虚実ヒストリー〜ものがたりの歴史II(Yahoo!Blog版)〜

ドラマ、漫画、アニメ、映画、文学が描いた歴史物語、虚実歴史劇の世界(文字サイズ→ 「中」をお勧め)

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『梅ちゃん先生』で梅子がインターンに

舞台は昭和26年、1951年である。
『ブラックボード』第1夜と『南極大陸』の間の時代に相当する。
 
『純情きらり』の最終回の時代から3年後か。
梅子は1945年当時16歳。1929年生まれとすると桜子より9歳年下であった。
 
終戦当時16歳で、戦後教育では高校1年か2年に相当する年齢である。
これは『ブラックボード』第1夜における主人公(出征して復員した社会科教師)の教え子たちと世代が重なる。
 
1951年には『巨人の星』のプロ野球編の星飛雄馬が生まれた。
 
堀北真希は『篤姫』で和宮を演じ、高橋克実は『龍馬伝』で西郷隆盛を演じた。
『篤姫』での西郷役は小澤征悦(『蒼穹の昴』の日本人記者、『ハンチョウ』の尾崎警部補)。
 
 

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『水戸黄門』第43部最終回「嗚呼、人生に涙あり』に関して追加

柳沢吉保と藤井紋太夫が放った刺客は光圀の「人格」に屈した。
柳沢吉保と藤井紋太夫自身は光圀が持っていた印籠の中の「家康の遺骨」に屈したようだ。
 
刺客は柳沢と藤井に雇われただけなので、刺客自身には光圀に対する恨みはなかった。だから人間・光圀の人格に触れて暗殺をやめたのだろう。
一方、柳沢と藤井は金と権力で人や世の中を見ている者たち(という設定)だったので、家康の遺骨に平伏したわけだ。
 
『水戸黄門』で光圀に頭を下げる人には2種類いる。
まず、光圀個人に頭を下げる人たちと、印籠などの葵の紋に頭を下げている人たちだ。
光圀個人が人間として偉ければ光圀が「越後のちりめん問屋の隠居・光(右)衛門」であっても同じはずだ。
一方、光圀が光圀だとわかって初めて平伏した人たちは徳川の権威に頭を下げているだけで、光圀個人でなく中納言の地位に平伏しているのであり、その徳川の権威とは関ヶ原で勝利した徳川家康の権威である。
 
「嗚呼、人生に涙あり」は人格への平伏と身分への平伏という2種類の「権威主義」が描かれた作品であった。
そのあとの2時間スペシャルでは横内正から大和田伸也、伊吹吾郎を経由して的場浩司まで印籠のリレーがおこなわれた。
印籠とは所詮は「印鑑または薬を入れる入れ物」に過ぎない。それに平伏する武士たちは滑稽だ。
もし水戸光圀が本当に民百姓のための政(まつりごと)を考えていたのなら、徳川の紋所の前に大勢が土下座する世の中など終わらせたかったに違いない。光圀が印籠を出さず、正体を明かさず、ちりめん問屋の隠居と思われたままで何事もなく旅が終わるのがよかった。つまり印籠で相手を平伏させる手段は光圀にとっても不本意だったわけだ。
それが『水戸黄門』のスタッフが最後に言いたかったことかも知れない。
 
考えようによっては純粋に水戸光圀(徳川光圀)を主人口にした『水戸黄門』は月形龍之介の時代までだったにかも知れない。あるいは東野英治郎の時代の初期、主に杉良太郎が助三郎役だった時代まであろう。初期の東野黄門では印籠シーンが定着しておらず、始まって2年か3年くらいで定着した。最初に脚本に入れたのは宮川一郎らしい。西村俊一は『歴史への招待』で印籠提示を「権力悪への批判」としていたが、権威主義的であることは確かだ。
『江〜姫たちの戦国〜』でのNHK大河ドラマ50作を記念したガイドブックで、民放時代劇のスタッフの一人として『水戸黄門』の中尾幸男チーフプロデューサーは「印籠という人間でない物が主役になっている」として、「印籠も毎回出るわけじゃないし、由美かおるも毎回お風呂に入るわけじゃないが、そういうイメージが定着している」とコメントしていた。
 
つまり、ナショナル劇場の『水戸黄門』では東野黄門の初期から印籠が主人公となっており、西村黄門の途中から「入浴する由美かおる」が主人公となってしまった。ナショナル劇場のスタッフは『水戸黄門漫遊記』を題材にしてホームドラマを描こうとして、試行錯誤の末に、「家紋の描かれた薬入れ」と「入浴中の女優」が注目されるバラエティ番組と化していた。
 
『水戸黄門』終了は「時代の流れ」と言われるが、1969年に始まった時点充分に古かった。『水戸黄門漫遊記』は幕末〜明治維新から1世紀経過した1960年代で終わっており、1970年代から2000年代まで続いていたのは「印籠」がメインの時代劇であり、さらに1986年から四半世紀の間は「入浴シーン」が視聴者の関心の的になっていた。脚本は完全に無視されていたわけである。
 
春日太一氏が指摘したようにナショナル劇場の『水戸黄門』のパターンは同じ曜日の同じ時間帯に1時間番組を毎週見る視聴者の生活リズムに合わせた結果、形成されたものだった。
スタッフにとって本当の『水戸黄門』は印籠が出たり出なかったりした初期の東野黄門であり、印籠が定番化したほうが異常で、その異常な状態が40年続いてしまった。異常な姿が本道とされるようになったわけだ。スタッフは石坂黄門で印籠の出ない話を復活させるなど、何度か『水戸黄門』を「本来の姿」に戻そうとしたが、そのつど、多くの視聴者からのクレームに遭って、印籠シーンを定番化させるしかなかった。
 
