日記
川井事件2佐竹義宣、近世大名への脱皮・悪い話より抜粋&コメント
佐竹義宣
佐竹義宣の陰の部分を・・・ まだ悪い話に書かれていなかった「川井事件」を
(漫画でも描かれているので有名だと思うが・・・) 関ヶ原の戦いの後、佐竹家は父祖伝来の地”常陸国”(現:茨城県)から
”羽後国”(現:秋田県)へと転封されることとなる。 戦国の世も終わり、武勇に勝る家臣よりも政治家タイプの家臣が求められる
時代へ・・・佐竹家中もそういった空気が漂いはじめていた。 義宣自身、一国も速く近世大名へと脱皮したいという思いと、いつまでも
父・義重を引き合いに出し意見する老臣達を煙たく思っていた。 事実として秋田入部後から渋江政光、梅津憲忠・政景兄弟等文治能力に
長けた家臣団が新領地の行政を取り仕切るようになっていた。 ※渋江や梅津は譜代ではなく元は下野国の小山氏・宇都宮氏に仕えていた 浪人だった。 これを快く思わない重臣・川井忠遠と他譜代家臣。
両者の対立が決定的となったのは家老・和田昭為の隠居 その空いた家老職に渋江政光を昇格させるという話が・・・ これに川井含めた譜代家臣達の不満が爆発。
川井忠遠・小泉籐四郎・野上刑部左衛門・小野玄蕃・大窪長介ら 5名の重臣が先頭に立ち、これに反対した。 彼らは渋江政光襲撃までも計画していたが、梅津達に悟られ これを擁護した義宣に粛正された。 これが世に言う「川井事件」 この事件後、佐竹義宣政権は渋江・梅津等の若い家臣団で形成されて行き
近世大名へと脱皮することに成功するのであった。 同じ頃に食客(完全に家臣になっていた説もあり)だった梶原政景が 出奔し結城秀康へ仕官する。 梶原自身も若い頃から知勇でならした人間だっただけに近世大名へと
変わり行く佐竹家に自分の居場所がないことを悟り出奔したものと思える。 --------------------------------------------------------------------------------
関ヶ原以後、徳川体制が安定していく過程で、どこの家でも旧来の有力家臣の 出奔って多くなるんだよね。 軍事体制から平和な統治の時代になって、やはり武士の世界にもものすごい変動があったんだろうな。
梶原さんの動向を見ていると、あっさり北条に通じたり、織田信長の
勢威が関東まで及ぶようになってくると、直接織田と結ぼうとしたりと、 岩槻から追い出されてきたにもかかわらず、けっこういろいろやってるしな。 梶原景宗と紛らわしい。 重臣の最後は泣けるな
関が原後、平和になってしまって自分の居場所を無くしてしまったから 大阪の陣や天草の乱で死に急ぎ次々殉死していった人が多かったのかもな そしてアレだけ切れ者の官僚が よりにもよって大坂の陣で討ち死にしてしまうと言う皮肉。 そういう死に方したい人は他にいくらでもいたのにねえ。 なんで出陣させたんだろそもそも。
他に出たい奴はいくらでもいそうなものだが。 家臣団の再編真っ只中で、義宣身辺しか外征させる余裕がなかったのかもな 川井は南陸奥の最前線・赤館城の城代や、湊城接収を担ったバリバリの武断派重臣 彼と一緒に粛清されたのも、たぶんそういう人達だろう 領地未確定のまま秋田入りした義宣にとって、検地と家臣団再編が最重要課題だった
初の秋田領検地ってのが、川井粛清と同時進行でなされてる 義宣の言葉 「とにかく秋田・仙北の検地をやらないと立ち行かない! いくら身分が低い者だろうと、検地の才があれば水戸より連れてこなければならん」 川井ら武辺者にとって、居心地の悪い話
いくら武断派は処罰されたからって言ってもまだ不満に思ってる奴もいただろう そういう奴に納得させるためにも家老として実戦を経験したことがあるという名分が欲しかったのかも試練 |
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