H.B.シュワルツ著『薩摩国滞在記』
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米国メソジスト監督教会の宣教師H.Bシュワルツは、明治40年頃、鹿児島に住んでいたとされ、その当時の鹿児島の社会状況、焼酎について、『薩摩国滞在記』の中で記している。なお、ここで用いたのは島津久大・長岡祥三翻訳『薩摩国滞在記−宣教師の見た明治の日本−』(180ぺージ、図版16ぺージ、昭和59年11月、東京・新人物往来社刊、定価1575円)である。焼酎に関する記事を引用してみたい。
「酒を飲むことに関しては、士族であろうが、平民であろうが、上下の区別は全くない。薩摩の人々はよく酒を飲むし、日本の他の地方の人々に比べて、ずっと酒が強い。薩摩人の性質は鈍重なところがあるので、アルコールの刺激が特に必要なのだろう。それはちょうど、スコットランド人から冗談を引き出すのに栓抜きが要るといわれるようなものだ。さらに悪いことには、薩摩では酒を飲むのは男にとどまらず、女や子供たちまで飲むのである。多くの家庭で毎晩、その家の主人とともに家族一同が酒を一〜二杯飲むのは、ごく当たり前のことである。」
「薩摩ではほとんどの家が米を発酵させて、自分用の酒をつくる製造免許を政府から得ているが、大抵の薩摩の男子は、せいぜい10㌫か12㌫しかアルコール分のない弱い酒では満足せず、アルコール分が30㌫から50㌫もある「焼酎」と呼ばれる蒸留酒を好んで常用する。」
「人々の酒を飲む風習とか、作法とかは、日本の他の地方と大差ない。鹿児島市やそのほかの大きい町には芸者の侍るような料亭やお茶屋がある。こういう店は良く繁盛しているが、他方、自宅で宴会を催す場合もしばしばであり、おそらく日本の他の地方にくらべて多いだろう。こういう宴会には禁酒主義者はもちろん酒の弱い人は、とても近づけたものではない。なぜなら、お客の全員に、できるだけ多くの酒を飲ませようというのが宴会の主目的だからである。最初にそれぞれの客の前に盃が置かれて、その家の者が酒を注いでまわる。家の主人は自分の盃を持って、まずは最上席の客の前へ行き、お辞儀をして盃の交換を願い出る。お互いに交換した盃を飲み終えると、主人は次の客のところへ行って同様に飲み、順々に最後の客の所まで挨拶して回るのである。時によっては、二回も三回も回ることがある。一方、客同士でも盃の交換が始まり、全員で酒盛りとなる。」
【註】平成13年1月29日〜3月23日にかけて、国立国会図書館第112回常設展示「外国人の明治日本紀行」の中で、H.Bシュワルツについて次のように紹介している。
14)H.B.シュワルツ Henry B. Schwartz 米国メソジスト監督教会の宣教師。1893年夫人とともに来日。銀座教会の牧師として英語や聖書を教え、翌年、弘前に赴任、3年後休暇で帰国するが、再び来日。長崎へ赴任し、鎮西学院で英文学、英語、ドイツ語を教え、院長も務めた。その後、南九州教区に転任し鹿児島に在住、1907年「薩摩国滞在記」を書く。この本は、1908年、米国で出版された。同じ教区に属していた沖縄もたびたび訪問、滞在したらしい。帰国したのは1915年で、約20年間日本に滞在したことになる。 "In Togo's country : some studies in Satsuma and other little known parts of Japan" Cincinnati : Jennings and Graham, 1908. 【Ba-286】 1908年の初版本を所蔵。当時日露戦争で大国ロシアを打ち負かした小国日本を、東郷平八郎や大山巌らを輩出した鹿児島に焦点をあてて紹介している。薩摩藩および島津家の歴史、薩摩の気候風土、教育、言語、宗教などについての記述のほか、琉球についても、その歴史や日本および中国との関係を中心にかなり詳しく述べている。また、善光寺巡礼や1896年の大地震直後の秋田県、幕末のハリス領事ゆかりの下田や、歴史の町長崎についても触れている。 当時の中国を蹂躙していたヨーロッパ人を批判し、日本の対外政策を評価し、日本のことを何も知らない当時のアメリカ人に対して、その姿を正しく伝えたいという著者の意図がうかがわれる。 邦訳…島津久大 長岡祥三訳「薩摩国滞在記 宣教師の見た明治の日本」 新人物往来社 1981 |
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