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「荻原」さんは、よく「萩原」さんと間違われます。
「はぎわら、じゃなくって、おぎわら、です!」
生まれてから今まで何回、訂正し抗議したことでしょう。だいいち「荻(おぎ)」という漢字を知らない人さえ、世の中には沢山います
中央線人なら「荻(おぎ)」はもちろん読めます。それは「荻窪」があるから。この荻窪という地名ですが、荻窪駅の西、環八と交差するところにある線路沿いの寺院、慈雲山萩寺光明院(真言宗豊山派)にルーツを求めることが出来ます。
なんと奈良時代、708(和銅元)年のこと、高僧「行基」自作の千手観音像を背負った修行僧が、ここまではるばるやって来ました。けれども背中の観音様の重さに負け、ついにこの地で歩くことが出来なくなってしまったのです。修行僧は、
「これはきっと、観音像がここに安置されたいからに違いない」
と(都合良く?)解釈し、付近にたくさん生えていた荻を刈り取って草堂を作り、そこに観音様を安置。この草堂を「荻堂」と名付けました。 これが光明院の縁起なのです。
「荻(おぎ)」という植物は、イネ科ススキ属の多年草で原野の水辺に群生します。学名はMiscanthus sacchariflorus。ススキの一種と考えればいいですが、ススキよりは大型で高さは2メートル前後。花穂はススキに似ていますが、大形でふっくらとし、白みが強い色をしています。茎は堅く、草庵を結ぶには十分な強度を持った植物です。オギという名前は、その風になびく姿が、まるで「招き寄せる」ように見えるため、「おぐ」(招)が「おぎ」に変化したものと言われます。そうした荻の群生する窪地であったため「荻窪」という地名が自然発生しました。
荻窪駅の4番ホーム(快速・新宿方面乗り場)の新宿寄りの線路際に、雑草が生い茂っている「荒れ地」みたいな一角がありますが、これは荻を生やしている場所なのです。「荻」は今や東京では珍しくなってしまった植物ですから、このようにして「荻窪」の地名の由来を教えてくれているのです。
ところで、荻野(おぎの)さんも萩野(はぎの)さんと間違われることもありますが、荻原さんほどの頻度ではないかも。なぜなら「荻野」には「荻野式」避妊法というのがあって、「オギノ」という単語は、わりと人口に膾炙しているからです。
「オギノ式」は、考案者の産婦人科医、荻野久作博士の名前によります。1924(大正13)年に荻野博士が提唱されたのが、「排卵は周期日数に関係するのではなく、次回生理の初日から逆算 して14日±2日にある」とした理論。よく「オギノ式避妊法」と言いますが、実際に荻野博士が研究したのは不妊対策の「懐妊法」であり、いかに妊娠の確率を「高めるか」の研究でした。それが避妊に逆利用されただけなので、「オギノ式避妊法はよくはずれる」なんていう批判は、最初から的はずれなのです。博士も自らの理論が避妊に使われることは不本意で、しかも不確実とわかっていましたから、生前さまざまな機会で抗弁していたとのことです。
荻野久作博士は愛知県豊橋の出身で旧姓中村。中学生時代に荻野忍さんの養子となって荻野姓を名乗ります。養父の忍は、愛知県にあった西尾藩の家臣で、お殿様である松平乗秩(のりつね)とともに東京に転居。乗秩の子、松平乗承(のりつぐ)が日本赤十字社の副社長となったときに、忍も日赤に入社して人事係長を務めました。が、医師ではありませんでした。
さて、無関係な話しを長々して、何が言いたいかと言いますと、この「荻野」という姓の人に、江戸時代から有名な医師が多いという不思議です。
荻野博士のほかで有名な荻野医師は、「日本の女医第1号」として知られる、荻野吟子さんです。彼女は埼玉県熊谷の名主、荻野綾三郎の娘で、久作博士や忍とはまったく無関係。
もうひとりの荻野医師は、江戸時代の医者「荻野松庵」。これを言いたいが為に長々オギノ式を語りました(笑)。
西荻窪の南に「松庵」という地名がありますが、これは「荻野松庵が開拓した新田」だから、その名前があると言われています。杉並区教委区委員会が、西高井戸松庵稲荷神社に建てた説明版には、
「松庵村は万治年間(1658〜1660)に松庵という医者が開いたと伝えられ、安養寺(武蔵野市)の供養塔にある荻野松庵がその人ともいわれています。境内入口には元禄3年(1690)、元禄6年(1693)銘の庚申塔があり、元禄3年のものには「武州野方領松庵新田」と刻まれています。このことから元禄3年以前にはすでに新田開発の村として開かれていたものと考えられます。」
とあります。
武蔵野台地の新田開発は、大都市江戸の食糧生産量増大という目的とともに、失業者(浪人)対策という意味もありました。また「一山当てよう」という気持ち満々の人も開発に乗り出しました。荻野松庵も、そうした中の一人なのかもしれません。新田開発には、水が不足するなど大変な苦労があったようですが、こうした先人たちの努力によって、中央線沿線は開拓されていったのです。
今回、話しの脱線が過ぎて、一時はどうなることかと思いましたが、なんとか中央線の範囲内に収まりました。ほっ。
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