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河和海軍航空隊

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神風特別攻撃隊御楯隊河和隊

昭和20年の昨日、8月13日、第2河和海軍航空隊で編成された「神風特別攻撃隊御楯隊河和隊」の第1小隊に命令が出た。
 
零式観測機で、15日未明に沖縄のアメリカ艦隊に対して特攻出撃せよ。
 
250kg爆弾が零式観測機に積まれ、特攻隊員は遺書と遺髪を準備した。
 
零式観測機は、偵察や着弾観測に用いる2人乗りの水上機である。
 
昭和20年2月、第2河和海軍航空隊は、水上機による特攻隊を編成した。
 
 この特攻隊は、昭和20年8月5日に河和から深江へ出発した零式観測機35機の一部である。
 
一部の隊員は、特攻に使用する零式観測機を受け取るため7月に別の航空隊へ鉄道で向かっていた。
 
河和でも特攻の準備は着々と進められていたのである。
 
特攻隊員は、特練舎と呼ばれる兵舎に集められ、特攻訓練を行った。
 
特攻隊員がいた場所は、戦後、区画整理がされ当時の面影は全くない。
 
終戦直後に米軍が撮影した航空写真と現在の地図を比べて、やっと、おおよその場所は特定できた。
 
ある河和の若者は、地元で特攻隊が訓練していた、と初めて聞いたと言っていた。
 
8月13日に命令を受けた特攻隊であったが、翌14日に出撃中止の命令がされた。
 
そして、15日に終戦となった。
 

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河和海軍航空隊の戦友会

第1河和海軍航空隊の戦友会を知ったのは、会が解散する年だった。
 
「河和空集いの会」という。
 
昭和50年から平成17年に30回、日本各地で会合が行われていた。
 
若僧の不躾な質問にもかかわらず、多くのことを教えてもらった。
 
いつの日か、このご厚意には報いたいと思っている。
 
 
第1河和海軍航空隊は、飛行機の整備教育を行う練習航空隊である。
 
現在の愛知県美浜町(旧河和町)にあった。
 
同じ河和町にあった第2河和海軍航空隊とは、「上の航空隊(第1河和空は丘陵部に立地したことによる)」、「下の航空隊(第2河和空は海岸部に立地したことによる)」と呼ばれることもあるほど隣接していたが、海軍内の組織は別々の航空隊であり、戦友会も別々に存在していた。
 
イメージ 1
 
第1河和空には、防空指揮所、対空機銃陣地の掩体、兵舎基礎などの遺構が今も残っている。
 
 
 
イメージ 2
 
防空指揮所は半地下式のコンクリート製構造物で、おそらく愛知県内の海軍施設としては保存状態がよいものの一つである。(写真は防空指揮所入口付近)
 
第1河和空の資料は第2河和空に比べると少なくて、その実態はわからないことが多い。
 
かつては、何棟もの兵舎がならぶ建物群があった場所であるが、現在は田園地帯になっている。
 
日が沈んでから訪れると、真っ暗である。

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第2河和海軍航空隊の門柱、現在

 もう何回もこのブログで紹介しているが、写真は第2河和海軍航空隊の門柱である。
 
イメージ 1
 
河和中学校の敷地にあり、写真の右側は道路である。
 
イメージ 2
 
現在でも「隊門」と呼ぶ人がいる。
 
 
 河和海軍航空隊を調査している山下泉氏が数年前に、ある冊子へ終戦間際に隊門付近で戦死された方の話を書いた。
 
冊子が出た翌日か翌々日に、この門柱の上にコップ酒とタバコが供えてあったそうである。
 
もちろん、誰が供えたのかわからない。
 
 
戦後になっても、このような出来事が起こる門柱である。
 
 現在の文化財保護行政において、日本に人間が住み始めてから中世までの遺跡は工事などで破壊されるおそれがある場合、事前に届出が義務づけられている。
 
届出は先ず市町村教育委員会に出され、意見が付けられて都道府県教育委員会に送られる。
 
中世までの遺跡は、破壊されるにしてもワンクッションあって、制度上緊急調査なりなんらかの措置が一度は講じられる。
 
しかし、太平洋戦争に関係する遺跡には、このワンクッションがないので調査もされないまま消えていくこともある。
 
基本的な制度外なので戦争遺跡に対して、どう考えるかで対応は全く異なる。
 
一方で調査が及ばず戦争遺跡かどうかもわからないまま壊されることもある。
 
 
 先日、久しぶりに門柱の前を通った。
 
いつの間にか、門柱付近に縁石が造られていた。
 
でも、門柱の横で止まっていた。
 
破壊も検討されたのだろうか、工事の事情は知らない。
 
 
でも、門柱は航空隊の時から残っている。

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旧都築紡績内の第2河和海軍航空隊施設雑感

 愛知県美浜町内に「都築紡績河和工場」があった。
 
戦後、第2河和海軍航空隊の跡地に造られた工場なので、最近まで航空隊の遺構がいくつか残っていた。
 
平成17年に工場の取り壊しがあり、工場の建物・施設等は全てなくなった。
 
現在では、エプロン(駐機場)のコンクリートが一部残っている。
 
 
 取り壊しまで、用途不明の水槽が残っていた。
 
イメージ 3
都築紡績正門のすぐ右に守衛所があった。
 
さらにそのすぐ奥に、水槽があった。
 
取り壊し直前に、地元の教育委員会が調査している。
 
大きさ等の詳細は『河和海軍航空隊調査報告書』を参照されたい。
 
報告書では防火水槽か、と推定されている。
 
 
イメージ 2
都築紡績跡地の国道沿いにはホームセンターとスーパーマーケットが造られ、開店した。(写真奥の建物)
 
その他の跡地は、ほぼ砂利敷きになっている。
 
イメージ 1
写真中央の木は、戦後に都築紡績が植えたものだろうか。
 
もしそうだとしたら、戦後の紡績産業が華やかだった頃を感じる。
 
広大な土地であるが、それでも第2河和空の基地の一部でしかない。
 
基地建設のため流路を変更させた「大川」という川も、もとはこの敷地内に河口があった。
 
改めて、工事の大きさを思う。

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第1河和海軍航空隊と原爆の影響

昭和20年8月に広島と長崎に米軍は原爆を落とした。
 
日本は原爆の被害調査を行い、白い衣類を着ている者に被害が少なかったことがわかった。
 
そのため、昭和20年8月11日(土曜日)、第1河和海軍航空隊では軍服の一部を漂白した。
 
第1河和海軍航空隊とは、現在の愛知県美浜町(当時は河和町)あった飛行機の整備教育を行っていた航空隊である。
 
大量に漂白処理をしたため失敗も多かったらしい。
 
この作業を行った兵員浴場の壁が今でも田園の中に残っている。
 
イメージ 1
 
終戦後に米軍が撮影した写真などを見ると長細い施設だったようである。
 
壁も長細く残っている。
 
イメージ 2
色々調べてみたが、壁のどちら側が当時の外側だったのか、わからない。
 
 
 
地元の小中学生のみなさん、身近な所にこのような遺構が残っている。
 
原爆と美浜町をつなぐ唯一の遺構である。
 
 
参考文献
山下 泉・伊藤厚史・磯部利彦2007『河和海軍航空隊調査報告書』

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