命のデモ行進

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生命真理としての肉食

モンゴル平原の遊牧民のような肉食主体の人々と、私たち現代社会における肉食との違いを、私なりに考えてみました。
それに言及する前に、私の論理的姿勢について、まずはみなさんに理解していただきたいと思います。


私は現代科学というものに有用性を感じていません。
むしろ、科学は不要であるばかりか、場合によっては非常に有害であると考えます。
科学は、前後ろを逆にはいたズボンのように、足をいくら深く入れても体にフィットすることはありません。
宇宙や生命の真理に科学がたどり着くことはなく、科学にできるのはただ、「科学では真理にたどり着けない」という絶望感を誠実に認めることぐらいだと考えます。
とある方とのネット上の議論で、以下のような意見をいただいたことがあります。↓

限界(適用範囲)やリスクが明らかになっているかどうかが科学か科学でないかの重要な判断基準のひとつである。

この意見は科学の本質を的確に表現するものです。
科学には、遠く宇宙の果てからミクロの世界の最小の単位まで、あらゆる状況に対応できる法則といったものは、永久に見つけられません。
この世界を取り巻く真理・法則といったものは、ここからそこまでを切り取って「はいこのとおり。それが真理です」といった形で、断片的に示すことは不可能なのです。
むしろ私たちが住むこの世界の真理は、イマジネーションの拡大を通して体感することでしか、把握できないもののように考えます。
科学には、体感したリアリティを数式に置き換える能力、翻訳する能力がありません。
能力がないにもかかわらず、科学者達はその不毛な取り組みを続けます。そこに未来はありません。
ですから、私は科学と隔絶した、全く別の観点から物事を論じる必要があると常々感じていました。
そのような姿勢で述べられる主張には、「はいこのとおり。」と指し示せる証拠がありません。
「証拠がないなら真理とはいえない」は科学による主張であり、本来真理には、人間の理解能力に合わせた箱庭的な証拠など、提出のしようがないのです。
ですから私は、証拠よりも論理の整合性、矛盾のないこと、そういった点を重視します。
証拠の提出を考慮しないことにより、科学に手の届かない事象にもイマジネーションを広げることが可能になります。
宇宙の始まり、生命の起源、命は何を目指し、目指す先には何が待つのか。
おそらく人類の中でも、そのような真理に到達した覚者は科学者の中には存在せず、イマジネーションを無限大に広げることで、わずかながら到達した方がいるというのが、人類の業績の正確な評価だと思います。
「わずかな覚者のみが真理に到達できる」というのは、科学思想に毒された現代人のいわれのないあきらめでしかありません。
「人間は誰しも覚者の萌芽を宿しており、その扉を開くヒントさえ与えられれば、一瞬で真理を体感できる」というのが、私の根幹主張です。
21世紀は、人類が証拠という形でいびつなピラミッドを積み上げることを止め、イマジネーションという鳥瞰図を手にして羽ばたく時代なのです。
「百匹目の猿」という現象が示唆されています。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%8C%B9%E7%9B%AE%E3%81%AE%E7%8C%BF%E7%8F%BE%E8%B1%A1
これを認める科学はありませんが、真理に触れる事象であると私は考えます。
たった一匹のサルが獲得した発見・気付きは、空間を飛翔し、他のサルへと伝播します。
これは、人間にも当てはまることなのです。
「肉食からの卒業」は、そうした人類進化のひとつのカギです。
ある一定量の人間がそれに気付いた時、一気に加速し、人類総体としての意識は急激に刷新されるでしょう。
私はそのように考えます。


このような考えに到った経緯については、また別の機会に詳しく述べることとしますが、私の考えの根幹がそうであるため、私の主張は全く科学ではありません。
科学に慣らされた常識的な思考では、私の主張は時に突飛で、ナンセンスな印象を与えることもあるでしょう。
私は、その点に臆病になるつもりはありません。私が目指すのは、科学よりもより真理に近い洞察です。

さて、本題に入りましょう。
人類の有史以前から遊牧という生活スタイルを続ける人々の肉食と、現代社会の肉食ではどのような違いがあるのか。
これを「調和」という観点で捉えた時、両者の違いは明確であると考えます。
モンゴル平原の遊牧民が5000年もの間、生活を維持し続けられたのも、そこに調和があったからでしょう。
ここには、遊牧民達が環境から手に入れたものは、彼らがそれを排泄物として環境に返す時、構成する原子の一粒さえ余さずに還元されてきたのでしょう。
いうなれば、モンゴル平原という環境のほうから遊牧民を要請し、羊や山羊の群れも生存のパートナーとして遊牧民を受け入れたわけです。
だから、非常に長い期間全く矛盾することなく環境が循環することができたのでしょう。
逆に、たった原子の一粒でさえ、環境に帰る筋道を失い、孤立したまま残存していたならば、この生活スタイルを維持することは叶わなかっただろうと思います。
仏教用語に業(カルマ)というものがあります。↓

