かぶらやのきせき ーA locus of the Arrow.ー

プロフィールの写真は、先日ゲッティ美術館で撮ったものです。

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太く長い線の人生 〜吉田秀和死す〜

 音楽評論家の吉田秀和氏がなくなりました。
 
 御年98歳。
 
 氏については、以前に「鎌倉行」で書いたことがあります。
 
 ピアニストの中村紘子に英才教育をほどこした、などの様々な逸話が彼にはあります。
イメージ 1
 
 
 興味深い話は、そちらを読んでいただくとして、今、書いておきたいのは、彼の晩節が、決して「お余りの人生」ではなかった、ということです。
 
 
 
 以前のブログ↑でも書きましたが、吉田秀和氏は、年をとってから美しい女性と結婚しました。
 
 ドイツ人女性のバルバラ・クロフトです。
 
 
 そして、後に彼は、長命である者の「負の面の辛酸」をなめることになります。
 
 骨盤に転移した癌によって、2004年にバルバラ・クロフトに先立たれるのです(享年76歳)。
 
 この時秀和90歳。

 彼女の死で「身体の半分がなくなった」ように感じた彼は、筆を折ってしまいます。

 
 しかし、何年かが経って、彼は、音楽についての執筆を再開します。
 
 その理由については、以前のブログに書きました。
 
 
 そして、それ以降、表だった行動はなかったものの、中断することなく精力的に仕事を続け、去る22日に亡くなったのです。
 

 おそらく彼は、死後にバルバラ・クロフトに褒めてもらいたかったのでしょう。
 
 世俗的な要望に応えたり、あるいは自己のプライドのためだけの仕事ならば、一度折った筆を再びとる必要もなかったはずですから。
 

 前回わたしは、氏の人生について、
 
 人の人生は、漫画家の描く線に似ている。
 細く入り太く描き細く払う。
 その長さには長短があり、太さにも差がある。
 吉田秀和の人生は、太く入り、太く走って、太く払われる一本の線なのだろう。
 ひとことで言えば、太い人生を歩んできた男だ。
 

と書きました。
 
 人の人生は「棺覆って定まる」ものです。
 
 ならば、吉田氏の人生は、まさしく今、定まったわけです。
 
 彼の人生は、一度は、さっと払った筆のように細く消えていくところでした。
 
 しかし、死後、胸をはってバルバラ・クロフトに会うために、彼は最後に太く長い線の人生を取り戻したのだと、わたしは思うのです。
 

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その方に関する考察 〜股間若衆(こかんわかしゅう)〜

 東海林さだお氏の「男の分別学」の中に「アノ方に関する考察」という好文があります。
 
 要するに中間小説、ざっくりいうとエロ小説における、男性器・女性器の表現方法、描写、いいまわしをまとめた力作なのですが、考えてみると、そういった「エロ」関係のものって、小説だけじゃないのですねぇ。
 
 
 あ、今回は、ちょっとシモがかった話なので、女性の方(だけじゃないだろうけど)で、そういった方面の話が苦手な方は読み飛ばしてください。
 
 
 なぜ、こんな話を書き始めたかというと、本日の新聞の書評欄で、木下直之著「股間若衆(こかんわかしゅう)」という本の存在を知ったからです。
 
 この本は、日本の彫刻における男性裸像の「アノ部分」の扱いを、アカデミックかつ興味深く考察した本なのです。
 
 よく西洋のダビデ像やギリシア彫刻などでは、男性のアノ形そのものが、かなりリアルに表現されていますね。
 
 わたしたちも、最初は「おっ」と思っても、すぐに、まあこれは芸術作品だしな、と思って、それ以上深追いはしないように思います。
 
 西洋芸術至上主義がしみこんだ明治の彫刻界でも、海外からやってきた彫像のソノ部分は仕方なしとされていたようです。
 
 しかし、日本で作られる彫刻では、それはノー!
 
 今から104年前の文展(今の日展)に提出された当時を代表する彫刻家、白井雨山の男性裸像「箭調(やしら)べ」を前に著者はいいます。
 
 青年男子をモデルに制作された腹部や手先の表情は、見事なリアリズムといえるのに、男子の身体の核心たる股間の作りは何なのか?
 
