大学インサイト通信2012

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大名塾夜間部の塾生を応募します

大名塾夜間部の塾生を応募します。https://www.facebook.com/daimyojuku

問題特定や問題解明は手段でしかないのに、そのレベルにとどまると、あいつが悪い、こいつのせいだとストレスや怒りをためこむだけ。そして「あいつ」や「こいつ」を攻撃したり怒りをぶつけたりする。

本来、それが目的ではないにもかかわらず。目的設定(意識づけ)って人生や生活においても非常に重要なことなのです。このこともあって、大名塾夜間部の学びのコンセプトは「コンサルティングのリテラシーを学ぶ」にしました。
思考スタイルを変える(?もう1つの思考スタイルをもつ)ことで「ストレスや怒りをためこむ私」から自由になれます(多分^^)。

「コンサルティングのリテラシーを学ぶ」を大名塾夜間部のコンセプトにした理由はもう1つあります。

昨日、友人と話していて、「思い」だけで問題の解決をろうとする人が多いことをあらためて知りました。この手の話になると思い浮かぶ顔があります。そのほとんどが若い人。もちろん、若いから「思い」だけの人だというつもりはありません。

これを手がかりに、大名塾夜間部のプログラムイメージが固まりました。コンセプトは「コンサルティングのリテラシーを学ぶ」です。

ということで、参加希望者を募ります。

学びの場は「誰と学ぶか」が大切です。また、私の基本姿勢として、学ぶ人達と一緒に、新しい時代と共鳴する学びの場をつくっていきたいと思っています。大名塾夜間部に興味がある方はDMをください。大名塾夜間部のFBページ(近々開設)のメンバーとして登録します。同ページのメンバーは大名塾夜間部のオブザーバーとなります。オブザーバーは大名塾夜間部の塾生として登録・参加することもできますし、オブザーバーとしてとどまることもできます。

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未来を誰に託したいかー山口絵理子氏、鈴木謙介氏と一緒に考える

3.11から1年が経とうとしています。1年前、私は日本は変わる、変わらないといけないと思いました。1年経ってどうでしょう?何もかわっていない!期待したようなイノベーションは起こっていません。もっと大きな何かが起こらないとダメなのでしょうか?違うはずです。「普通」の中にイノベーションの契機があることに私たちはもっと気づくべきではないでしょうか。そして私たちに刷り込まれている「ある思考パターン」がイノベーションや創造力を阻んでいることを知るべきではないでしょうか。そういうスタートラインから次世代をだれに委ねるかを一緒に考えてみたいと本セミナーを企画しました。

参加希望者は下記のメールに所属と名前を記してお送りください。応募者多数の場合は多様性の観点から人選をさせていただきます。こちらからのレスを必ずお確かめください。

福岡大学次世代人材開発研究所、NPO法人九州アジア経営塾 共催
福岡大学次世代人材開発研究所開所記念セミナー
       未来を誰に託したいか


私には未来を託すのは特別の人ではないとの確信があります。といって、これまでの延長線上の人でもない。「ふつう」の人が「ふつう」に働き学ぶなかに、未来を託す人材を発掘し育つ場や仕組みを構築したい。そういう思いから、次世代人材開発研究所は生まれました(2011年4月)。
その、未来を託す人材とはどういう人なのでしょうか。また、どこで、どうやって発掘され育つのでしょうか。この問いかけを軸に、今回、「人材の森」を目指し九州のリーダー育成に8年間取り組んできた九州アジア経営塾との共催企画として、以下のようなセミナーを開催します。
セミナーでは、マザーハウスの山口絵理子さん、関西学院大学の鈴木謙介さんをゲストスピーカーにお招きし、「未来を託すとはどういうことなのか」「時代はどういう風に変わりつつあるのか」を一緒に考えます。次に、参加者は、大学生とビジネスパーソンが混在する形でのワールドカフェに参加していただき、自らが未来を担う人材として一人称で議論し、未来に向けてどのような一歩を踏み出すかを心に誓うと同時に、「約束」を参加者相互でしていただきます。
(ビジネスパーソンとは社会に価値を贈与する活動や仕組みに関わる人をさしています。ビジネスパーソン=企業人で
はありません。ビジネスの存在意義を考えていくとビジネスパーソン=価値を創出する人になると考えています)


***プログラム(プログラム企画協力:ドネルモ)***
 本セミナーは2部構成で進めます。
◆1部 未来を託す?時代は変わりつつある?変わった?(13時15分〜14時15分)
ゲストスピーカー 山口絵理子氏(マザーハウス)  
「未来を託するのは自分?こたえは自分の中にある?」
ゲストスピーカー 鈴木謙介氏(関西学院大学社会学部)
「平凡な自分だからできること――”曲がり角の世界”にチャンスがある」
モデレーター:田村 馨(次世代人材開発研究所)

