愛媛の海 小旅行

愛媛の海で楽しんでいます。

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(2)−3豊後水道 − 保内ー磯崎(二宮敬作編)

       二宮敬作の歌   作詞・作曲 妻鳥堯寛
      
    一 磯崎の春の波しずか
      やさしい心で人々の
      やまいをなおし励まし
      愛の人 ああ 愛の人
      敬作先生
      わがふるさとの誇りです
      偉業をたたえ学びます

    二 磯崎の冬のしお風の
      きびしい心で日本に
      文化のあかりつけました
      信の人 ああ 信の人
      敬作先生
      わがふるさとの光です
     
 ●保内郷磯崎の偉人 二宮敬作
 
   文化元年(1804)保内郷磯崎浦の半農半商の家に生まれました。
   文政二年(1819)16歳の時に医者になろうと志して生まれ育った磯崎を離れ、九州に出張
  する大洲の商人手成屋に同行して憧れの長崎に向かい、時代の先端的な蘭学に触れることとなり
  ました。
   そして、渡り苦学すること三年、オランダ語、西洋医学を身につけやがてドイツの医師シーボルト
  の鳴滝塾に入ってその教えを受けました。
   文政十一年(1828)シーボルト事件に連座し逮捕され江戸立ち入り禁止、長崎からも追放の
  判決を受けました。
   こうして27歳になった敬作は、10年ぶりに故郷磯崎に帰りその年、大洲の女性西イワと結婚
  30歳の時、宇和島藩主の伊達宗徳の知るところなり、同藩卯之町に開業しました。
   卯之町における二宮敬作は乳癌の外科手術も行うなど蘭方医の名医の評判が広まり多くの人名
  を救い、世人を驚かせました。
   そして患者に対しては貧富の別はなく、手当方懇切を極め、急病と聞かば深夜山中にも往診し
  薬価謝礼などはほとんど念中にないようで書付の帳面などもなかった。という誠実で清廉無欲な
  人柄によって名声はますます高まりました。
   天保十一年(1840)シーボルトの娘イネを長崎から呼び寄せ、オランダ語、西洋医学を教え
  日本最初の女医に育てました。
   安政二年(1855)には、敬作は宇和島藩より御徒士各に任じられ準藩医として宇和島に住居を
  移しました、イネも宇和島に居を構えて村田蔵六のもとで蘭学を学びました。
   敬作は高野長英(シーボルト鳴滝塾出身)や大村益次郎とも交流がありました。
   安政六年(1859)、国禁(追放令)を解かれたシーボルト(63歳)は長男アレキサンデル(14歳)
  を伴って30年ぶりに再び日本の土を踏みました。
   出迎えたのは、53歳の妻、滝、33歳のイネ、8歳のタダ、さらに中風で体の不自由ながら
  鳴滝塾門弟唯一人の56歳の敬作と甥の三瀬周三でした。
   敬作はシーボルトの来日後も右手が使えない不自由な体で医師を続けました
  万延元年(1860)シーボルトの所へ化膿性腫瘍の患者が訪れたが、シーボルトは手術は不可能と
  断りました。
   しかし、敬作は左手でメスを取って患部摘出の手術に成功し完治したのでシーボルトは「西洋
  にもかかる豪胆にして妙技なるものはなし」と敬作の腕前を称賛したといわれました。
   文久二年(1862)三月一二日、二宮敬作、長崎において死去(59歳)
                      ↓
  平成三年(1991)生家跡の近くの近くの高台に「二宮敬作記念公園」が完成し銅像が立てられ
  ました。
         

  ☆写真は上半分が現代の二宮敬作出身地の磯崎周辺・敬作公園・敬作生家です。
      下半分が西予市宇和町卯之町旧町並・開明学校跡です。     
   

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