 ソノ部分は、常人では到底隠れようのないサイズの、小さな葉っぱで完全に隠れているのだ。
 
 それは、(明治時代の)当局の監視が彫刻界にもおよび、摘発を恐れた彫刻家たちが、股間を布や手ぬぐいで隠すことがならいとなっていたからで、もしそのまま表現すればどうなっていたか?
 
 同じ文展に男子裸像を出した朝倉文夫は、チェックを受けて、泣く泣くその「リアルな闇」(本文ママ)をノコギリで切り落としたらしい。
 
 朝倉は切り落とし、白井はそれを葉っぱで隠す……
 
 
 日本にヨーロッパ芸術が入ってきた明治期の事件では、黒田清輝の「裸体婦人像」の額の下半分に布を巻いた「腰巻き事件」が有名です。
 
 これはわたしも知っていました。
 
 しかし、この下半身表現問題は、女性よりも男性裸像の方がより闇が深かったと著者はいうのです。
 
 「股間若衆」は、
        第一章 股間若衆    ← 古今和歌集のシャレ
        第二章 新股間若衆  ← 新古今和歌集
        第三章 股間漏洩集  ← 古今朗詠集 
 
からなり、新股間若衆の章で、大正7年、女性のソノ部分については一応の決着がついたとされています。
 
 どう決着させたかというと、「其(そ)の部分は、人の注視を促すに足る可(べ)き何物の描出せられたるものなき」であるならヨシ。
 
 ようするに、描写は「谷間」だけにして、それ以外に付属する特徴的な付録を描かなければよい、ということなのです。
 
 女性はまあ、それで良いでしょう。基本的に重要なパーツは体内にあるわけですから。
 
 しかし、オトコの場合はそうはいかない。
 
 のっぺり谷間ではオトコではないし、葉っぱは、あまりにも宗教的すぎる。
 
 それに、これは個人的な意見ですが、どうやってあの葉っぱってくっついているんだろう?

 あたしゃ今晩も眠れそうにありませんよ。


 
 著者は、様々な調査を行った結果、こう結論づけます。
 
 大正から昭和初期に、男性裸体像を好んだ北村西望が『とろける股間』という境地を開いた。
 
 ありていにいえば、はっきりとした形状を示すのではなく、「何か物体があることは分かるが形状は曖昧モッコリ状態」を現出させたのだ、と。
 

 しかし、これは、あくまでも屋内展示のはなし。
 
 それら「曖昧モッコリ」男性裸像が、戦前、野外に建てられることはなかったのですね。
 
 戦後になると、当然そのような馬鹿げた(心理的)芸術抑圧はなくなり、欧米と同様、リアルに描写することも可能になりはしたものの、著者の調べでは、相変わらず「曖昧モッコリ」表現を使う彫刻家が多かったのだといいます。
 

 もちろん、中にはリアルなものもあって、それは東京千鳥ヶ淵公園にある菊池一雄の「自由の群像」などだそうです。
 
 
 しかし、皆さん、胸に手を当てて、いや、こめかみに人差し指でくるくると丸を書いて、「ポク・ポク・ポク・チーン」(一休さん)してみてください。
 
 皆さんの近くの公園、公共施設にも人物彫刻は多数あるでしょう。
 
 さらに、それが裸体像であることもよくあるはず。
 
 しかし……それは、オトコですか?
 