◆2部 一人称で考え議論しよう(14時30分〜16時25分)
40名の大学生、40名のビジネスパーソン、それにゲストスピーカーも加わり、ワールドカフェ形式による話し合いを進めます。
ファシリテーター:田村 馨・兵土美和子(福岡大学商学部)

◆日 時:3月18日(日)13時〜16時30分(12時30分開場)
◆場 所:パピヨン24(福岡市博多区千代 1-17-1)
福岡市営地下鉄箱崎線「千代県庁口」4番出口
◆定員:大学生40名、社会人40名
◆参加費:無料
◆申し込み方:nextgenerationhrd@gmail.com(FBのIDをお持ちの方はjisedai.jinzai@facebook.com)にお名前と学部・学年、所属・職種等の属性を記入して申し込みください。

●ゲストスピーカー
山口絵理子氏
株式会社マザーハウス代表取締役兼デザイナーとして新しい企業、事業のあり方を創造するゼロ世代社会起業家のひとり。
鈴木謙介氏
「カーニヴァル化する社会」(講談社現代新書)で論壇にデビュー。理論社会学をベースに、幅広いメディを通して、深く多彩な議論を展開する。

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閉じた就活ではなく、オープンで躍動する就活を

ゼミの担当教員がゼミ生の就活やその結果にどこまで責任をもつべきだろうか?私の意見は、直接には「ない」だ。就職活動の指導をゼミでしているわけではないからだ。ただ、間接的に「あり」だと思う。それは、ゼミの担当教員というよりも、ある時期に関わった大人としての意見だ。

本ブログで何度か書いたが、4、5年前?(もっと前かな?)くらいまでは、私は「就活」を総じて好意的に支持していた。たとえ就活一色になって大学生としての本来の立場を忘れたとしても、就活で成長する学生が少なからずいたからだ。

だが、ここ数年は、就活の肩をもつ気が失せている。マイナス面しか感じられないからだ。就活を通じて成長したという学生が極端に減ったことがその根拠であり、そのことに戸惑いすら感じている。

企業の採用活動を含む、大学生の就職活動をとりまく環境が変化した影響は大きく、深刻だ。なぜ深刻か。ひとことでいえば、大学生の近視眼的な志向をさらに、袋小路的に、強めたからだ。不幸なことに、近視眼的な志向こそが日本の多くの企業の「足かせ」であり、それを解き放つことが求められているのに、近視眼的な志向を強める大学生の中から次代を担う人材を選ばねばならない。この構図は皮肉としかいいようがない。

就活しかしない(できない)学生に同情はしないが、批判はできない。すべてが彼ら彼女らのせいにできない、私も近くにいた大人として罪がないとはいえないからだ。

だからこそ、彼ら彼女らにメッセージを送る。特に今年は「就活に閉じこもるな」とのメッセージを手を替え品を替えて送るつもりだ。自らのオープンリソースとしての可能性を企業に訴求して欲しいからである。ならば、就活においても「オープンリソースとしての私」でなくてはならないし、志向し続けなければいけない(と私は思っている、ウソの自分は訴求できないからだ)。いうまでもなく、それは就活のためだけではなく。

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書く力とはなんだろう?20111112

FBページの「書く力をきたえるプログラム」https://www.facebook.com/kakuprogramに2011年11、12月にアップした記事です。

書く力とはなんだろう?書いたものを自ら否定し、ひっくり返す力だといいたい。絶え間ない修正、加筆で書いたものが変わっていく。最初と最後では、構成も流れも主張点ですら、様変わりしてしまう。理想は最初に書いたものの痕跡が残らないほどの大変化だ。もちろん、明確なイメージに導かれ、書きたいこと、書くべきことをほぼ修正せずに書き上げる書き手はいる。そうではない多くの書き手は、書きながら、書きたいこと、書くべきことが浮かび上がってくる。ならば、試行を重ねることでしか(それは結果として文章の大幅修正につながる)、書きたいもの、書くべきものは書けない。この当たり前のことを書くPは尊重し、その方向でプログラムやプロジェクトの開発・運営にあたっていきたいと思っている。

書く力とはなんだろう?思いつきで書きだす力ではないか。思いつきで書いてみる。書くとは、そういうアバウトで展望なきスタートをきるものではないか。とりあえず、書いてみることから「書く」は始まるといってもいい。書くとは自分の思いや考えを「形にすること」だと理解すれば、至極当然の話だ。ところが、多くの場合、何らかの目的や課題の下で書くのが一般的だ。この状況では「思いつき」で書いてみることは志向されにくい。だからこそ、思いつきで書くことの勧めなのだ。書いてみないと始まらない、からである。そういう「踏ん切りのつけかた」を書くPでは推奨する。

