能登瀬のしかうち
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愛知県新城市には、「能登瀬のしかうち」というのがあるらしい。新城市のサイトより発見。 http:// www.cit y.shins hiro.lg .jp/ind ex.cfm/ 8,5178, 152,720 ,html やはり、本文読むと儀礼的に狩猟を再現して、田んぼの豊作を祈るという形式になっているようで。鹿を射ってそれが豊作につながるのは、類感呪術的な面があると思う。「狩猟でたくさん鹿がとれたら田畑の作物も実りが多いだろう」という素朴な発想。発想は素朴でも、実際にその儀式をするとなると、事細かな準備が必要になる。やはりそれは「もっともらしさ」がいるわけだから。ちゃんと鹿の形に作り物をして、腹の中にはぎっちりと餅を仕込む。儀式が一通り終わったあと、この餅を人が奪い合うというのは、すごく象徴的に狩猟の豊かな場面と、米が実った場面を再現してるんじゃないかと思う。 少し気になったのは、唱えごとには「田作ろう」といいながらも、矢取と弓取の手には「大豆の包」を持っていること。「大豆」は焼畑の作物の代表格でもある。もとは狩猟によって焼畑の豊作を願う儀礼だったのでは、とも思うけれども、この点は現地の生業形態を調べないとわからない。現地の人は、田んぼの豊作を願ってやっている可能性もあるので、断定は避けておこう。 もう一つ気になったのは、なぜ鹿の作り物を柴などの植物で作るのか?柴は田畑に踏み込んでそのまま肥料にもするらしいから、農業にとって重要なもののようだし、それゆえに呪術的な面もあると思う。青柴垣は昔の「モガリ」の風習で、遺体を囲うという習俗もある。そう考えると柴というのは生死にも関わっている面もあり、鹿の死(ここでは再現ですが)が穀物の豊作(生まれ)を促すという面からも考えられるのかもしれない。 いろいろ疑問が出たところで。ひとまず終わり。 |







ふーん、これも追儺だなあ・・・
今日の夜書いた記事に鹿の話があります。
2011/9/4(日) 午後 11:48
これも追儺なんですか?「追儺」というと、中国のイメージありますが。さっそく記事拝見いたしますね。
2011/9/5(月) 午後 8:20 [ カムイ ]
祭祀とか祭とか芸能とか音楽っていうのは「形態」でジャンル別してもさめで、心理的な、なんのためにそういういろんな儀式やらをするかにかかってくるんです。
だから伎楽でも舞楽でも神楽でも、専門家はみなジャンル別しちゃいますが、そもそものはじまりはみな同じ人間の自然や祖霊への崇拝にある。
つまり形は違ってもみな同じことをしている。
日本の中秋祭も西洋の収穫祭も、自然にめぐみを感謝し、それを守護した祖霊に感謝する。同じです。アフリカの原始信仰も同じ。一年の無事を祈り感謝する。信仰や宗教の根っこは全世界で共通でしょう。自然への畏怖です。
縄文も弥生も江戸時代もない。アフリカもイランも欧米もない。
2011/9/11(日) 午後 6:29
「なぜだ」と思わないことですよ。やっぱり同じだと思うことです。
2011/9/11(日) 午後 6:30
「つまり形は違ってもみな同じことをしている。」
それにはすごく同意なんですが…。僕はどうも業が深い人間なので、「なぜだ?」と思ってしまうんです。お囃子をやっている人間なので細かな指使いの違いだとかがどうしても気になってしまう。逆にお祭りを「体感」できない人間なんでしょうね。見ようとすればするほど見えなくなるのが「芸能」の本質だと思います。
2011/9/11(日) 午後 7:17 [ カムイ ]
細やかな指使いが気になる・・・とは、プロのすけこましのような言葉ですが、さすがですなあ。
そういうのはやったことないとね。
すまんこってす。
絶対音階の人って、いつもそういう生活らしいですよ。バイオリンの千住真理子が言ってました。もう音のすべてが気になってしょうがないって。地獄でしょうねそういうのは。
2011/9/11(日) 午後 8:51
僕は日本の笛なので、音感やピッチのずれが気にならなくなりました。西洋音楽やっていたころはいやだった笛同士の音のずれが逆に今は心地よく感じるんだから、人間とは慣れる動物ですね。
お祭り行っても、気づいたら笛奏者の斜め後ろから指使い凝視してる自分に気づいて、はっとするときがあります。病気ですねw。
2011/9/11(日) 午後 9:15 [ カムイ ]
そうかもね。
でも素晴らしいことです。
2011/9/11(日) 午後 10:55
世の中、僕みたいなのも一人ぐらいいないと面白くないですからw。
2011/9/12(月) 午後 8:30 [ カムイ ]
むしろ「すれ」が心地よくなるってことですよねえ。
すばらしい。
不協和音に実は美があるかもZZZZZ?
2011/9/19(月) 午後 8:41
どうなんでしょうかw。和音の心地よさを追求しようとすると、西洋的な和声のほうに発達していきますが、「音色」そのもの、「旋律」そのものを聴こうとすると、和音は逆に邪魔なものになるかもしれませんね。そう考えると、インド音楽も、旋律重視で確かに和音がありませんね。雅楽の笙の不協和音(和音と言えるのか疑問ですが)はまた格別なものがあります。音楽とは不思議なものです。文化によってこれほど美的感覚が違ってきます。
2011/9/19(月) 午後 8:54 [ カムイ ]