 ほとんどが、裸婦彫像であるはずです。
 
 つまり「どうも、社会は男の裸を求めてはいないのだ」ということらしい。
 
 当局の締め付けはなくなったとはいえ、男性裸像の受難はまだまだ続くのです
 
 って、別に、わたしは、男性裸像を見たいわけじゃありませんよ。
 
 
 そして、三章「股間漏洩集」で、著者は、そういったリアリスティック男性裸像が、いわゆる「ソノほうの趣味の人々」によって、熱く鑑賞されるようになったことを述べています。
 
 『薔薇族』に先行する雑誌『ADONIS』の読者欄に、以下のような投稿があったことを著者は示すのです。
 
「千鳥ヶ淵に菊池一雄作の自由の群像があるそうですが、写して誌上に御紹介仕手下さらないでしょうか、こういうのを集めてみたらいかがでしよう、アングル次第でおもしろいアルバムが出来るでしよう」
 
 著者は、明治時代から、当局によって、いわれのない弾圧をうけた男性裸像を、戦後、その芸術評価ではなく、まさに、その正確さ・リアリズムによってのみ評価されるようになってしまった、という「悲劇」の主人公としてとらえているのです。
 
 まあ、軽妙洒脱そしてエスプリの効いた本のタイトル・章の名前から、著者が生真面目な芸術論から一歩離れた場所から冷静に「男性裸体像」を見ていることがわかります。
 
 そして、そのことが、この本の「真面目なおかしみ」(テーマの選び方から対象まで)と相まって、本書を良書にしているのではないかと、わたしは思うのです。
 
 
 

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激しい女性を愛した男の恍惚と悲劇 〜 富本憲吉と妻一枝〜

 先日は、今月いっぱいで閉館される富本憲吉記念館について書きました。
 
 日本で最初の無形文化財(人間国宝)を受けたひとりである富本憲吉は、奈良県の大地主の子供として生まれました。
 
 子供の頃より絵を学び、東京美術学校では「建築・室内装飾」を専攻して卒業前にロンドンへ私費留学(1908年)……という、絵に描いたような金持ちのボンボン生活で、人生の前半を過ごします。
 
 1910年、親から催促されて帰国、清水建設に就職するも、すぐに退社、ぶらぶらするうちに来日していたバーナード・リーチ(前回のブログに写真が載っていますね)と出会い、彼が熱中していた陶芸に憲吉も惹かれ故郷に窯を作ります。
 
 まだまだボンボン生活が抜けませんね。
 
 そして、1912年、雑誌「白樺」に芸術論を掲載されたのを、後の妻、尾竹一枝に「見つけられた」のです。
 
 
 下にあるのが尾竹一枝の写真です。
 化粧っけのない、ちょっと着物さえ着崩れた感じですが、野性味を感じさせる印象的な表情をしていますね。↓
 
イメージ 1
 
 
 そのあたりの事情については、富本憲吉記念館館長、山本 茂雄氏の素晴らしい講演があるので、その要約を読んでもらうとして、少しそれを引用させてもらいますと……
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尾竹一枝は、1893年(明治26)富山市で生まれました。著名な日本画家一族の中で育ち、東京女子美術学校で美術を学びました。
 
 明治44年雑誌『青鞜』が創刊されるや、その活動に参加。身長164センチ、希望に燃える颯爽とした女性だったようです。
 
 彼女は『青鞜』の活動に寄与するため、芸術について思索を重ねるうち、『白樺』(明治45年1月号)に掲載された富本憲吉・南薫造の往復書簡上に展開された芸術論に、大いに刺激を受けます。そして大和安堵村にある富本の工房を訪ねたのです。
 
 二人の出会いは、富本の方にとって、より衝撃的だったようです。「お出でになった時、なにを申し上げたか、どういうものをご覧にいれたか、一切只今から考えてもわかりません……」
 
 その後の一枝宛の葉書に、富本は記しています。しかし当時一枝は、『青鞜』の主宰者・平塚らいてうに夢中でした。二人は同性同士でしたが、深い愛情で結ばれていた時期があり、それは周知のことだったようです。
 
 が、やがてらいてうに若い青年の恋人ができ、二人の仲は破綻します。失意の中らいてうの元を離れた一枝は、新たな雑誌『番紅花』(さふらん)を発刊することになり、その雑誌の装丁を、富本に依頼しました。
 
 再びめぐり合った二人は、1914年(大正3)結婚します。
 
(山本 茂雄氏の講演より抜粋)
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 思うに、ボンボンとして育った憲吉は、英国に遊学した際、(日本にくらべれば)「自分」を持っている女性たちを少なからず眼にしたのでしょう。
 
