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与謝町と加悦町

このふたつの京都の町は一度は行ってみたほうがいい。
与謝は与謝鉄幹の故郷である。
大江町と合わせて古代史が好きなら、一回は行っておきたい渡来の地域である。


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青森の縄文時代の三内丸山遺跡から日本海のヒスイや、殷(商)時代の青銅器時代の絵柄が出る。といったらあなたは「まさか」だろうか?

でもそれらが発掘されてもう何十年も経った。

「ちなみに、山形県遊佐(ゆざ)町の縄文後期の三崎山(みさきやま)A遺跡からは、殷(いん)代の青銅製刀子(せいどうせいとうす)が、鶴岡市羽黒町(はぐろまち)の縄文中期の中川代(なかがわだい)遺跡からは、甲骨文字風(こうこつもじふう)の記号が記された有孔石斧(ゆうこうせきふ)が、青森県東津軽郡外ケ浜町(そとがはままち)の縄文晩期の今津遺跡からは、古代中国の「鼎(かなえ))」によく似た3本足の土器がみつかっている」


縄文後期の人の海上移動は、「動かなくなった現代人」の想像を超えている。必要は人を動かした。そしていちたびそれを得て行くと、人は次第に動かなくなった。

お忘れなく。

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籠池さんと大宇部多


大宇部多(おおうべのおう)は古代の静岡富士川あたりにいた「土建屋的な」土着の人である。それが、仏教が中央に伝来したころに、古い民間信仰である霊魂の再生をうながすある種の虫を神と言い出し、山城の秦河勝に叩かれる。

この構図はまさに森友学園理事長・籠池さんのことを思い出させる。



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雄略までの河内の大王を、史学者たちはどうした理由なのか、倭王武であるとしている。その理由が「たける」が「武」とされたからだとする。それでいいのかどうか理解不能で困っている。

「たける」という日本語の意味を、どうして中国の王たちは「武」だと考えられたのだろう?

ほかの大王もそうだ。
倭王讃の「讃」以下全員の名前に、日本語で対応するような諡号が見当たらない。




以上、前の記事もそうだが、あらかた古代史の謎を扱い終わって、書く事もないので、筆者のいまだに解けない疑問を書き並べている。頭をまとめたいのである。



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皇統譜の断絶

記紀では第21代雄略天皇のあとの22代清寧天皇に男子の継嗣がなく、継体大王まで、以下の諸天皇を挟んでその系譜を飛鳥王家につないである。
これは、ある意味、飛鳥以後の奈良天皇家とのあいだの断絶を想像させる記事になっている。
継体大王も、同じく、外からの人であるので、二度も不確定な「つなぎ」の王がここに挟まれることとなる。雄略を、大和ではなく河内の「別の王家」だったと考えると、それを無理やりに別系統や婿入りによってつないでみせているわけで、むしろだからこそ、彼らが創作された王であり、河内と飛鳥につながりがないのではないか?と好事家を喜ばせてしまう記事になっている。

●飯豊青皇女
飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ、允恭天皇29年? - 清寧天皇5年11月?)
記紀に伝えられる5世紀末の皇族(王族)
履中天皇の皇女、または市辺押磐皇子の王女。

第22代清寧天皇の崩御後に一時政を執ったとされ、飯豊天皇とも呼ばれる。
飯豊(いいとよ)はふくろうの別名、青は鬼(人ではない、あるいはシャーマン)をそれぞれ意味し、『日本書紀』表記は彼女を蔑視(夜ばいする淫乱巫女?)したとも考えられるが、日本最初の巫女天皇になるか。

飯豊皇女または飯豊王女(読みは共に「いいとよのひめみこ」)と書かれることが多い。他表記ならびに別名は、飯豊女王(いいとよのひめみこ)、飯豊王(いいとよのみこ)、飯豊郎女(いいとよのいらつめ)、青海皇女(あおみのひめみこ)、青海郎女(あおみのいらつめ)、忍海郎女(おしぬみのいらつめ)、忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)、忍海飯豊青尊(おしぬみのいいとよあおのみこと)。

「おしぬみ」は葛城内の地名「忍海 おし(う)み」で、のちに「凡海 おほしうみ」か。飯豊王の本拠地。

忍海部は、飯豊王の子代部民
漢人(あやひと)をかかえた雑工部(物品製造に携わる職工集団)でもあったらしい。

「あをみ」は不詳(あるいは青海郎女の「青海」や飯豊青尊の「青」は福井県大飯郡高浜町(大飯・高浜原発で有名)内の地名かとも思われる)。
 修二会過去帳拝読で読まれる「青衣の女人(しょうえのにょにん)」や、葛城山の枕詞(木幡、忍坂山等にも掛かる)の「青旗」等、「青」の意味を考える価値はあると考えられる。このように青い旗は女性シャーマンを思わせる名である。