書く力とはなんだろう?自分の経験や体験を相手の要望に応じて「読み替える力」だといいたい。たとえば「あなたが人生で一番努力したと思う経験、体験を語ってください、書いてください」との問いかけに対して自分の人生から適切なエピソードを選ぶケースを想定しよう。このとき、「一番なんていわれたって、そんなのは特定できないよ」「何を基準に一番を選べといっているの?」「どういう努力を聞きたいの?」などの反応をしてしまう人たちがいる。こういう反応をされたら何も生産的なものはうまれない。私たちの経験や体験には努力や運、人脈、能力、環境など多様な要素が絡む。どれか特定の要素だけでは解釈したり説明できない。つまり、読み替える力が発揮される余地があるのだ。この理路がわかると相手の要望にそう形で自分の経験や体験を語り書くことができる。書くPのエピソードづくりで問われるのはその「自分の経験や体験を読み替える力」に他ならない。

書く力とはなんだろう?自分の「一歩踏み出す」経験や体験を他者にエピソードとして語り、そこで何に気づいたり悟ったかを思いつき他者に「他人ごとのように=突き放して)」伝える力であると書くPは想定する。だから、「一歩踏み出す」とは以下のようなものでなくてはならない。そういう視点から書いたエッセイです。

「発達と進化」
生物学等で習ったように、私たち人間は、9ヶ月間、母親の子宮の中で、遺伝子に組み込まれたものが分化(胚発生)するかたちで人間の形をもつ赤ん坊になっていく。その後も身長が伸び体重が増えヒゲがはえ・・・・など、他者同様に、発達していく。精神的な面での発達もあらかじめ予定されていたように進む。たとえば他者の存在を認知し、他者と自分の関係性を学び、世界は自分ひとりでは回っていないことを知っていく。
いま皆さんに問うている「一歩踏み出す」は「発達」の範疇ではない。正確な使い方ではないが、突然変異的に私たちは変わる、それを「進化」といおう。「発達」は予想可能な決定論的な変化であり、「進化」は予想できない偶発的な変化である。「進化」を誘発するのは外部環境(社会や地域、集団、他者など)であるが、外部環境をどう認知するかは個人によって異なるので、外部環境による誘発は人によって違う。「一歩踏み出す」はみなさんにとっての「進化」の物語に他ならないのである。

書く力とはなんだろう?。誰のために、何を書くべきかがわかっていることだといいたい。これまで、書くとは誰かに何かを伝えるための所業だった。ところが、インターネットの普及と進化によって、読み手が未定だったり不定でも、書くこと(公に発信するものを)ができるようになった。だから気楽に書けるのだが、やはり、「誰のために」書いているかを意識しないと、書いたものはピントが甘いものになりがちだ。夏目漱石の小説における対話のやりとりが秀悦なのは、誰に向けて書いているかが明確であるからだろう。「誰に」を外した書く力など定義できないし論じるべきではない。それこそが書くPがくどいくらいに踏襲する基本スタンスに他ならない。

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人材力とはなんだろう?20111112

FBページの次世代人材開発研究所https://www.facebook.com/nextgenerationHRDに2011年11、12月にアップした記事です。

「しめしがつかない」という基準をもっているか否かで人材力を判定したい。私もそうだが、まわりに「ダメ出し」をしてくれる人が少ない。自分でときおり気づく欠点、足らないところがある。ということは他者からみたらその数倍、数十倍の欠点、足らないところがあるのだろう。私のような、いろいろなことに細かく気がつく人間ですら、相手に伝える批判的なメッセージは10のうちの1だ。相手のことを思えばもう少し「小言」をいうべきなのである。だからこそ思うのだ、他人任せでは成長はおぼつかないと。そして「しめしがつかない」との視点から自分を照らす合わせ鏡の存在の大切さを。本研究所で提供してみたいのは、どこまで何をどう指摘されたら、それを批判と受け止めてしまうかを自己認識できるワークなりプログラムだ。

他者の指摘やアドバイスが理解できない人がいることをふまえているか否かで人材力を判定する時代が到来しつつある。こちらの指摘やアドバイスが受け入れられないではなく、ホントに理解できない人が増えている。謙虚にならなければいけないのは、他者に意見する側なのだ。そういう時代の変化を受け入れる「きっかけ」が必要な時代になった。本研究所が提供するプログラムに組み込む予定です。

