★ 城郭探訪 八王子城7 八王子城は正真正銘の「名城」! ★
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このブログの特徴は、当時の人が書いた古文書(文献史料)からお城を見ていこう、ということなので、今回もそれを一つ挙げてみたいと思います。
八王子城に関する史料は、意外と少ないです。特に、城の様子が具体的にわかる史料は一つもなく、断片的な史料しかない状況です。北条氏照が、いつ滝山城から八王子城に移ったのかも、おおよその年代しかわかってません。その意味で、まだまだ謎の多いお城なんです。
そんな状況なのですが、今回は、天正十八年(1590)の小田原合戦の時に八王子城が攻撃された時の史料を紹介します。これがとても面白いんです。
天正十八年六月二十三日、秀吉軍の前田利家と上杉景勝らが八王子城を攻め、一日で八王子城は落城してしまいます。ところが、これがものすごい激戦だったようで、多くの家臣が討ち死に、怪我をしているんですね。この史料は、戦いが終わって一カ月後に、前田利家が家臣の三輪藤兵衛に対して書いた手紙です。
前田利家書状(尊経閣文庫所蔵文書。特別展示図録『北条氏照と八王子城』八王子市郷土資料館編、平成2年)
去七日之書状、今日廿二到着、令披見候、八王子之儀一刻ニ攻干、如存分申付候、然共名城故、討死手負無際限候、彌七郎事、不及是非候、心中令推量候、我々父子目之前にて馬廻小姓共砕手候間、更無後悔与可分別候、此表悉属平均候間、近日可令帰陣候、謹言、
七月廿二日 利家(花押) 三輪藤兵衛殿
わかりやすく訳しますと…
「今月七日の手紙が、今日二十二日に到着したので、拝見した。八王子城のことだが、一気に攻め落とし、思いどおりになった。しかし、名城なので、討ち死にや怪我をしたものの数は膨大である。(三輪の)息子の彌七郎も討ち死にしてしまったが、仕方がないことである。私もその方の気持ちを察している。我々親子(利家・利長)の目の前にて、側近である馬廻や小姓たちが活躍したので、後悔しないようにしてもらいたい。(利家が現在いる)こちら小田原のことは、すべて制圧したので、近日中に帰るつもりである」
てな感じです。お気づきですか?攻めて側の大将である前田利家が、八王子城のことを「名城」と言っているのです!!!戦国時代当時の史料で、こうした表現を使用している史料は、少なくとも私は他に見たことがありません。敵の大将にこんなことを言わせる八王子城は、正真正銘の「名城」でしょう!
それだけでなく、戦いの様子も書かれています。前田利家・利長親子の目の前で、馬廻や小姓たちが奮戦している(あるいは討ち死にした?)と書いてます。つまり、総大将の目の前で戦いが繰り広げられていた、という、ある意味大変なことになっていた様子がうかがわれます。
普通、こういう戦争関係の史料は、手柄をアピールするために誇張表現をする場合が多いものですが、当主の目の前で小姓たちが戦っている、なんて書いてある史料も、私は見たことがありません。この場合は、本当にそんな光景があったのかもしれませんね!
しかも、討ち死にや怪我をした兵士がたくさんいて、三輪藤兵衛の息子である彌七郎も討ち死にしてしまった、と書いてあるんですから、まぁなんと実に生々しい、臨場感あふれる史料なのでしょう!
豊臣五大老の一人、加賀100万石の祖である前田利家に「名城」と称えられた八王子城…現在は日本100名城の一つとなっていますが、当時からすでに「名城」だったのです…
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これは面白いですね!!
確かにこの様な表記がなされた書物は少ないでしょうね!!
貴重なお話、(人-)謝謝(-人)謝謝
2009/3/31(火) 午後 9:11
お城は無いのですか?城跡だけですか?
2009/3/31(火) 午後 9:45 [ hanamaru_ok_888 ]
すごいですね!
大将の目の前で それだけ 激しい戦だったということですね
貴重な話ありがとうございます ポチ
2009/3/31(火) 午後 10:12
この利家さんの手紙は初めて知りました。実に家臣のことを思っていたかを表す資料でもありますね。そうですか、利家さんも認めてたんですねぇ。そりゃ八王子城は名城ですよ。私が攻めきれなかったんですから(笑)。
2009/4/1(水) 午前 4:18 [ 高橋 遊 ]
なかなかの激戦だったのですね。
攻城側が本陣まで攻め返されたと言うことでしょうか。
攻め手の方が兵力は圧倒的に上だと思うので、前田勢が本陣を随分前線に置いていたという事でしょうか。
いずれにしても、興味深い史料です。
2009/4/1(水) 午前 6:42
>東次郎さん
超珍しい史料だと思いますよ。後世に作られた物語じゃなくて、当時の利家の生の声ですからね…
>BBSYLさん
建物はないですね。御主殿に一部塀と冠木門が建てられています。建物がなくても、立派なお城です!