男王不在時の「つなぎの女王」だといえる。




●弘計 読み「ヲケ」王は、
=顕宗天皇(けんぞうてんのう、正字体:顯宗天皇、允恭天皇39年 - 顕宗天皇3年4月25日)のこと
記紀・『播磨国風土記』が共に第23代天皇(在位顕宗元年1月1日〜同3年4月25日)に作る人物。
兄は24代仁賢天皇。
弘計天皇(をけのすめらみこと)『日本書紀』
来目稚子(くめのわくご)
袁祁王
諡号=袁祁之石巣別命(をけのいわすわけのみこと)『古事記』
袁奚天皇(『播磨国風土記』)とも。
市辺押磐皇子(履中天皇の長子)の第3子。
母・葛城蟻臣(ありのおみ)の女・荑媛(はえひめ、荑は草冠+夷)。
同母姉・飯豊女王(いいとよあおのひめみこ)。




●仁賢天皇(にんけんてんのう、允恭天皇38年 - 仁賢天皇11年8月8日)
第24代天皇(在位:仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日)
名は億計天皇(おけのすめらみこと)
大石尊(おおしのみこと)
意祁命・意富祁王(おおけのみこ)
諱は大脚(おおし)または大為(おおす)、字は嶋郎(しまのいらつこ)。


安康天皇3年10月1日父市辺押磐皇子雄略天皇に殺されると、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。清寧天皇2年11月、弘計王自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、翌年2王を宮中に迎え入れて、4月7日(5月10日)に兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした。
同5年1月16日に清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年元旦、弘計が顕宗天皇として即位する。引き続き億計が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。罪無くして死んだ父を弔い、また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走ることもあったが、長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。同3年4月25日、崩御。『古事記』に38歳(但し治世8年という)、『一代要記』に48歳。なお、即位前に志毘臣(しびのおみ、平群氏)との恋争いのもつれから、これを夜襲して誅殺したという話もある(『古事記』)[1]。」以上Wiki顕宗天皇より


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Wikiより



●武烈天皇 25代天皇
彼もまた皇女しか生まず継嗣がいなくなって継体天皇がやむなく担がれた。
●継体天皇 26代天皇
なぜか河内王朝初代の応神天皇の、遠い孫とされ、日本海越前福井の三尾氏の娘と、近江の息長氏とのあいだの子とされる。妻は最初尾張氏の娘だったが、あとから河内王家武烈の娘・手白髪皇女が正室として迎えられる。つまり継体は正統王家の、外戚から入った婿養子という格好になる。悪く言えばあとの飛鳥王家との間を血脈だけでつなぐための「種馬」的存在。息子は安閑・宣化天皇だが、先のオケ・ヲケ同様に皇位を譲り合っており、いかにも両者からオケ・ヲケのエピソードが作られたと匂わせる。

また、オケ・ヲケのような一種の貴種流離譚が、播磨あたりから出るのも、どこか地方民間伝承のにおいがあり、また職能民から出てきそうな話に見えるし、考えてみれば、どこかしら中国の秦の始皇帝になる前の「貴貨置くべし」話に似ている気もする。

つまり、この部分はあきらかに創作だろう。
ということになれば、本来無関係な河内王家と飛鳥王家を、万世一系・皇紀2000年の、世界に類例のない、断絶なき王家だと言うがための、藤原不比等らの意思が見えることになる。

ではなぜ記紀は、日本の大王家が一度の断絶もなく、神武以来2000数百年続くとしたかったのだろうか?ならばなぜ中国史書にある卑弥呼や臺與、そして倭の五王なども確実に存在した王家を記事に反映させなかったのだろうか?さらに神功皇后・継体大王・息長広姫とつづく息長の系譜が葛城氏娘との婚姻から生まれるとしたのだろうか?ただの貿易商人・海人族だった息長氏と藤原氏の間に、いかなる癒着が?筆者にはどうしてもそれがわからないままである。

不比等は実際の初代天皇である天武以後の新大王家を、それまでの前にあった諸豪族たちが伝承してきた大王家とつなぐための努力を『日本書紀』でやっている。それは天武の息長・葛城血脈と、継体から欽明の飛鳥正統王家とつなぐために確かに必要ではあっただろう。諸豪族の民意をおさめるためにはそれは必要だったとは思う。しかし、天武死後、なぜか兄天智の血を引く女帝を持ち上げ、背後では天武血脈は次々に消えていった。結果、王家の正嫡は天智の後裔に変化し桓武が登場する。それでも血脈はまだ息長・葛城のままではある。

ところが、天武には、天智の弟ではなかった可能性が書かれた。この矛盾は?