目が見えない状態でどこまで歩き続けることができるかで人材力は判定できると考えてみたい。半年ぐらい前から、ジョギングの帰り道、幅100m、長さ300mほどの広い空地を目をつぶって歩く訓練をしている。私の一番目の関門は50歩あたりにやってくる。突然の恐怖心に襲われる。両サイドは木が植わっているだけ。水路に落ちたりといった危険はない。そもそも広い。にもかかわらず、50歩あたりで足が、身体がすくむのだ。目標があると人は勇気をもって前に進める(勇気を持たずとも?^^)。先行きが不透明で目標も志的なものも見いだせない時、われわれは何を信じて前に進むべきなんだろう。こたえは実地での「目をつぶって歩く」ワークにある。 巻頭の問いかけを次のように修正したい。「目が見えない状態で歩くなか恐怖心で身がすくんだとき、何をてがかりに一歩踏み出すかで人材力は判定できると考えてみたい」と。本研究所が提供する実地型プログラムのメニューに加えます。

何をどう「つまみ食い」するかで人材力は判定できると想定しよう。ネットの利用等で入ってくる情報は増加傾向にある。毎日あるいは定期的に特定のサイトから入る情報を定食型というなら、不定期にたまたま遭遇したり知ったサイトから入る情報は「つまみ食い」型といえよう。この「つまみ食い」型情報とのつきあいかたが、いまもそうだし、今後ますます、重要になりそうだ。なぜなら、思いもかけない情報との遭遇が「気づき」や「創発」の起点となる確率が高いからである。「馴染みがない」「異質である」情報は私たちの既存の知識体系を揺さぶり、時に再編成してくれる。「つまみ食い」に関するエピソードを共有する場はイノベーションの場に進化するかもしれないのだ。本研究所が提供したい場に他ならない。

日常の中での「気づき」や「一歩踏み出す」の有無やその内容で人材力を判定すべきだと本研究所は主張したい。私は機会あるごとに大学生に話す、「特別の何かをした(から何かに気づいたり一歩踏み出せた)」私」ではなく、「何気ない、そして昨日と同じように過ぎていく日常のなかで「気づき」「一歩踏み出す」私」を就活では訴求すべきだと。なぜなら、企業組織の中では「特別の何か」は起こらないからだ。「特別の何か」がないと気づかなかったり一歩踏み出せない人材では困るのだ。本研究所は、若い世代に企業が求める人材の何たるかを伝える(企業側は若い世代に対する認識を新たにしコミュニケーションの勘所をつかめる)セミナーやワークショップを来年から積極的に仕掛けていく予定です。

辻褄があわないことを許容するか否かで人材力は判定できると想定しよう。ふと気づくと周りは辻褄があわないことだらけだ。たとえ辻褄があったとしても、その持続は難しい。自分の力不足、運の悪さ、他者の想定外の行・・・・原因となる要素は数え出したらきりがない。それでも生きていかねばならないし、ことを進めなければならない。辻褄のあわなさを封印するのではなく、見て見ぬふりをするのではなく、それこそが自分の足場なのだと認識することが次の一歩につながる。人生は「砂上の楼閣」だと開き直るもよし。「こうでなくてはいけない」との向上心は、時に人の気概や誇りをくじく。そのような複雑な心の機微をダイアローグを通して深く理解することで、辻褄のあわなさに思い悩む心情は克服されるのではないか。静かなダイアローグの場。本研究所が提供したい「場」に他ならない。

自分にまつわるお伽話を話せるか否かで人材力は判定できるのではないか。頑張った話、失敗した話、楽しかった話、懐かしい話、思い出話なら簡単にでてくるかもしれない。しかし、「あなたにまつわるお伽話を話してください」といわれとき、多くの人が絶句するだろう。自分の中におとぎ話とはどういうものか、どういうものでないかのイメージが明確でないからだろう。「つくり話」ではなく、といって真実そのものの話ではなく、自慢話でも、教訓めいた話でもない何か。この手の突飛な投げかけからスタートするワーク。本研究所で提供するプログラムの一群はそういうものになるだろう。

