米子の夏休み〜遠い記憶(昭和45年=1)
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昭和39年から6年が経過した。私は中学校3年になっていた。相変わらず夏休みになると、毎年のように米子へ帰っていた。 1970年は大阪の千里丘陵で万国博覧会が開催された。米子の親戚も泊りがけで万博見物にやってきた。 私は大阪発福知山回りのだいせん号で米子へ帰る叔父叔母に付いて出かけた。「山陰の蒸気機関車を撮影する」はっきりした目標を持っての旅立ちだった。 米子機関区のD51620号 昭和45年8月9日 伯備線布原の3重連は、運用の都合で運転されずチャンスを逃したが、米子の家を基点にたくさんのSLをカメラに収めることが出来た。米子機関区にも入らせてもらい収穫は山のようにあった。 帰りは普通列車で京都まで帰ると決めていた。当時山陰地方には長距離ドン行が多く、1回の乗り換えで京都まで帰ってくることが出来た。 SL撮影の名所、伯備線布原信号場 米子発岡山行の各駅停車 昭和45年8月11日 浜田発大阪行726列車はDF50牽引で、米子を9:01に発車した。ボックス席の相客は次々変わったが、私がまだ中学生で一人でドン行に乗り京都に帰ることを告げると、どの乗客も親切に話してくれた。海側の席は景色に飽きる事は無かった。 福知山に17:34に着き、始発の京都行に乗り換える。蒸気機関車牽引だったが6年前のような嫌悪感は持っていなかった。 綾部で買った鮎ずし。アユの開きが美味だったが、育ち盛りの中学生には物足りなかった 2〜3年後にはディーゼル機関車に切リ換えられてしまうC57に特別の感情が沸いていたのかもしれない。列車は定刻通り嵯峨を20:24に発車した。満員の車内から歓声が上がった。
進行左側、鳥居形が夏の夜空にくっきりと浮かび上がっていた。「もう、米子から一人で帰れるようになったんだ」6年前と同じ炎を眺めながら、中学校3年の私は自分の成長を自惚れていた。 |