天武は年齢が諸説あり、天智よりも年上で、しかも兄弟ではなかった可能性まで『日本書紀』はこそっと示唆してある。これはいったいどうしたことか?また継体大王にも『三国史記』で、天皇と二人の皇子が「ともに亡くなった」と記録してある。この矛盾は何を意味するのか?

極め付きは平安時代に『日本書紀』の要所に書き換えの可能性があることを学者が指摘していることであろう。






付記
先日、サードパーティに宮内省のクッキーを発見した。以後、クッキー設定でサードパーティすべてをブロックするに変更した。



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◆京都の要石「六角堂へそ石」 
「多くの人や車が行き交う烏丸通から六角通を東に入る。間もなく現れる山門の奥に、静かな境内が広がる。ハトが群れをなし、せせらぎの音が心地よく響く。中央に建つ重厚な六角形の本堂が六角堂で、そのまま寺の愛称になった。
 正式な名称は紫雲山頂法寺という。五八七年に聖徳太子が開いたと伝わる。本尊には聖徳太子の護持仏だったという如意輪観世音菩薩(ぼさつ)像をまつる。
 創建当初、境内北側の池のほとりに小野妹子を始祖とする塔頭(たっちゅう)「池坊」があった。妹子が太子の霊を慰めるために仏前に花を供えた。これがわが国の生け花の始まりとなったという。
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1606658/00/54641000/img_0?20170319093910


 由緒ある六角堂には不思議な言い伝えがある。平安京造営の際、新たに造る道路の計画路線に六角堂が重なってしまった。役人たちは太子ゆかりの大切な堂の扱いに困り、桓武天皇の使いを呼んで本尊に祈った。すると一夜にして六角堂全体が北に約十五メートル移動し、問題が解決したという。


 ところがこの時、六角堂を支えていた礎石だけが動かずに残ってしまった。これが今も境内にある「へそ石」という。やや盛り上がった白っぽい石は本堂と同じ六角形で、幅約四十五センチある。中央に開いた直径約十三センチの穴には水がたまり、中にはさい銭の硬貨が数枚見える。へそは中心の意味で、中世には町衆の間で京都のちょうど真ん中を指す目印となった。
(中略)

 へそ石は江戸時代まで六角通の中央にあったが、交通の障害になるため一八七七(明治十)年に境内に移り、近年さらに境内の中で場所を変えた。だが売店前に展示している一七八〇(安永九)年刊の「都名所図会」で、六角通の中央にぽつんと残るへそ石の当時の姿を知ることができる。

 へそ石の正体をめぐっては、石灯籠(とうろう)や水位計の跡とする説が有力になっている。だが、現在も周辺には金融機関やオフィスビルが立ち並び、京都の中心地としてにぎわう。今も京都の「へそ」であることは確かなようだ。」
http://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mukasikatari/080313.html


http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1606658/00/54641000/img_1?20170319093910


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さて、「平安京造営の際、新たに造る道路の計画路線に六角堂が重なってしまった。」という言い伝えが正しいかどうかはともかくも、平安京造営前から六角を礎石とするなんらかの建造物が京都北西部にはあったのだろうということを、京の人々は語り継いできたことになる。

千本六角の今の通りから真北に行けば平安宮大内裏に行き着く。
その途中に千本六角があって、平安時代にはここに朱雀殿が建っていた。
となると六角へそ石は朱雀殿に伴うなにかの建造物かとなるが・・・。
しかしそれならば六角堂が現在地に移動しているのもおかしな話になる。
朱雀殿の一部がのちに邪魔になったということだろうか?
江戸時代内裏の移動とともに移転されたか。
千本通りのど真ん中にへそ石・礎石のひとつが残され、邪魔だから同じ六角通りの東にある現在地にスライドした。
ならばなぜ一個しか残っていないのか?それが建造物なら少なくともあと五つかそこら礎石はあったのではないか?

秦河勝の屋敷は旧大内裏にあったと言われている。
それを平安京建都の際に桓武天皇に譲った、献上したことになっている。
その証拠が内裏の前に左右に植えられていた橘と梅の木であったと言う。
さて・・・もしや千本六角にこそ河勝の住居があったのではないか?

