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井上光兼

 井上光兼(いのうえ みつかね)(1463〜1551)
【列伝】毛利家譜代衆、井上惣領家。父井上勝光の嫡男。子元兼、元光、就良、元貞、就正。河内守。
清和源氏の流れを汲む信濃源氏井上氏の一族である安芸井上氏の出身。安芸の国人領主であったが、後に隣接する国人衆毛利氏の家臣となる。
その系譜については異説もあるが、室町時代に成立した『尊卑分脈』によれば清和源氏頼季流として井上一族の系図が記されている。
 長元元年(1028)、平安時代に源頼信が、関東の下総で起きた「平忠常の乱」を平定して東国に勢力を張り、長兄の頼清と共に三男の頼季が信濃に所領を得る。
長久年間(1040〜43)、頼季が信濃高井郡井上に移住。地名をとって乙葉三郎、井上三郎と称し、信濃源氏井上氏の祖となった。頼季死去後、頼季の五男頼資の子孫が後に安芸井上氏として発展していくことになる。
以上の説は根本史料にかけるため、にわかに信じることはできないが、おそらく十一世紀中頃に、清和源氏の末流が井上の地に居住し、武士団として成長していったものと考えられる。
明徳三年(1392)、足利義満の山名氏討伐で井上光純が功名を立て、安芸山県荘に1500貫を領し、南北朝時代に安芸国に移住する。
光兼の祖父にあたる光教(光純の子)は毛利煕元(毛利豊元の妹)の娘を妻としており、この頃から毛利氏と井上氏と密接な関係を持ち始める。
始めのうちは、ほぼ対等に近い力を持っていたが、やがて毛利氏の力が強くなり、その麾下に入り譜代家臣として重きをなし毛利の家紋着用を許されるまでになる。以後、勝光・光兼と相次いで武勇の誉が高く、厚遇を得て毛利氏の重臣となっていく。
井上氏の経済力、特に元兼(井上総領家)の初期の経済基盤は、毛利氏によって、与えられたものではない。もともと、井上氏は、毛利氏とは同じ独立した国人領主だった。井上氏は、吉田が属する高田郡の西隣の山県郡に本拠を持つ国人領主であるとともに、毛利氏の足元の安芸吉田で駒足銭という通行税を徴収する中世的な権益を持っていた。吉田は、出雲街道の要衝にあり、石見銀山や石見、安芸の国境地帯に広がる当時我が国最大の一大製鉄「工業」地帯に往来する商人達の通行が多く、駒足銭の徴収権は、重要な経済的な権益だった。
  それを保持するため、井上氏は、吉田をおさえる毛利総領家と協力関係を持たざるを得ない立場だったのである。
それが、元就の曾祖父当時、双方の当主の力関係の中で、井上氏は、毛利総領家と縁戚関係になるとともに、毛利総領家を中心とする毛利同族連合に徐々に組み込まれていったのである。
元就が惣領家を継いだ頃の動員できる兵力は千人程度だが、井上党は300人近くを動員することが出来た。毛利家中の中で、井上党の軍事力は、3分の1を占めていたことになり、毛利領3千貫のうち1千貫は、井上一族領だったということになる。井上党は毛利家の軍事の中核であり、軍功が多かったことも頷ける。
しかし、元就初期の時代は、依然として井上氏は、毛利氏に属するだけでなく、石見・安芸の山間部に強大な勢力を持つ高橋氏にも両属する立場にあった。
その意味では、井上氏は、半独立勢力だったのである。少なくとも、元兼がそういう意識を持っていたことは間違いない。
光兼は近隣の有力国人である毛利氏に接近、毛利弘元の信任を得て勢力を伸ばす。
 明応八年(1499)、この頃、隠居。光兼は数多い井上一族の中の総領家にあたり、惣領であるにも関わらず、弟や子に実権を奪われ、まるで禅僧のような生活をしていたため、大方様の信頼も厚かったのかもしれない。元就は、光兼を古河内守と呼ぶ。子の元兼も河内守なので、古いほうのという注釈をつけたのであろうが、どことなく敬意を表している様でもある。
永正四年(1507)、光兼の邸宅に一人の客僧が訪れた。大方殿は、当時十一才の松寿丸を伴って、光兼の邸宅に向かった。光兼の館は正確な位置は分からないが、吉田町竹原の天神山の麓にあったのだろう。そこで念仏の伝授を受けた松寿丸は、毎朝朝日を拝み、念仏を十篇ずつ唱え、後生のことはもちろん、今生の願いをも日輪に対して祈祷するようになったと伝える。
永正八年(1511)、井上一族の井上元盛が元就の後見の立場を利用して横領し、元盛の急死後に、元就に多治比300貫を返すよう力を尽くしてくれたのが、井上一族の元総領家・光兼、同族の俊久や俊秀らだった。
大永三年(1523)、嫡子元兼やその一族の多くは元就の家督相続に貢献。
天文十九年(1550)、毛利家中で重きをなしたものの、やがて傲慢な振る舞いで元就の怒りを買い、元兼ら井上一族のほとんどが誅殺された。だが助命された者もおり、彼らは引き続き毛利氏に仕え、小早川隆景に仕えた井上春忠などが知られる。
光兼自身は、87歳という高齢のためと、後年、元就が日輪信仰のことを回想していることから粛清を免れ、光兼は井上の惣領とはいえ元就に目を掛けかれていたようである。
 天文二十年(1551)八月五日、死去、享年88歳。

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