『業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD

もちろん、業(カルマ)の考えは科学によって支持されていませんが、「宇宙真理」の可能性を認めた時、法則として矛盾しない思想だと考えます。
遊牧民達が、何世代にもわたって、環境に深刻な業を残し続けていたならば、民族的繁栄はありえず、この生活形態はどこかで崩壊したことでしょう。
アメリカ大陸のインディアン、オーストラリアのアボリジニ、日本のアイヌ、そういったアミニズム文化の多くも、環境と調和していたからこそ、それぞれの地域で繁栄できたわけです。
これらの民族が行なってきた肉食は、人類進化の観点からは決して無害だとは思いません。
しかしそれは、サバンナでライオンが姿を消したら環境サイクルが崩壊してしまうのと同じように、環境自体がそれらの民族の出現を要請し、それに答える形で自らの役割を担って民族が繁栄したという点で、環境的に無害なのです。
余談になりますが、この考えは、現在の進化論と真っ向から対立します。
科学が述べる進化は、まず進化する生物が最初にあって、それに合わせて環境が変化してきたというものですが、私の考えはこれと正反対です。
まず最初に、草食動物が繁栄しすぎて調節を必要とするという環境からの要請があって、そこにライオンなり遊牧民なりがその役割を担えるように、形態的あるいは思想的な変化を整えてきたのではないか。
この考えに照らせば、ダーウィンの自然淘汰説、ドーキンス「利己的な遺伝子」説などは、非常に多くの矛盾を包含した仮説であると感じます。(この点に関しては、また機会を見つけて、より詳しく述べたいと思います。)
とにかく、遊牧民らの肉食が、人類進化の観点からは決して無害ではないとしても、環境の観点では全く無害であるという点は、現代社会の肉食との大きな違いでしょう。

さらに、「精」あるいは生命エネルギーという点から考えた場合、両者には大きな違いがあると考えます。(生命エネルギーという呼び方がふさわしいのかわかりませんが、ここではそう呼ぶことにします。)
これも科学は一切肯定しないでしょうが、他者の命をいただくということは、他者がその生において体感した記憶・心象世界をいただくという側面があるように思います。
私たちは、誰かを見、誰かに見られます。
他者の姿がなぜ目に映るのか。それは、他者が生命エネルギーを発しているからです。
つまり、容易に生命は空間を飛躍し、想念は環境に影響を与えるのです。
ですから、人の想念が水の結晶の美醜に影響するという「水からの伝言」は、それをニセ科学として退けようとする蒙昧な現代科学思想より、はるかに真理に近い考えであると思います。
水の結晶に与えられた想念によって美醜の差が現われるように、生き物それぞれの「精」にも、生きてきた環境によって精妙さや清浄さに差が出てくると、私は考えます。
つまり、自然と共に生き成長してきた生物の「精」は尊く業によって穢れていない、いわば「きれいな結晶」であるのに対し、養鶏場の息苦しい環境で育った「精」は「汚い結晶」なわけです。
これらは食料として体内に同化する時、大きな違いをもたらすと思います。
山すそから湧き出る水と、塩素消毒された水道水とでは、飲み続けることによって健康に大きな差異が生じます。(「精」の違いは、霊的な側面で生じるものですが、このような比喩をあげれば、私の主張も少しはわかりやすいかと思います。)

そしてもう1つ、その生き物が捕獲された状況も、「精」に影響するのではないかと思います。
もっとも崇高な「精」を、捕獲した生き物から得ようとするならば、生き物が対峙する人間を自らの命を与える存在と認める(見止める)瞬間が必要ななのではないか。
たとえば、アイヌが一本の弓矢でヒグマを仕留める瞬間。ヒグマにとってその瞬間は、自らも他者の命を糧としてきた経験から、納得せざるを得ない瞬間なわけです。
ヒグマの「精」は、正当な力と力のぶつかりによって認めた相手の中で同化し、それまで自然の中で培ってきた強さを、相手の中で現すわけです。
それは、自然の中で生きるアイヌにとって、必要不可欠な力の贈与でもあります。
ところが、現代の銃と猟犬を伴った集団狩猟では、多少意味合いが違ってきます。
「卑怯」という感覚がそこに介入するわけです。
「卑怯」感がより小さな形でこそ、自らの「精」を他者に同化させることに対する諦観がもたらされるのではないか。
言うまでもなく、最も「卑怯」な食肉生産は、養鶏場でしょう。
生まれた時から自由を得ることもなく、食べられるために育てられるニワトリにとって、諦観は存在しません。「精」のレベルで納得することが決してないのです。
自然の中で正当に仕留めた肉と、ブロイラーの肉。科学的にはなんら違いはありません。
科学には、果物が自然の恵みとして蓄えたビタミンと、工場で加工されたビタミンの違いも判断できません。
でも、そこに大きな違いがある。私はそう考えます。
そのように考えると、有名シェフのコショウの一振りで、料理のグレイドが格段に変わると思い込まされているグルメ思想には、真の「妙味」は存在せず、本当に力のある「食」を追求したいのなら、テレビ番組などに振り回されずに、自分で狩り¼ͼ???に行け〜!ということになるかと思います。

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