石坂・里見黄門のスタッフが21世紀に印籠のない『水戸黄門』を作って月曜夜8時に放送すると視聴者が抗議するが、これが初期の東野黄門であれば「昔は印籠が出ない話もあった」ということで視聴者も納得するだろう。東野黄門であれば「由美かおるのお風呂」などないほうが当たり前である。
幸い、初期の東野黄門はTSUTAYAでレンタル可能であるし、『水戸黄門』終了と前後して東野黄門がDVD化されている。
 
結局、どう考えても、スタッフは『水戸黄門』の本放送をやめて再放送とDVDだけを視聴者に提供してゆけばいいという結論になるわけだ。
 
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2070年の環境と経済予測

2070年代、懐にも厳しい夏という見出しがあってクリックすると<2070年>暑さ対策費、00年代の1.6倍 筑波大試算という毎日新聞の見出しが出た。
 
1975年『小六』3月号に掲載された『ドラえもん』の「ツチノコ見つけた!」によれば、2045年にツチノコブームが起きるようだ。
 

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非主水と仕置人と仕事人(時代順)

 
___非主水_前期主水_後期主水
元禄_助け人__________ 高田馬場の決闘
元禄__________仕事人_ (『必殺忠臣蔵』)
天明
1785__________仕事人_ 壇ノ浦の合戦から600年(『仕事人V』)
天明_________┐____
寛政_________┴仕事人_ 主水が長谷川平蔵と会う( 『三日殺し軍団』)
寛政┐_____________
化政┴仕掛人__________
化政_____仕置人______
化政_助け人__________ 主水登場を文政と假定
化政_仕事屋__________ 仕事屋の活動期間を化政年間と假定(検索
文政_____仕業人______ 脚本段階では文政(第1話では天保)
化政_____新仕置人_____
化政__________仕事人_
1819______________ ( 『旋風編』)
1820______________ ( 『裏か表か』 )
1820〜21____________ ( 『仕事人2007』『仕事人2009)』
1828〜29____________ シーボルト事件(『春雨』)
1832_からくり人_________ 鼠小僧処刑
1833_まっしぐら_________
1835_________仕事人__ ハレー彗星接近(『激闘編』、天保の場合)
1839_からくり人_________ 蛮社の獄
1841_________仕事人__ 家斉没(『風雲竜虎編』)
1841_____仕置屋______ 鳥居甲斐守が南町奉行に
天保_____仕業人______ 第1話で又右衛門が見ていた占いの本より
1841_________仕事人__ 鳥居甲斐守が南町奉行に(『江戸警察』)
1842_________仕事人__ (『仕事人アヘン戦争へ行く』)
1843_渡し人__________ 玉屋の火災をこの時代と推定
1843________┐_____
1844________┴仕事人__ (『意外伝』)
1844_新から__________ 高野長英脱獄(糸井貢が関与?)
1844_________仕事人__ 鳥居失脚(『江戸警察』)
1849_富嶽百景_________ 葛飾北斎没
1849_________仕事人__ 葛飾北斎没
1850______________ 高野長英没
1851_仕切人__________ 辛亥の占いブームが嘉永年間と假定
1851_________仕事人__ (『主水死す』)
1853_____仕留人______ 黒船来航
1853_助け人__________ 最終回の将軍死去から推定
1854_____仕留人______ 黒船再来、横浜で日米会談
1858_________仕事人__ 安政の大獄( 『大老殺し』)
1860_________仕事人__ 桜田門外の変( 『大老殺し』)
1863_________仕事人__ 清河八郎没(『横浜』)
1866_________仕事人__ (『ブラウン館』)
1868_________仕事人__ 鳥羽・伏見の戦いで佐々木只三郎没(『横浜』)
1868_血風編__________ 幕末のからくり人活動

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『水戸黄門』終了は「打ち切り」か?

『水戸黄門』終了は「打ち切り」か?
『水戸黄門』の終了を「打ち切り」と呼んでいいか疑問に思えてきた。
水戸黄門 打ち切り水戸黄門 打切 で検索すると終了を嘆く意見のほかに、「由美かおるの入浴がなくなったせい」とか「2001年の石坂黄門の時代に打ち切りが避けられなかった」というように「犯人捜し」に躍起になっている論調が見受けられる。しかし「打ち切り」とは例え半年の予定のドラマが3箇月で終わったような場合を言うのであって、『水戸黄門』が42年続いても「打ち切り」であるのなら、西暦2050年ごろまで80年以上も続くはずの時代劇だったのであろうか?
2011年7月半ばに終了が報道され、12月に終わる予定とされて、そのとおり、12月12日に1時間枠の第43部が終了し、翌週の12月19日に最終回スペシャルもあったのだから、「打ち切り」ところが予定どおりの話数で終わったと見なすべきだろう。
石坂黄門を終了の原因とする意見もあるが、その石坂黄門の時代から里見黄門になって終了するまで、『水戸黄門』が10年続いたのだから、石坂黄門は『水戸黄門』を終わらせたのでなく、逆に終了を10年伸ばした功労者と考えるべきだ。むしろ20世紀末で終わっていたはずの『水戸黄門』が石坂・里見黄門のお陰で2010年代まで延命されたと考えるべきであろう。

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開設日: 2008/3/31(月)


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