岩本康志のブログ

経済,財政の話題を折に触れて取り上げます

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 日本のデフレ脱却策としてヘリコプター・ドロップ政策を提唱したものとして有名なのは,バーナンキ米連邦準備制度理事会議長の2003年の講演「Some Thoughts on Monetary Policy in Japan」(http://www.federalreserve.gov/boarddocs/speeches/2003/20030531/default.htm )である。彼の提案は,政府が国債発行で減税をし,日銀がその国債を保有する。同時に日銀は物価水準目標をもち,デフレ脱却後はそれに沿って物価をコントロールする。

 バーナンキ氏の講演ではモデルは提示されず,数字も入っていない。バーナンキ氏が提案した政策のモデル分析は,ボール教授によっておこなわれている(Ball, 2008)。ボール教授の分析の概略は以下のようになっている。
 モデルはIS曲線とフィリップス曲線をもつ,オールド・ケインジアン・モデルである。シミュレーションの出発点は2003年である。そのときの自然利子率は-2%であって,経済は流動性の罠に陥っている。自然利子率は毎年0.4ポイント上昇し,10年後には2%になり,それ以降は2%で一定である。金融政策はテーラー・ルールにしたがうが,テーラー・ルールが負の金利を示唆するときには,ゼロ金利とする。
 ヘリコプター・ドロップ政策をとらないで,ゼロ金利を継続してデフレ脱却を目指す場合の経済は,以下のように動く。経済は流動性の罠にあるため,最初から11年間はゼロ金利である。最初の4年間は政策金利がゼロでも自然利子率を上回るので,金融政策は不本意に引き締められている。そのため,当初のインフレ率は-1.5%になり,最初の10年間はデフレになる。GDPギャップは最初の9年間は負であり,累計で潜在GDPの54%に及ぶ。ゼロ金利解除までは量的緩和がされているため,ゼロ金利と量的緩和を解除するために日銀は国債を売却し,市場に流通する国債残高がそこで上昇する。この国債売りオペはGDPの8%の規模になる。
 これを基準ケースとした後,ボール教授は以下のようなヘリコプター・ドロップ政策を考える。
・最初の4年間に,流動性の罠で生じるGDPギャップを埋めるだけの減税を実施する。減税は1年のラグをもって経済に影響を与えるので,自然利子率が負である期間のGDPギャップを埋めようとしている。初年度はGDPの6.6%の規模で,その後は漸減するが累計で9.4%の規模になる。
・減税と同額の貨幣の発行がおこなわれる。
・2年後から5年後までのGDPギャップはゼロになり,それ以降は減税政策がラグをもって効果が出るため,GDPギャップは正になる。期間累積のGDPギャップは-5%である。
・3年目にインフレ率はゼロになる。
・ゼロ金利にある期間は基準ケースより2年短くなり,9年間になる。10年目にゼロ金利と量的緩和を解除する時点で,日銀は国債を売却する。規模の具体的記述はないが,図から判断すると基準ケースよりも規模は大きい。
・GDPギャップが改善する増収とインフレ税による増収は財政出動の費用を上回り,長期の公債残高は基準ケースを下回る。
・減税の財源を貨幣発行ではなく,公債発行としても実体経済への影響は同じである。