 あるいは、新大陸(アメリカ)からやってきた進歩的な女性を知る機会があったのかもしれない。
 
 
 英国から帰国した彼の目に映ったのは、「青白き頬をした」自己を押し殺す日本女性たち、その覇気のなさに、がっかりしたこともあったのでしょう。
 
 そこへ、長身の(このあたりも英国女性の共通点を感じます)、はっきりとものを言う「自立した」女性が『颯爽と』現れた、憲吉が心惹かれたのも仕方ないように思えます。
 
 どのぐらい『颯爽と』していたかは、群ようこさんの書かれた「あなたみたいな明治の女(ひと)」の、富本一枝の項に詳しく載っています。
 
 
 少しだけ紹介すると……
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富本一枝。
 
 明治26年(1893)生まれ。尾竹越堂の娘。
 
 女子美術学校のころから女流天才画家と評判された。
 
 しかし、一枝は尾竹紅吉としての、また富本憲吉の妻としてのほうが有名である。
 
 尾竹紅吉はこの変わった雅号が暗示しているように(コーキチではなくベニヨシ)、18歳のとき小林哥津に連れられて『青鞜』に入り、たちまち平塚雷鳥の“恋人”と噂され、女だてらに雷鳥や中野初と吉原に遊んだり、五色のカクテルを飲んだりしたことが評判になるような「新しい女」の時代を象徴した。
 
 久留米絣に角帯、いつも雪駄履きという粋な男装を好んだのが、いろいろ誤解を生んだようだ。
 
 福田英子の先駆の風を一枝も受けたのである。
 
 ともかく早熟で、21歳のときは『番紅花』(サフラン)という雑誌を創り、青山(山川)菊栄が海外の中性論・同性愛の論文を翻訳したりした。
 
 そのうち奈良の旧家育ちの富本憲吉に会って恋に落ち、結婚。時代の先端を走る陶芸家との結婚は一枝を変えた。
 
 陽と陶という二人の子供を育てつつ、一枝はあらためて「日本」を意識するようになり、わが子の教育も学校にやらずに英語・理科・音楽にそれぞれ家庭教師をつけた。
 
 そのうち長谷川時雨の『女人芸術』にかかわるようになると、久々に文章を書くようになる。
 
 とくに子供のための童話や児童文学に関心をもったようだ。けれども夫との距離はしだいに隔てられたものになっていった。
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 文中の「五色のカクテル」とは、五色に色をつけたリキュールを、順番にグラスにそっと流し込み、グラスに五層の色を為させたカクテルだそうです。
 
 一枝は、久留米絣に角帯という男装を好み、平塚平塚雷鳥の“恋人”とされていたものの、雷鳥に若い恋人が出来ると彼女との縁を切ってしまい、最終的に憲吉の妻になるわけです。
 
 
 要するに、彼女はバイセクシュアルだったのかな?
 

 それで思い出しました。
 
 huluの映画一覧を眺めていて、「6デイス7ナイツ」(1997)があるのを知り、久しぶりに見返したのです。
 
 老境にさしかかった男(ハリソン・フォード)とキャリア・ウーマン<今思うと空虚なコトバだなぁ>(アン・ヘッシュ)の、七日に及ぶ無人島での冒険と恋を描く、個人的には結構好きな映画です。
 
 もっとも、一般的には、あまり好評価はされていないようですが……

『スター・ウォーズ』のパロディ映画『ファンボーイズ』では、ハリソン・フォードについての談義が弾む車中で「ハン・ソロとインディアナ・ジョーンズを演じた役者だ! 駄作なんか1本もないぜ!」と豪語する後方に「6デイス7ナイツ」の看板が大写しになる、という皮肉演出がありますから。

 映画の魅力の一つに、ヒロイン、アン・ヘッシュの、つるっとしたちょっと硬質でドライな感じの、中性的な魅力があるのですが、彼女はバイセクシュアルなのですね(自分でカミング・アウトしています)。
 