科学的な理路で身体と向き合っているか否かで人材力は判定できると想定しよう。私は、若い時に精神論によるスポーツを体験した世代だ。中学は野球部に属していて、「練習中、水を飲んではいけない」、「肩が冷えるので水泳は控えた方がいい」、「とにかく声をだす」、「うさぎ跳びは必須の基礎体力練習」などの根拠なきルールで縛られていたし、自分でも信じていた。その反動でか?^^、人の100倍くらい精神論を嫌う。その私をしても、ジョギング中に足の裏や横っ腹が痛くなるのは「調子が悪い」「走りこみが足りない」せいだと思い込んでいた。それが、日経新聞24日付朝刊のジョギング特集の、「血糖値が下がると脳が偽りの情報を出して悪さをする」との指摘に目からウロコ状態となった。横っ腹や足の裏が痛くなるのは、脳が自らの生存を優先するために偽りの情報を発信し、走るのをやめさせようとしているからなのだ(走ることに投入される糖を脳の方に回すことが狙い)。この脳と肉体の関係がわかると、精神論ではなく、科学的に(仮説的に)身体と向き合える。身体と科学的に向きあう事は、社会や経済、人間理解に関する先入観・固定観念を相対化したり点検する契機となる可能性が高い。本研究所では、スポーツを科学する観点からのプログラムも提供したいと思っている。

自分の存在や活動を「誰かのため」「社会のため」など他者との関係で説明できるか否かで人材力は判定できると考えたい。これは、自らをオープンソースと位置づけているか否かを人材力の判定基準にするということだ。人は自分のために生きているし活動している。そこに異論はない。ただし、「自分のため」の自分が開かれているか閉じているかで、ものごとに対するスタンスや姿勢、関与(が産むアウトカム)は異なってくる。他者との連携、協力なくして価値ある成果は得られない。「自分のため」の価値を上げるには、自分をオープンソースと位置づけ、そのように振る舞うことが不可欠だ。「自分のため」と「世のため人のため」が両立することを腑に落とすプログラムを本研究所は提供します。

人前で自分の意見や思いを表現する場や機会が自分らしい実力を鍛錬することを知っているか否かで人材力は判定できよう。他人の前で話をする。耳が熱くなるくらいあがった、頭が真っ白になった、声が震えた、下を向いたままだった・・・・そういう状況にありながら、その状況から抜け出すしかないのが「人前で話をする」だ。意図的かどうかはわからないが、他人の前で話す場と機会は、その人らしいスタイルを構築し研磨していく。場数を践むことで人は鍛えられ成長することを学ぶプロセスだといっていもいい。上手く人前で話すではなく、話すべきことを話すことの大切さと、それがどういうことかを腑に落とすプログラムを本研究所は開発し提供していく予定です。

議論や判断の前提条件を疑うことに長けているか否かで人材力は判定できるのかもしれない。俗説、俗論は正当性の衣に身を隠していることが多い。たとえば、在来種を本来の地に適合したものだと一段も二段も上位に位置づける考え方などがそうだ。たまたまの結果と普遍的な何かを結びつけ、たまたまの結果に未来永劫の正当性を付与する俗論、俗説に気づかないことは多い。適地適産という言葉や考え方も、在来種に優越性を求めるスタンスから論じられると、危うい概念になってしまう。
こういう指摘や議論は日常生活の中ではやりづらい。「穿ち過ぎだよ」といわれるのが落ちだろう。だが、「穿った」見方(=ことの本質に迫る切り込み)は固定観念や先入観から逃れるために必要な視点である。穿った意見を自由にかわす場を提供し、そこでの議論のリードする人材を育てるプログラム、プロジェクトの開発は本研究所が常に目指すところである。

何らかの問いかけ、叱責へのレスポンスが相手の要望をくみ取っているかどうかで人材力を判定したい。返事だけはいい人が増えている。相手の要望に対する「はい」「イエス」が、その場をしのぎのレスポンスにしか感じられない、聞こえない人達だ。その反射神経的なレスポンスは思考や受容といったプロセス、フィルターを経ない。周りはその軽さに気づいているが、当の本人が気づいていない。当の本人が気づけるプログラムを本研究所は提供したいと思っています。そういう人間に限って上昇志向が高いので、世のため人のためにも^^

人間の邪悪さから逃げるのではなく、その克服を誓えるかどうかで人材力を判定しよう。人としての姿勢は仕事において垣間みれるが、他者との関係性の中にも発見される。他者との関係が親しいものであればあるほど、他者の邪悪な部分に触れる機会は増える。邪悪なものを人は誰もがもっている。しかも、みるからに暴力的だったり、忌避すべきことがわかるものではない。それゆえ、本人の意図とは関係なく、邪悪なものは他者の心をくじき意気を消沈させる(村上春樹の小説のモチーフの1つはこれである)。邪悪なもの(が潜む相手)から逃げるのか、立ち向かうのか。そこに、人としての姿勢(人間に対する信頼や希望を信じる力)が反映される。邪悪なものと向き合うことを決断したとき、人は何をよりどころにするのだろうか。テキストを使用することになるかもしれないが、人間の深部に迫るセッションも本研究所が提供したいプログラムの1つです。

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