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1606658/00/54641000/img_2?20170319093910

千本六角から西へ、三条通を進めば葛野の太秦に至る。まっすぐな一本道である。最終的に松尾に至る。
これが太秦から河勝邸宅への「参道」だったのではなかろうか?実は「六角堂縁起」には「聖徳太子」建立という設定がほどこされている。聖徳太子にまつわるとなると、これは「隠し蓑」であろうから、河勝の関係であろう。

六角堂を京都の民衆は「京都の中心」「へそ」「かなめ」だと認識してきた。
中世の戦乱時代の談合、江戸時代の一揆での集会所として六角堂が選ばれてきた。(『京都坊目誌』堂之前町由来)

ただ残念なことに、発掘では飛鳥時代の遺構・遺物が出てこなかった(古代学協会調査・旧平安博物館)。
完璧に撤去した?それは宮が建つのである。それもありえる。土器の破片すら一片残さずに・・・。
わからない。

いずれにせよ六角の礎石の上に建っていた建造物、ないしは何かの構造物は、朱雀大路造営のために邪魔になり、どかすことになったと『元亨釈書』は伝える。桓武の官人たちを大いに悩ませ、黒雲まで発生したとある。大げさであるが、それが六角堂という建造物だったのか、礎石だったのかは書いていない。

現在、千本通りは北野白梅町からなぜか南東へ急に折れ曲がっており、大宮通の龍谷大学前から東寺の真横を抜けて鳥羽街道へつながる。Kawakatuga大学時代に遊んだ通である。かつては朱雀門へ通じる何十メートルもの巾のある道だった。両側は、やがて右京が衰えると、民衆が好き勝手に畑を作り、掘っ立て小屋まで建てたスラムとなる。いわゆる「羅城門の鬼」が棲む異界となってしまうのである。果たしてその鬼たちの中にかつての河勝の手下たちも混ざりこんだのだろうか?

旧朱雀大路だったために多くの発掘が成され、北側は旧大内裏消失にともなってその跡地まで延長、鷹峰へと通じている。

南部から北を見ると正面に、平安京の基点となった船岡山が正面に見える。広大な真南北の道であった。往古は河原町をしのぐ大商店街があって、今は狭く閑散としているが、かつての繁栄を垣間見せる。

果たしてそこに朱雀殿が建つ前は、六角堂が建っていたのか?それとも別の何かが存在したのか?へそ石はただ沈黙したまま、現在の六角堂の門前にひっそりと展示保管されている。

参考文献中村修也『秦氏と鴨氏』

転載元転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

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ポピュリスト、民族主義者でない限り、朝鮮とか中国といった隣国を大元として古代日本の源流を求めていくのは、当然の科学である。そこに、現在のその国が好きだとか嫌いだとはあってはならない。

人類はアフリカで生まれ、中東を経て拡散し、10万年前に中国、6万年真に朝鮮半島を経て、3万年前に列島に先史時代人が登場する。西から東へと人類が動いた。その大きな流れの中で、日本はアジア最後の到達地だったわけである。一番遅れて、しかしだからこそ、淘汰された最新の洗練がわが国には到達できた。

その流れの前で、たとえ筆者が両国に対して、現代的に、好ましくない気持ちがあるとしても、研究する際に、それは捨てて考えるのが当たり前である。


科学がイズムに偏れば、必ずそこには争いが起きる。超越してこそ平和は訪れる。




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熊本地震被災古墳一覧


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被災直後の釜尾古墳


 熊本地震で被災した熊本県内の古墳の状況を把握し、初期対応について話し合う有識者による検討委員会の第2回会合が昨年15日、県庁で開かれた。委員らは、比較検討に必要な過去のデータの集約と経過観察の重要性を確認した。その結果は以下の通り。

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 県内の古墳(国・県・市町村指定)は、全体の16・6%にあたる34カ所が被災した。(飛松佐和子)



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井寺古墳


画像はいずれも装飾古墳今昔紀行より




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東京大学と名古屋大学の研究グループは、東海沖を震源とする南海トラフの巨大地震が発生したあと、人口にどのような変動があるか、国の被害想定に加えて、各地の賃貸住宅の空き部屋の数、それに仮設住宅の供給予測などのデータを元に一時的に避難する世帯をシミュレーションしました。
その結果、揺れや津波で大きな被害が想定される東日本と西日本の太平洋側を中心に、246の市区町村のおよそ145万6000世帯が流出するおそれがあることがわかりました。
都道府県の外へ流出する世帯数上位地域
愛知県およそ22万7000世帯
静岡県およそ18万8000世帯
高知県およそ14万6000世帯
(このうち、高知、静岡など7つの県の沿岸の合わせて30の市区町村では、50%以上の世帯が流出する)

一方、流出する世帯の多くは主に賃貸住宅の空き部屋が多い都市部へ流入し、巨大地震によって地方から都市への人口の移動が加速する。
人口の流入で増加する世帯数上位
福岡県およそ15万5000世帯
神奈川県およそ11万6000世帯
兵庫県およそ11万1000世帯
以上の資料http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170312/k10010908411000.html



あなたもそのとき差別を受けるようになるのか?
今あなたがたがフクシマにしているような。









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