本稿は、本来一つのものとして作られたのですが、あまりに長くなりすぎた為に、幾つかに分割して投稿するものです。今回はその(3)ですが、これまで同様、明日以降も、併せ読んで頂ければ幸いです。
命の中に取り込む「気」の分量が不足するから、病気になるのだが、その「気」を十分に取り込むのに、障害になっているのが、心の持ちようなんです。
私たちの体が空(気)から出来ているとすれば、それが充満している世界と、心を同じ状態(空の状態)にしてやりさえすれば、空の世界から、どんどん、「気」が私たちの命の中に流れこんで来るのですが、
なぜ、私たちが、心を空にすることが難しいかと言うと、それは、雑念妄念というものが、心が空になるのを邪魔しているからなんです。
天風先生も、こう言っている。
「雑念妄念はね、神人瞑合を直接に妨害する一大障害物なんだ。雑念妄念さえなけりゃ、特別なことをしなくたって、人間の心と宇宙霊とは結びつくようにできているんです。」
それでは、雑念妄念を追い払って、心を空にするにはどうしたらいいか?というと、
天風先生は、心を霊的境地に置けばいい、と次のように言います。
「霊的境地というのが三昧境(無念無想の極致)。この霊的境地に心が入ると、いわゆる宇宙本体の根本主体と人間の生命が一体化するのであります。これを神人瞑合ということはすでに知っているね。心が霊的境地に入るとね、宇宙本体の持っている万能的な英知が人間の心に受け入れられるのであります。受け入れられるとその結果どうなるかというと、だれに教わらなくても、いわゆる大悟徹底、宇宙真理が正しく悟られる、自覚せしめられるという境地に入れる。
この境涯が、心身統一法でいう安定打坐法の目的であると同時に、それが非常に難しいと思われている坐禅の目的でもある。」
「しかしねえ、厳密な意味からいくと、人間というものはその本姓において、知る、知らざるとを問わず、宇宙本体と自分の生命がいつも一体化されるようにできている。宗教的に言えば神、仏のもつ知恵、哲学的に言えば宇宙創造の知恵も、当然人間の心に一つのつながりをもっているわけなんだ。ちょうどそれはね、電燈と発電所の発電機がつながっているのと同じだ。
さて、そう考えついたら、こういうことが言えるんだ。電燈はスイッチをひねると燈がつく。スイッチをひねらないかぎりは燈がつかない。人間もまたこれと同様で、宇宙の本体である造物主、いわゆる神と人間とを結び付けるのにも、やはり結びつけのスイッチというものがあるわけです。そのスイッチがどこだというと心なんであります。もっとわかりやすく言うと、心を特別な状態にすると、造物主と人間の生命がピターッとつながっちゃう。電燈と発電所の発電機とつながるようなふうにね。
それじゃ、特別な状態とは心をどんな状態にするかというと、英語でいうとトランスの状態にする。トランスとは無念無想ということ。」
心を霊的境地(無念無想の状態)に置きさえすれば、つまり、スイッチをひねれば、電燈と発電所が結び付くように、宇宙の根本主体と人間の命が繋がる、と言っています。
ここでは、単に、「宇宙本体の英知が人間の心に受け入れられる」と言って、英知の事しか言っていませんが、
人間の命と宇宙本体が一体化すれば、「気」が入ってくるわけですから、「気」の中には、英知とともに根本エネルギーも含まれているから、英知と同時に、宇宙エネルギーも又、人間の命の中に、受け入れられるというわけです。
それは、別のところで、天風先生が、心と宇宙エネルギーとの関係について、次のように言っていることから、よくわかります。ブリルとは、宇宙エネルギーと同じ意味の言葉です。
「さて、宇宙のいっさいをつくる根本要素であるブリル、そのブリルの実在するところが、宗教的に言えば、神、仏のいますところとなっている。特別にこういうところにいるってんじゃないんだ。くまなく遍満存在しているわけだ。我々が坐っているところにも神、仏はいましている。ただ、心が霊的境地に入らないと、人間の生命がその一つの特別なアトムスフェア(雰囲気)の中へフーッと導き入れられないという結果がくるんです。
ところが、心が肉体を思わず、心を思わないという霊的境地に突入すると、スーッとこのブリルと自分の生命が一つのものになっちまうんだ。一つのものになれば、同じものなんだから、我々の命の中にブリルがグングン流れ込んでくるのは当たり前です。スポンジを水の中につけたと同じなんだ。スポンジの細胞組織の中に水がみんなしみ込むのと同じ結果がくる」
心を霊的境地に置けば、宇宙エネルギーが私達の命の中に流れ入ってくるのだとすれば、次に問題となるのは、どうしたら心を霊的境地に置くことができるか、ということになりますが、
先に、心が霊的境地に入るとは、どういうことなのか、ということから説明します。
このことについて、天風先生は、「天の声」が聞こえるようになれば、心が霊的境地に入れる、と次のように言っています。
「心に使われない、心も使わないでいて、空の心になっている時に天の声が聞こえるって言うけど、なんにも聞こえないじゃないか。あの先生、うそを言ったのかしら。
そこで、その夕方の帰り道、また質問した。
これこれこうでもってー『雲を見て、フーッと気がついたら無心でいたんですけれど、無心でいたときに天の声、聞こえませんでしたが』って言ったらね、
『ハッハッハッ、聞こえているのに聞こえないのかい』
『えー?』
『それが天の声だよ』
『天の声とは声なき声よ(abusolute stillness)』と英語で言ってくれました。
これは日本語で言うと、『絶対のしじま』ってことね。なーんにも聞こえない、それが天の声だ。」
天の声とは、声なき声と言って、なんにも音が聞こえないかのように言われていますが、私には、いつでもどこでも、今こうして、パソコンのキーボードを叩いている時でも、頭の中の耳の辺りで、シーンとジーンとの中間のような、音が響いています。
私は、これが、天風先生が言っている「天の声」だと思っています。
というのも、そういう音が聞こえ始めると同時に、「気」が、私の命に流れ入って来るのを感じるようになり、又、そういうことを契機にして、サイ気療もできるようになったからです。
この「天の声」に関しては、天風先生とカリアッパ師の間で、次のような会話が交わされていることからして、私は、そうだと、思っています。
「天の声って何ですか?」
「天の声と言やあ、天の声だ」
「天に声があるんですか」
「ある」
「へえー、こら初めて聞いた」
「そうだろうな。知らないようだ。知らなきゃ初めてだな」
「しかし、先生、それを聞いたことがあるんですか」
「のべつ聞いているよ、私は」
「のべつ聞いているよ。現にこうやって今おまえと話している間も聞いているよ」
「あれですか、先生がのべつ聞いている天の声というのはどこの国の言葉です?」
「どこに国の言葉という言葉じゃない。声だよ」
「声といって、言葉の声じゃないんですか」
「音だよ」
カリアッパさんが、「(天の声を)のべつ聞いているよ、私は」と言っていることと、「(天の声とは)音だよ」と言っているところから、私は、断然、天の声とは、私がのべつ聞いているジーンとシーンとの中間のような音だと思っています。
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