 ボール教授の分析から,以下のような含意が得られる。
 数値は2003年当時の日本を念頭に置いているが,マクロ経済学でなじみの深いモデルに立脚しているので,ボール教授の分析は流動性の罠のいろいろな状況に適用できるものである。
 通常の財政政策(公債発行による財政支出拡大)とヘリコプター・ドロップ政策の効果は同じである。両者で違うところは,日銀が短期債を購入して貨幣を増やすか否か,である。これはゼロ金利のときに完全代替になる資産を取引しているだけなので,実体経済への影響がない。つまり,「流動性の罠」での狭義の量的緩和に効果がない,という帰結と同じことを意味している。
 したがって,ヘリコプター・ドロップ政策の効果は,財政政策の効果として生じている。そのため,例えばリカードの等価命題が働くとするならば,公債発行による減税は無効であって,ゼロ金利の期間だけ公債を貨幣に変えても,やはり無効である。財政政策には効果がないと考えている人は,当然にヘリコプター・ドロップ政策にも効果がないと考えなければいけない。財政政策の効果が小さいと考えている人は,ヘリコプター・ドロップ政策ではGDPギャップが十分に埋まらないと考えることになるだろう。
 短期債ではなく長期債を購入すれば効果があるかというと,「通貨発行益」(http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/33222258.html )で説明した通り,長期金利が将来の短期金利の期待値で決められている場合には,長期債でも同じことになる。また,バーナンキ氏が講演で紹介したボンド・コンバージョン(注1)が採用されたときは,短期債を購入したのと同じことになる。したがって,ボール教授が短期債を購入する設定としたのは,決して制約的なものではなくて,むしろ最も現実的な政策の設定である。
 ボール教授のシミュレーションでは税増収とインフレ税によって財政支出額以上の財源が生じているが,これは通常考えられているよりも非常に大きな政策効果が出て,税収が増えると考えていることによる。乗数(財政支出額に対する所得の増加額の比)を計算すると,支出の累計がGDPの9.4%で,GDPギャップの改善の累計は39%であるから,約4となる(累計値の比なので,くわしい名称は累積乗数である)。租税負担率(税収のGDPに対する比)を25%と設定しているので,GDPギャップの改善による増収は財政支出に匹敵する規模になる。
 モデルでは,財政支出の増加は1年のラグをもって1.25倍のGDPの増加につながるとされている。1.25という乗数はさほど大きくないように見えるが,これはインパクト乗数(最初に現れる効果)であって,それ以降,前年の60%の効果を永続的にもたらす。したがって,それらを累積すると,最初の効果の2.5倍(1/(1-0.6))となって,45度線モデル的な意味(実質金利一定)での累積乗数は3.1となる。これに財政政策の所得への効果がデフレを緩和することで生じる金融緩和(ゼロ金利のもとで実質金利が低下する)の効果が上乗せされて,上記のような高い累積乗数になる。
 現在の学界の知見から見ると非常識なほどの大きな政策効果を考えているが,政策効果が小さくなると,多くの財源を将来の増税で賄わなければいけなくなる。通常妥当と考えられている減税乗数として例えば1をとり,税収の所得弾性値として1をとれば,45度線モデル的な乗数効果では,所得増による増収は支出額の4分の1である(注2)。ボール教授のシミュレーションに即していえば,ヘリコプター・ドロップ政策のために発行した国債は,ゼロ金利期間中は日銀が保有していても,ゼロ金利を解除するところで市中に大部分が売却されて,やがて税で償還されなければいけない。これは,「バーナンキの背理法を信じると,こう騙される」(http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/32683870.html )で説明したことと同じ趣旨のことである(注3)。

「バーナンキの背理法」には,バーナンキ氏の議論を発展させたボール教授の分析を土台にした考察が必要となるだろう。「バーナンキの背理法」は,流動性の罠で中央銀行がインフレを起こすことはできないという主張の反証として用いられる。しかし,上記の議論が示すように,狭義の量的緩和は物価に影響しない,通常の財政政策は所得に影響を与えれば物価に影響を与える,通常の財政政策に量的緩和を組み合わせるか否かで効果は変わらない。
 つまり,流動性の罠のもとでは,
  金融政策単独ではインフレは起きない
  財政政策単独でインフレは起きる
  財政政策と金融政策を併用した場合,財政政策単独と効果は同じである
となる。インフレが起こることの本質は,財政政策にある。ただし,政策の本質はインフレよりも,GDPギャップの改善にある。
「バーナンキの背理法」を,
  金融政策単独ではインフレは起きない
  財政政策と金融政策を併用すれば,インフレは起きる
  だから,金融政策でインフレは起こせる
と使う人は,本質を踏み外している。

(注1)
 ボンド・コンバージョンについては,himaginary氏のブログ「日銀の債務超過懸念へのバーナンキからの“回答”」(http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20100531/Some_Thoughts_on_Monetary_Policy_in_Japan3 )に解説がある。

(注2)
「財政政策のマーフィー式採点法(その2)」(http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/24401000.html )でのべた減税乗数をここで採用した。短期の税収弾性値は1より大きいかもしれないが,ここでは長期的帰結を考えているので,1に近いものと考えた。1より若干大きい程度であれば,ここでの議論に本質的には変わらない。
 また,後で増税する際には,増税が所得を減らし,税の減収になる効果があることを忘れてはいけない。

(注3)
「復興国債の日銀引き受けはそもそも財源か?」(http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/35427897.html )での指摘にも通じる話である。

(参考文献)
Laurence Ball (2008), “Helicopter Drops and Japan's Liquidity Trap,” Bank of Japan Monetary and Economic Studies, Vol. 26, December, pp. 87-105.
http://www.imes.boj.or.jp/english/publication/mes/2008/me26-7.pdf

(参考)
「日銀の債務超過懸念へのバーナンキからの“回答”」(himaginaryの日記,2010年5月31日)
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20100531/Some_Thoughts_on_Monetary_Policy_in_Japan3

(関係する過去記事)
財政政策のマーフィー式採点法(その2)
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/24401000.html

「バーナンキの背理法」を信じると,こう騙される
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/32683870.html

通貨発行益
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/33222258.html

日本経済新聞・経済教室「『日本型デフレ』は防げるか」
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/34199204.html

「バーナンキの背理法」は役に立たない
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/34352149.html

復興国債の日銀引き受けはそもそも財源か?
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/35427897.html

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