族」

さまざまな事業を展開
 
 
稔彦は事業に没頭した。その第一歩は新宿西ロマーケット、いわゆる
闇市での食料品店「東屋」開業である。周りの店は違法な闇米などを
取り扱っているものの、元首相、しかも元皇族が違法な商品を扱うわけ
にいかず、周囲の店とは競争にならず、商売はたちまち立ち行かなくなる。

店の半分を改装して喫茶店を、また続けて洋裁店を開業するも、いずれも
軌道に乗らず閉店。稔彦は懲りずに美術品店を開業するが、これも商売に
ならず、またこれらと平行して「東洋行」という会杜を設立して洋モク(煙草)の
輸入を目論んだものの、総司令部の許可が下りずに中止に追い込まれた。

その後は明治生命相互保険会社の三多摩地区総代理店の総責任者と
なった。その後、稔彦は小原竜海と名乗る怪僧にのせられて新興宗教の
教祖に祭り上げられ、さらに資金まで騙し取られてしまう。稔彦は後に
月刊誌の対談で、この件について次のように語っている。

「〈金銭を〉とられましたね。坊さんにたくさんやったんですよ。それで
わたしは、あのために「ひがしくに教」で冷やかされたり、悪口をいわれる
ばかりでなく、カネもずいぶんとられたのです。物心両面で非常に打撃を
うけました。〈中略〉あれはまったくわたしの不明のいたすところで、
一生の不覚でした」(『文嚢春秋』68年1月号)

そして稔彦は昭和天皇の最期を見届けると、平成2年(1990)に102歳で
亡くなり、その波乱に富んだ生涯を閉じた。

その他に事業で苦労したといえば、久邇宮朝融(くにのみやあさあきら)王
もその一人である。皇籍離脱時に久邇宮は11人という大家族〔京都の分家
を含む〕で、一時金も最高額の944万円であった。しかし、間もなく着手した
事業は東久邇家同様、苦労が多かったと伝えられている。

久邇朝融の三男朝宏(あさひろ)はその頃の様子を月刊誌の取材に対し
「子供ながらに、父が事業に失敗して、家がだんだん傾いていくのは
わかっていました」(『文藝春秋』05年3月号)と語っている。

事業で苦労したのはその二人だけではない。閑院宮春仁王は本格的に
事業展開し、苦汁をなめた旧皇族である。三都和合名会社、神戸観光会社、
春日興行、春日倉庫、親切タクシーなど次々と会社を立ち上げたが、どれも
赤字だったという。

神戸観光はホテル業で、閑院宮の箱根強羅の別荘を現物出資して始め
られたが、失敗に終わる。現在は他人の手に渡り、広大な庭園にツツジが
咲き誇ることで有名なホテル「強羅花壇(ごうらかだん)」となっている。
春仁は後に純仁と改名している。



                                 竹田恒泰著  「皇族たちの真実」より





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十宮家のその後   「占領後の皇族」

十宮家のその後
 
 
竹田家についてはこれまで述べてきたが、一緒に皇籍離脱となった他の
十宮家のその後について述べることにする。

旧皇族の中で最も詳細な日記を残しているのは恐らく、梨本宮妃伊都子である。
(ローマ生まれなので「伊都子」と名付けられた)。伊都子の日記には皇籍離脱へ
至る心境や、その後の苦労などについての詳細が記されている。伊都子は皇籍を
離れた日の日記に「いよく小さく、くらさねばならぬ」と記し、また年末の所感
として「今年もとうとう終わる日となった。

実にめまぐるしく、ことに臣籍降下など、いままでにない大変化。生活も、
いよいよ小さく切りつめなければならぬ事。どこまでくるしむ事やら、はて
しもなし。しかし、病気もなく、ここまで、どうかこうかこぎっけてきたのは、
何よりであった」と記した。

