閑山子余録

閑山子こと川平敏文のブログです。近世文学・思想研究情報を中心に発信します。

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昨日に引き続き本日もまた、新たに二書を書き加えねば
ならぬのである。

多数の新刊本を前にして、ほとほと困じて了う。
これらの本を、いったいいつ読めるのだろうか。

でもこういう悩みは、ふつふつと嬉しいものである。
嬉しくて困って了うという、さういう類の悩みである。

●勝又基『親孝行の江戸文化』(笠間書院)
 「孝」を江戸幕府や各藩が体制強化のための道具として使用してきた
 というこれまでの研究の論調に対して、「孝」は現代でいう「自由」と
 同じくらいに、江戸文化の中に様々な形で溶け込み、為政者から民衆まで
 すべての江戸人の心の中に、内面化されていたことを論じたもの。
 文字どおり、同じ釜の飯を食ってきた勝又氏の本格的な論文集の刊行を、
 心から祝福したい。

●大石真由香『近世初期『万葉集』の研究』(和泉書院)
 サブタイトルに「北村季吟と藤原惺窩の受容と継承」とある。このような
 論著が出されることは、まったくノーマークで、近刊予告を見て早々に
 予約しておいた。万葉集研究といえば契沖以後というイメージがあるが、
 惺窩が関わっていることが、私の17世紀学芸史観にとってはとても重要
 なのである。それを明らかにしてくれる手がかりを本書から得たい。

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怒濤の刊行ラッシュ

まさしく怒濤なのである。

興味深い本ばかり立て続けに出て、困っているのである。

とても一つ一つを取り上げて書く余裕はない気がするので、
とりあえず書名と寸評だけでも。
あとは暇をみてじっくり紹介したい。

●長坂成行『篠屋宗礀とその周縁』(汲古書院)
 近世初期京都の文人。山岡元隣の師系について、個人的にはうれしい
 新事実が報告されている。それは竜安寺の偏易和尚との関係である。
 元隣と竜安寺との関係をかつて推測したことがあったが、それが証明されたのだ。
 偏易は『徒然草』偏易本といわれる一本をも残した人で、そこともつながる。

●湯浅佳子『近世小説の研究―啓蒙的文芸の展開―』(汲古書院)
 仮名草子、軍書、談義本から読本まで、なんとも幅広い。これだけの
 分野をカバーできる人は、余り居ないのではないか。あらためて氏の
 学問の大きさに気付かされる。

●高橋俊和『堀景山伝考』(和泉書院)
 宣長の漢学の師である堀景山の詳細な伝記研究。『不尽言』は
 日野龍夫先生の注釈で新大系にも入っているが、本当に面白い。
 室鳩巣との関連において興味を持っている。

●高松亮太『秋成論攷―学問・文芸・交流―』(笠間書院)
 気鋭の秋成研究者の第一論文集。端正な考証と文章が、人柄
 をも偲ばせる。一戸渉氏の仕事とともに、秋成およびその周辺の
 和学という分野が鮮明になってきた。

●蘆庵文庫研究会編『小沢蘆庵自筆 六帖詠藻 本文と研究』(和泉書院)
 大谷俊太氏を始めとする蘆庵文庫研究会の編。書誌学大系の一書として
 重厚な目録を刊行しているが、今度は『六帖詠藻』の翻刻と研究である。
 いずれも第一線で活躍されるメンバーたちが、こうした地道な仕事をされて
 いるのが 感動的。このチームの結束の固さは、端から見ていてうらやま
 しくもある。

とりいそぎ。
 

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アプリで学ぶくずし字

飯倉洋一氏編『アプリで学ぶくずし字 くずし字支援アプリKuLAの使い方』
(2017年2月)が出た。

5万回という、ものすごいダウンロード数を記録しているこのアプリの、
いわば公式ガイドブックである。

KuLAを実際の授業で使ってみたという、合山林太郎氏のレポート、
「しみまる」とともにKuLAの顔ともいえる飯倉氏、およびシステム開発の中心
にいらっしゃる橋本雄太氏の「あとがきにかえて アプリ開発裏話」をとくに
面白く読んだ。

合山氏のレポートでは、「文字」の学習とともに、古文のテクストそのものを
読解する力の必要性が指摘されている。この二つが車の両輪のように働く
ことで、高度なくずし字も読めるようになるわけである。
この点は、橋本氏のあとがきにもきちんと自覚されていて、KuLAをそのような、
いわば古文総合学習ツールとして成長させていこうという気構えが示されていて、
心強い。

