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城原衆と勢福寺城、その10 隆信の逆襲・和平・和議
隆信は城原攻撃の大惨敗に立腹し、今度は
自ら軍勢を率いて、鍋島直茂を先手として
城原へ進撃して釆ました。
今度も執行越前守が、城の南の横大路まで
出て戦ったが、佐賀勢は弓、鉄砲を使いました。
勝敗がまだわからない段階で、直茂の計画で
あったでしょう、西の方の薮かげから
横合いに、鉄砲数十挺で十字砲火を
浴びせたのでたまらない。
さすがの越前の軍兵も動揺して、
ことごとく退却して城中に入りました。
直茂は勝に乗じて進撃、城外の町小路に
火を付けました。
越前は城に入って、まだまだ戦いたい
武種を諌めて、
「先の戦いでは佐賀勢に大勝して、心の
しこりが取れてさっぱりしましたが、 今度は隆信と和議を結んではどうですか、
若しその心がおありであれば、私が鍋島の
陣所に行って語を付けましょう」と、
諌めたら武種が承知したので、執行越前守は
急ぎ鍋島の陣所に行って、和議が成立し、
戦いは止みました。
そして先年の約束に従って、隆信の二男を
武種の養子とし、江上又四郎家種と改め、
城療勢福寺城に入ることとなりました。
やがて佐賀からは、乳母(めのと)の 諸岡安芸守、高木伯者守、鍋島円後守以下を
付けられました。
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