梨本家は財産が368万円と査定され、256万円の財産税が課せられた。
梨本守正と伊都子は高齢だったこともあり、他の旧宮家と違って商売を
始めることはなかった。皇籍離脱に際して支払われた一時金は、財産税を
賄える金額ではなかった。

泣く泣く青山の土地の一部、河口湖と伊豆山の別荘を売却して財産税を
納付し、その後も美術品などを売って生計に役立てた。しかし、皇籍離脱と
なってから約3年後の昭和26年(1951)元旦、伊都子は最愛の夫、守正を
78歳で失う。守正の亡骸は火葬とされ、豊島ヶ岡御墓所に埋葬された。
皇族は土葬されることになっていたが、このとき火葬とされたのは、皇籍
離脱の折に守正が伊都子に「死んだときは火葬にしてくれ。そうすれば
土地も少なくて済むからね」と話したことを伊都子が実現させたからだった。
皇族もしくは皇籍離脱した元皇族が火葬されたのは近世以降、このときが
初めてのことだった。

昭和28年(1953)に秩父宮が薨去となったときも火葬とされたことは既に記した。
梨本家当主である守正には男子がなかった。昭和41年(1966)に久邇宮の
分家である龍田旧伯爵家より養子を迎えることになる。梨本家に養子として
入った徳彦に男子はなく、氏が梨本家の末代となる見込みである。

「最後の明治貴婦人」といわれた梨本伊都子は昭和51年(1976)8月に乳癌の
手術を受け、同月19日に95歳の波潤に富んだ生涯を閉じた。77年と6か月に
わたって綴られた日記は、昭和51年6月3日を以って絶筆となっている。
皇籍離脱した十一宮家の中で、梨本家のように現当主で断絶が見込
まれる旧宮家や、既に断絶となった家は複数ある。既に断絶したのは
三家、また継嗣がいないために現当主で断絶が見込まれるのは三家であり、
少なくとも次の世代以降も継続すると見えるのは、賀陽家、久邇家、
朝香家、東久邇家、竹田家の五家のみである

戦後わずか60年で十一の宮家が既に八家になっており、およそ四半世紀の
後には五家まで減少することが確定的となっている。東伏見宮は、当主の
依仁(よりひと)親王が大正11年(1922)に継嗣がないまま薨去となり、
東伏見宮妃周子一人で皇籍離脱に及んだが、昭和30年に妃が他界した
ことで東伏見家は断絶となった。

また、他に断絶となった山階宮と閑院宮は、それぞれ山階宮武彦王と
閑院宮春仁王に継嗣がなく、当主の薨去を以って、山階家は昭和60年
(1985)に、また閑院家は昭和63年(1988)に、いずれも断絶となった。

次に現当主が高齢である上に継嗣がいなく、別段養子を立てるなどが
されない限り、その代で廃絶となるのは、梨本家の他に伏見家と
北白川家が挙げられる。


                     竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より




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オリンピツク開催に尽カ 「占領ごの皇族」

オリンピツク開催に尽カ
 
 
皇籍を離れた後の恒徳の半生において、最も意義のある事業を挙げると
すれば、何といっても東京・札幌両オリンピツクの招致と実施であろう。
 
昭和28年(1953)から日本オリンピック委員会(JOC)の委員になっていた恒徳は
、昭和33年(1958)、JOCの中で国際スポーツ界に関係の深い人々と手分けをし
、東京オリンピツクの招致運動を展開した。東京は4年前にも立候補をして
いたが、ローマに破れていた。昭和33年11月、恒徳はヨーロッパ十四か国を
駆け回り、有力な国際オリンピック委員会(IOC)委員に日本での開催を訴えて
回った。

説得に訪れたIOC委員には、リヒテンシュタインのフランソワ・ヨセフ国王や、
モナコのピエール殿下(レニエ国王は元IOC委員)などの王族も含まれていた
。昭和34年(1959)、ミュンヘンで開催されたIoc総会にて、東京でのオリンピツク
、開催が決議された。アジアで初めてオリンピックが開催されることになった
のだ。恒徳はJOC委員長、そしてオリンピツク東京大会組織委員会副会長に
就任し、昭和39年(1964)の東京オリンピック開催に向けて尽力することになる。