以前紹介した「みんなで翻刻」とも合わせて、本当に大きな可能性を秘めた
プロジェクト。
微力ながら、私もアイデアを出していきたい。

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近世文学史研究

『近世文学史研究』第一号(ぺりかん社、2017年1月)が出た。

鈴木健一氏の監修で、特集は「十七世紀の文学」。
特集サブタイトルに、「文学と歴史・思想・美術との関わりを通して」とある。

通常の【論文】5本のほか、日本近世史の高埜利彦氏による【提言】、
木越治氏の連載【近世文学研究史攷一】という構成。

高埜氏の提言は、17世紀におけるいわゆる華夷秩序の変容が、
文学のなかにどのように反映されているのか知りたい、というような主旨。
私の今季の授業は、17世紀におけるナショナリズムの形成をテーマにして
いたものだから、たいへん共感した。芭蕉も、西鶴も、近松も、そういった
国際情勢とは完全に無縁ではなかったはずなのである。

個々の論文は、学会の重鎮ともいえる年齢の方々が執筆されているので、
そのクオリティは確かであろう。
ただ、なぜこの雑誌?がいま、こうして発刊されたのか、何を目指しているのか、
ちょっとそのコンセプトが分からないのだ。

雑誌『江戸文学』の後継ともいえるこの雑誌は、『江戸文学』の「失敗」を、
どう踏まえているのだろうか。
これはいったい誰のために、作られた雑誌なのだろうか。
執筆者に40代はおろか、20代や30代の、活きのよい人の名前が一人も
見えないこと、前述した高埜氏以外、近世文学以外の異分野の人がいない
ことを含めて。

私はかつて、出版社の主導で、思想や美術、歴史などが各学会の威信をかけて
ぶつかり合う、異種格闘技的な「場」が創造できないか、と提言したことがあった
(「リポート笠間」だったか)。
それくらいのインパクトがないと、新しい雑誌を作る「意味」がないからである。
そしてそれを実現できるのは、この出版社以外にはなかろうとも、内心思っていた。

発刊の辞は、どこにも見当たらぬのである。

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鈴木貞美氏のご返答

拙ブログで鈴木貞美氏『「日記」と「随筆」―ジャンル概念の日本史―』を
紹介するとともに、所感を書かせていただいたことがあった(こちら)

つい最近、偶然に、氏のHPにそれへのコメント、および
詳しいご回答へのリンクが張られていることに気付いた(こちら)。
10月18日の日付があるので、もう3ヶ月以上も前に書かれたものであった。
御礼申し上げるとともに、氏の真摯な態度に心より敬意を表したいと思う。

以下に紹介かたがた、再度コメントを付けさせていただく。

前半、「随筆」の概念については、江戸時代の「随筆」概念と、近代における
「随筆」概念が「まったく」異なるものではなく、共有する部分「も」あった
ことを言ったつもりであるが、ご理解いただけたであろうか。

後半、中村幸彦の「内在的近代化論」は、やはり最も興味深いテーマである。
「雅文学」、「俗文学」という括りがすでに近代的な意識によって為されている
という指摘は、本当にいま一度立ち止まって考えてみなければならない問題
だと思う。近世から近代にかけての、俗文学の「成長」、文学の道徳からの
「独立」、こういった図式が我々の描く「文学史」のなかに、潜在的に刷り込まれ
ているのではないかという問題。そこで、現代人にとって面白い、分かりやすい
文学史が描けるのかどうかは別問題として、足下を見直してみる必要はある。

最後に拙著への論評の補足。これも有り難いご指摘である。
氏のおっしゃる「内在的近代化論」に、無自覚ながら影響を受けている点も
多々あるように思う。それが良いか悪いかは別として、無自覚であった点に
気付かせていただいたことには、本当に感謝申し上げたい。

が、やはり細部にあっては、少し当方の意図と認識にズレがあるようなので、
さらにコメントさせていただく。

氏は、私が書いた慶長期における徒然草受容のあり方について、「漢学」と比肩
しうる「和学」として展開されたと、読み取っておられるようだ。

当方は徒然草研究が、たとえば四書五経などの研究と比肩しうるものとして展開
されたとは考えていない。貞徳はかなり気合いを入れている方だとは思うが、
羅山ら漢学者にとっては、徒然草研究はやはり、「余技」の部類に属することなのだ。
しかし、たとえ「余技」であったとしても、それが従来の「和学」の常識に新風を送り
込むインパクトがあった点を指摘したつもりであった。

また第二部の「教誡」から「実証」への図式が想定されているということについて。
「人情の「あるがまま」を直視する態度を実証主義と評している」とのご指摘があるが、
人情論と文献実証主義を、私はリンクして考えているわけではない。
人情論は、いくらたくさんの文献を集めて用例を列挙しても、絶対に生まれない。
これは解釈の前提というか、姿勢の問題であるから。文献実証主義は、それとは
直接には繋がらない、技術的な問題であると思う。
つまり、教誡論から人情論へ、という図式は描いているが、教誡論から実証主義へ
という図式は、私は描いていないつもりである。


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