 おそらく、自分たち家族を捨てたゲイの父親(のちにエイズで死亡)などの精神的影響もあるのでしょう。
 
 彼女と違い、尾竹一枝は、リクツからバイセクシュアルに向かった感は否めませんが、一枝にも、そういった中性的で不思議な魅力はあったのかもしれません。
 
 だから、憲吉は一枝に夢中になったのでしょう。
 
 とはいえ、富本憲吉も、自分では欧米化された男と思ってはいても、根は明治生まれの日本男児。
 
 たまにあって芸術論を交わす間柄だけなら、楽しく付き合うことができたのでしょうが、「ともに生活をする」ようになると、一枝の「激しさ」が、徐々につらくなった。
 
 一枝は、憲吉の作品に対して、情け容赦のない辛辣な批評を加えたといわれていますから。
 
 ために憲吉は、自身の(当時の)最高傑作だと思った作品でさえ、地面に叩きつけ、粉々にしたと言われています。
 
 さきの山本氏の言葉を借りれば、
 
「理想を求めるに急で、妥協を嫌った二人の生活は、常に危機をはらんだものだった」
 
のです。
 

 当然のように、二人の生活は破局を迎えます。
 
 晩年、富本憲吉は、一枝との生活を振り返って、
 
「あの安堵時代が、貧しくはあったが、もっとも充実し愉しかった」
 
と回想していたとされますが、これは本心でしょう。
 
 
 愛と憎は表裏一体。
 
 
 愛する者からなされる辛辣な批評は、胸をかきむしられる痛みをともなったでしょうが、同じ口をもって賞讃された瞬間には、世界を手にした恍惚感を得たはずですから。

 しかしながら、「激しい恋」は若さ故に可能な恋です。
 
 年を経てまで、それを持続するのは並大抵の精神力ではできない。
 
 その後、憲吉は弟子の石田壽枝と結婚しました。
 
 壽枝は、一枝(って一字違い?!)ほど気性が激しくなく、彼女の気遣いで老境の憲吉は穏やかに日々を過ごしたといわれています。

 とはいえ彼女にも、憲吉の死後、全集の依頼に来た写真家の妻の応対が気にいらなかったため撮影を断り、そのためにいまだに憲吉の全集が刊行されていない、という武勇伝が伝わっていますから、(本能的に)憲吉は激しい女性が好きだったのかもしれません。
 

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日本最古の厄除け霊場 〜奈良・松尾寺〜

 ソースが新聞ばかりで申し訳ないのですが、新聞の記事で、松尾寺のバラ園が満開だというので、一時間ほど出かけて来ました。
 
 雨模様の天気だったのですが、雨の薔薇も美しいだろうと考えて……
 
 松尾寺は、信貴山と並んでわたしには馴染み深いお寺です。
 
 確か、何かで日本一だとは覚えていたのですが、今回、この話をかくにあたって調べてみると、日本最古の厄除け霊場だったのですね。
 
 まあ、わたしにとっては、子供の頃から町内会や家族で出かける、ただの遊び場にすぎませんでしたが。
 
 というわけで行ってきました。
 
 写真はクリックすると大きくなります。ぜひ、大きくしてごらんになってください。
 
 
 さすがに、ちょっと肌寒い雨の日だけあって、駐車場の近くも閑散としています。
 
イメージ 1
 
 
松尾寺といえば、子供の頃から、長い階段、これが特徴です。
イメージ 6
 
 
こんな感じですね。
イメージ 7
 
 
ご老人にはかなり答える階段だと思います。
イメージ 8
 
 
 
 
 本堂前に、ネコが……ちょっとやせていますが人間になれていました。
 
イメージ 9
 
 
        公式サイトでも写っている、松尾寺の全景写真です。
     鉢植えはまだ咲いてはいないものの、全て百合(カサブランカ)です。
イメージ 10
 
                       薔薇1
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                       薔薇2
 
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                        薔薇3
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                 空中から下がっている白薔薇
イメージ 2
 
さらに薔薇です。
イメージ 3
 
 
                       薔薇の塔?
イメージ 4
 
                  こういった竹林もあります。
イメージ 5
 
 
 行って帰って一時間ほどでした。
 
 
 
