愛媛の海 小旅行

愛媛の海で楽しんでいます。

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・(11)豊後水道 - (2)吉田→奥南運河

●奥南運河
   宇和島藩主の参勤交代の「海道」としても奥南運河は江戸時代より整備されていました。
   当時の船の動力は、各浦から選び抜かれた水夫(かこ)による櫓漕ぎであり、風のある時は
  帆を利用しました。
   宇和島樺崎を出港してまず難所が奥南運河だったといいます、満潮なら問題はないが、干潮
  の時は近くの人夫を集めて船をかついで運河を渡ったそうです。
   このようにしても、奥南の突端大良の鼻を回るより2時間近く短縮されるということで難所
  ではあるが重要なコースでした。
   その後ずいぶん後の昭和二年吉田町出身の山下汽船の創設者山下亀三郎によって奥南運河の
  改修工事がおこなわれ現在に近いかたちになりました。
 
 ◇山下亀三郎
   慶応三年 吉田藩喜佐方村川内の庄屋の4男としてうまれる。
   15歳で故郷を出る。
   大阪、京都を転々として東京に出て明治法律学校(明治大学)に通うが1年半で退学。
   その後、私立学校の講師、同郷の先輩実業家村井保固の紹介で富士製紙会社、大倉用紙店と
   職を変えたのち、横浜でマンガン鉱の商いを始めるが失敗、石炭に着目し商売をはじめる。
   やっと軌道に乗り、明治三十五年海運業を興す。
   日露戦争で巨万の富を得るが、株式の大暴落ですべてを失う。
   横浜を引き上げ東京に出て再起をはかる。
   明治四十四年山下汽船合名会社を設立する。
   第一次世界大戦の好景気によって彼の事業は大きく進展していく。
   中国、北米、南米、オーストラリア、ヨーロッパ、東南アジアに支店を持ち、代理店の数は
   国内外260余りを数えた。
   最盛期には年率25%の配当を実施。
   第二次世界大戦中は、東条、小磯内閣の参議として政界、軍部に影響力を持った。
   大正六年に建てられた神戸本社の設計は、日本銀行本店、東京駅を手がけた辰野金吾である。
   郷土の教育の開発のため公共事業への私財を惜しまなっかた。
   第一、第二山下高等女学校(現吉田高校、三瓶高校)・小学校、図書館、集会所の建設、橋
   トンネル、奥南運河、などの土木事業に寄与。
   軍人子弟の教育にも多額の寄付をしている。
   桐朋学園のもとは彼の創設。
   著書に「沈みつ浮きつ」「海軍私見」がある。
   脱仙の号があり「驕るなよ月のまるきも只一夜」「かみしめる頃に歯はなし親の恩」と詠んで
   いる。
   桜橋の山下公園に吉田茂の題字による銅像が建っている。(上に写真)


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        愛媛の遊漁船   
        http://dayzi.com
   

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