昭和39年10月10日の東京オリンピック開会式の朝、前夜からの雨はすっかり
やみ、すがすがしい秋晴れに恵まれた。「天皇晴れ」である。恒徳は開会式に
御出ましになった天皇・皇后両陛下(昭和天皇、香淳(こうじゅん)皇后)の後ろで
説明役を務めた。オリンピックの開会式は選手の入場行進で始まった。この
行進で各国の選手団は開催国の元首に対して敬礼するのが慣わしであり、
この日は昭和天皇が選手の敬礼を御受けになる。しかし東京オリンピックに
参加した国と地域は九十四に上り、入場行進はかなり長い時間を要した。

そこで恒徳は、天皇がずっと御立ちになっていらっしゃったら御疲れになると
思い、国旗が御前を通るときには御立ちいただき、長いデリゲーションのときは
少し御休みになるように昭和天皇にお願いした。しかし昭和天皇は「国によって
差別をするのはよくない」と仰せになり、終始御立ち続けになられた。恒徳は
このときのことを後に「陛下は何事についても常に一視同仁(いっしどうじん)
であられる。
 
この時もまさにそのご姿勢で貫き通されたことは感激の極みであった」と記した
。東京オリンピツクがオリンピツク史上に残る大成功を収め、日本の歴史に
輝かしい一ぺージを添えることになったのは、ここであらためて語ることもなか
ろう。東京オリンピックは敗戦から復興を遂げた日本の初めての国家的イベント
であり、この成功は日本が国際社会に復帰したことを象徴するものだった。
東京でのオリンピツク開催が決定した後「冬のオリンピツクも日本で」という声が
高まり、札幌が立候補したものの、わずかな票しか取れずに落選。開催地は
フランスのグルノーブルに決定した。当時、冬季大会の開催地として札幌は
世界的に馴染みがなく、日本に雪が降ることすら疑われていたという。

しかし恒徳は諦めなかった。次の冬季大会はきっと札幌に誘致すると決意し
、ヨーロッパから中南米まで駆け回り、日本のウィンタースポーツの実情と
札幌の情報をIOC委員にアピールする。そして昭和41年(1966)にローマで
開かれたIOC総会で、ついに昭和47年(1972)の冬季大会の開催地が札幌に
決定した。恒徳はオリンピック札幌大会組織委員会副会長兼実行委員長と
して大会の開催準備に当たり、また昭和42年(1967)にはIOC委員に、そして
昭和46年(1971)にはIOC理事にそれぞれ就任した。

IOCはオリンピック大会の、主催者であるだけでなく、オリンピック・ムーブメント
を推進してアマチュアスポーツを正しく発展させる役割を担っている。そして
IOC委員は、IOCが適当と認めた人が任命され、その国に大使として派遣される。
したがって、IOC委員はその国の利益代表ではなく、これが国連などと異なる。
恒徳は、「私はそのことが国際的なスポーツの振興に最もふさわしい姿であり、
〈中略〉IOCが長続きしていきている、重要な特色の一つであると思っている」
と記した。

昭和47年2月3日、札幌オリンピックの開会式が行なわれた。アジア初の冬季
オリンピックである。当日の朝は雪が降っていたのだが、開会式直前に会場
の上だけが窓を開けたように明るくなり、昭和天皇が御到着なさる頃には、
太陽がカンカンと照りはじめ、眩しいほどになったが、開会式が終わると雪が
降り始めた。東京オリンピツク開会式と同様、札幌オリンピツク開会式の
この日も「天皇晴れ」として記憶されることになる。また外国人の間にも
「エンペラーズ・ウェザー」という言葉が有名になった。



                                     竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より



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