 結局、駐車場も無料、拝観も無料という、すぐ近くのあじさい寺「矢田寺」とは大違いの太っ腹です。
 
 写真にもあるように、本堂には、数多くのカサブランカ(百合)の鉢が並べてありました。
 
 これが咲くころに、もう一度出かけようと思っています。

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大和川急雨(やまとがわきゅうう)の終焉 〜冨本憲吉記念館閉館〜

 今朝、新聞を読んでいて、今月いっぱい(2012年5月31日)で、冨本憲吉記念館が閉館することを知りました。
 
 すぐ近くに住んでいて、機会があれば行ってみようと考えていた場所の突然の閉館です。
 
 そこで、急遽、本日出かけて来ました。
 
 記念館は、奈良県生駒郡安堵町にあります。
 
 斑鳩町にある音楽工房からは15分ほどです。
 
 冨本憲吉については、このあたりを参考にしてもらうとして……
 
 今回、記念館が閉館することになったのは、個人美術館の宿命ともいうべき、後を継ぐものがいなくなったからだそうです。

 1974年、およそ40年前に、冨本憲吉と親交のあった地元の名士、山本勇氏が「道楽」で始めたものを、氏の死後、義弟の山本茂雄氏が後をつぎ、守ってこられたものですが、氏も高齢になられたため、いよいよ閉館を決意されたのです。
 
 その前に、地元の安堵町に、
 
「日本で最初の人間国宝のひとりである、安堵町民、冨本憲吉の記念館を助けてくれないか」
 
と、打診してみたそうですが、良い返事がえられなかった末での決断であったらしい。
 
 記念館では、山本氏に会うことができ、少し話すこともできました。
 
 
 
 では、写真とともに紹介をしていきましょう。
 
 
 これが入り口です。この美術館が、もうひとつ集客出来なかった理由のひとつは、側に大きな駐車場がなかった点です。
 
イメージ 1
 
 もともと、富本憲吉が住んでいた家を使っているために、村の中にあって、駐車場を確保できなかったのですね。
 
 中に入ると、ひなびた感じが、なんとも心地よく胸に響きます。
 
イメージ 2
 
 
 
 閉館が報じられたためか、結構な人出でした。これは、もとの富本憲吉の母屋です。
イメージ 5
 
 母屋に入って反対側に出ると、蔵を改造した展示室があります。
イメージ 6
 
  中はこんな感じです。
 
イメージ 7
 
 写真からもわかるように、商業デザイナーでもあった富本憲吉は、「白樺」の表紙もデザインしています。
 
イメージ 8
 
 
 美術館のすぐ側を流れる大和川、わたしにとっても近しい川ですが、その雨の様子を描いた冨本憲吉の代表作のひとつ「大和川急雨(やまとがわきゅうう)」です。
 
イメージ 9
 
 当時、進行のあった書店、柳屋の暖簾(のれん)、包み紙、店員の袢纏(はんてん)のデザインも手がけています。
 
イメージ 10
 
 日本にやって来た英国人バーナード・リーチ(写真左)とのつきあいの中で、冨本は陶芸に目覚めていきます。
 
 師を持つことを潔しとしなかった彼は、独学で陶芸の道を進んでいきます。
 
イメージ 11
 
 はじめは、自分が使うような実用品から……
 
 晩年の、これによって人間国宝になったといわれている、金銀彩の染め付けを、簡素な絵のまわりにあしらった「磁器 赤地金銀彩染付村落遠望図大陶板
」↓にまで行きついてしまいます。
 
イメージ 3
 
 
 
 
  これが中庭から見た、富本憲吉記念館の全景です
 
イメージ 4
 
 富本憲吉が、この家で共に暮らした「進歩的女性」尾竹一枝との確執については、また別項で書くことにします。
 
 
 また本日、受付で湯呑みを買おうとしたら、ちょうど品切れで、明日入荷するかもしれない、とのことだったので、今は、それを待っています。
 
 もし、明日、手に入ったらそれも含めて書くことにします。
 

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