>媛さん
ということだと思いますね。自分の家来に対してだし、わざわざ事実を誇張する必要もないと思いますので、実際にそういう感じだった可能性は十分あると思ったんですけどね、どうでしょうか…
2009/4/2(木) 午前 0:00
>高橋遊さん
この史料はほとんど知られていないみたいですね。利家の書状なので、どうしても北条氏関係の史料集では採録されないんです。なので、影が薄い史料ですけど、かなり貴重な史料ではないでしょうか…。是非次回は落城させて下さい♪
>オブ兵部さん
う〜ん、そういうことも考えられますねぇ。兵力は圧倒的だったようですから、なんでそんな危険な状況になっているのかよくわからんので、誇張している可能性も大いにありますが、他の記録でも馬廻や小姓がたくさん死んでいるので、本当に力攻めをしたのでしょうね。
2009/4/2(木) 午前 0:03
攻めての前田利家が名城というのですから八王子城は間違いなく
名城なのですね。安土城や大坂城を見てきた中央政権の前田さんに
褒められるのは凄い!!
2009/4/5(日) 午後 10:04
東京に城ってあったんですね(←当たり前
よく調べてあって凄いと思います。
あ、訪問者履歴にあったんで、来てみましたww
戦国時代って、歴史の中で私が一番好きな時代だww
2009/4/6(月) 午後 9:45
>るなさん
そうですね、確かにいろいろな当時最先端のお城を見てきた利家の言葉ですもんね!本当に、珍しい史料です。
>シャーマンさん
ご訪問ありがとうございます!ええ、東京には300くらいだったかな、城があったんです。戦国時代が人気ですし、好きな人は潜在的に多いと思いますが、是非、その興味関心をもっともっと高めてほしいと思います!また遊びにいらして下さい♪
2009/4/8(水) 午前 0:55
すごい勉強になりますね
2009/4/8(水) 午後 4:06 [ 武天老師 ]
勉強させてください。三輪氏というのも歴史のいろんな場面で登場しますね。武蔵党の話も拝聴したいと思います。
2009/4/8(水) 午後 6:14 [ tubuyakitony ]
これは貴重な文章ですね。想像ですが利家の書状は八王子城を一日で
力攻めをしたくはなかったのでわ。そのため味方の犠牲が多く出る結果は最初からわかっていたでしょうね。これを命令したは秀吉だと思われます。なぜ秀吉は利家と景勝に命令したかはわかりませんが
この理不尽な命令があったためこの文章になったような気がします。
2009/4/8(水) 午後 8:38
>武天老師さん
お役に立てて何よりです。当時の生の史料を読むと、小説などとは違うリアルさが伝わってきますね。
>tubuyakitonyさん
ご訪問ありがとうございます!僕はこの三輪氏はよく知らないんですが…いつころから利家の家臣なのでしょうかね。
>城プラモさん
そうですね、松井田、鉢形、韮山と、戦っている城は数あれど、ここまで徹底的に力攻めしたのは八王子だけですもんね。見せしめ説もありますが、氏照の本拠ってことが大きかったのかなぁとも思います。
2009/4/8(水) 午後 10:26
うーん、すごい資料ですね。八王子城の攻略戦については城兵は皆殺し(言いすぎかもしれませんが)にされたというイメージがあります。そんな攻め手圧倒的有利だと思っていたなかで、攻め手の大将の前で小姓や馬廻りが戦っていたなんて。死を覚悟した守備兵がいかに手強かったかということでしょうか。大将はどこに陣取っていたんでしょう。三輪藤兵衛に対して、討ち死にしてしまった彼の息子のことに気を遣って少し誇張したのでしょうか。彌七郎は旗本や小姓だったんですかね。あっ、しかし他の参加した家臣からいづれは戦の様子はわかることですもんね。いやーとにかくめずらしい資料ですね。
2009/4/8(水) 午後 11:50
初めまして
ご訪問&TBありがとうございました。
とても興味深い史料で、感服しました。
前田利家をして名城と言わしめる八王子城は、本当に素晴らしいと思います。
2009/4/13(月) 午後 10:24 [ たけB777 ]
>shuchanさん
お返事遅れてごめんなさい。すごい史料でしょ〜。まるで歴史小説のような風景が現実にあったのかもしれませんね。秀吉ならともかく、家臣に対してこんな誇張表現使っても何の得もないしあんまし意味がない気がしますね。
>たけB777さん
ご訪問ありがとうございます!
これぞ、正真正銘の名城ですね!日本100名城に選定した人は、この史料を知っているのだろうか…知っていたら、もっとこの史料を使って宣伝しているはずだから、知らないんでしょうね…もったいない!
2009/4/13(月) 午後 11:05
トラックバックありがとうございました。
八王子城からは高尾山に抜ける登山道が整備されているところを見ると城兵が落ち延びる事が出来る可能性があったにもかかわらず奮戦しています。
北条武士の意地を見せられた城でした。
2009/5/1(金) 午後 8:40 [ 誠武館 ]
>誠武館さん
ご訪問ありがとうございます!
そうですね、逃げようと思えば逃げれる感じですね。城代の横地氏は逃げのびたと云われてますが、多くは討ち死にしたようですね。
2009/5/2(土) 午後 6:14