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南京陥落の頃

南京陥落の頃

NHK・Eテレで放映される「さかのぼり日本史」という番組を録画しておいて、暇があるときに再生して見ている。先日、そのシリーズの一つ「日中戦争、熱狂の代償」というのを見ていたら、いろいろなことが思い出された。その番組が取り上げている日中戦争・南京陥落の年(1937年)は、私にとってもちょっとした転機になった年だったのだ。
 
私はその年、小学校の6年生だった。松本市で5年間を過ごした私は、小学校教員をしていた父親が転勤したために、この年に松本市を引き払って伊那谷の小学校に転校していたのである。
 
松本市にいた5年間は、父の勤務する師範学校の付属小学校に通っていた。「附属小学校」は、師範学校の学生たちが教育実習をする時のために設けられた併設学校だから、学級の生徒数も少なく、比較的富裕な家庭の子供が多かった。
 
だが、村の学校に転校してみると、教室の中には50人の生徒がひしめいていて、ワイワイ・ガヤガヤやっている。一番、びっくりしたのは、そのなかに着物姿の女生徒が何人か混じっていることだった。附属小学校で一緒だった女生徒は、みんな洋服姿で、髪はオカッパにしていたのに、ここでは彼女らは寝間着を思わせる丈の短い着物を着て、髪は頭のうしろで二つに分けてゴムで縛っているのだ。
 
私は、松本の学校ではクラスのボスになっていたが、村の小学校にはこちらより腕っ節の強そうな生徒が何人もいる。当分は、おとなしくしているしかなかった。だが、私にはガキ大将だった頃のイバリ癖が残っていて、自分の方から低姿勢になって級友の機嫌を取るようなことが出来ない。それで、あいつは生意気なやつだということになったらしく、クラスの生徒は誰も私に声をかけてくれない。
 
そんななかで、私に話しかけてくれたのは、クラス内の序列が最下位の「梅さ」と呼ばれているう生徒だった。彼は病気持ちだったために、学業が遅れ、平仮名もろくに書けないような「劣等生」だった。
 
「おめえ、オレと遊べや」
 
いつも仲間はずれになっている梅さは、小学6年生がどんな遊びをするか知らない筈だった。その彼が私に声をかけて、一緒に遊ぼうという。彼は、いったい、何をして遊ぶつもりなのだろうか。私が無言で相手の顔を眺めていると、梅さは間が悪そうな表情になって、その場を離れていった。
 
それでも、同じ教室で過ごしていれば、座席の近い生徒と親しく口をきくようになる。私の前に座っているのは、着物を着て学校に通ってくる女生徒の一人でチヨ子という名前だったが、転校して暫くすると、チヨ子の方から私に話しかけてくるようになった。私も彼女に惹かれていた。彼女は、TVドラマ「おしん」の子供時代によく似た身なりと容貌を持っていて、飾らない素朴な人柄がよかったのである。
 
チヨ子は授業中に、時々、私の方を振り向いて、話しかけてくる。ある日のこと、作文の時間だったが、例によって後ろを振り向いた彼女は、私が書いている作文にちらっと目をやり、あれっというような顔をした。私には相手が何故そんな顔をしたのか理由が分からなかった。
 
元の姿勢に戻ったチヨ子に、隣の女生徒が、「どうかしたの?」というように彼女の方に顔を寄せた。二人はこちらに背中を向け、何やら囁き交わしはじめた。その言葉の切れ端が私の耳に入ってきた。
 
「自分のことを、ボクって書いているよ」
 
ああ、そうかと思った。村の学校では、作文を書くとき、自分のことを「私」と書くのだ。村の生徒からすると、「僕」などと書くのは、街育ちのハイカラな子供のすることなのである。私は、この時、自分がクラスから浮いている理由の一つは、級友からキザな気取り屋と見られているからだと悟ったのである。
 
──その頃、日中戦争は終幕に近づきつつあるように見えた。
 
中国北部で始まった日中間の戦闘は上海に飛び火し、日本軍は瞬く間に上海を制圧していた。そして、「皇軍」はその余勢を駆って、首都の南京を目指して進撃中だった。日本人の常識からすれば、首都を占領されれば敵は降伏し、戦争は日本の勝利で終わるはずだった。
 
軍部も同じような考えから、南京攻略を急ぎ、揚子江にそって「快進撃」を続けていた。戦史によれば、日本軍は兵站線が整うのを待つことなく、食料などを民家から略奪して先を急いだという。現地の住民は、日本軍は皇軍ではなくて「蝗軍(イナゴのように米を食い荒らす軍隊)」だといって憎み、農民の姿に化けた国民党軍と共にゲリラ戦を展開したから、日本軍の被害は大きくなった。南京占領に際して日本兵が中国人を大量虐殺した背景には、「便衣隊(民間服を着た軍隊)」によって多くの戦友を失った日本兵による復讐感情があったといわれている。
 
南京が陥落したのは、12月13日のことだった。国民は歓呼の声を上げ、全国至る所で昼間は旗行列、夜は提灯行列が催された。私の住んでいる村でも、祝賀の日には全村あげて行列に参加している。
 
村には男性の組織として在郷軍人会や壮年団・青年団があり、女性の組織には国防婦人会があった。それらの組織はこぞって行列に参加したし、役場を始め、村内にある会社や工場の従業員も仕事を休んで行列に加わり、学校関係では小学校の生徒まで大人に混じって旗を振って歩いた。段丘の上から眺めると、それは異様な光景だった。人の列が、坂道を上ったり下りたりしながら遠い山裾まで、延々と続いているのである。
 
祝賀行列の次の日に学校に行くと、受け持ちの先生から、昨日のことを作文に書くように命じられた。私は自分のことを「私」と表現しながら、かなり長い作文を書いた。小学生なりに興に乗って、初冬の陽の下で何処までも続く旗行列の壮観なさまを書いたのだ。
 
すると、翌日、受け持ちの先生が意外な行動に出たのである。
 
「昨日、みんなが書いた作文の中にいいのがあったから、これを書き写すように」
 
といって、私の書いた作文をそのまま黒板にチョークで書き始めたのだ。生徒たちは言われたとおりに板書された作文を写して行く。先生が無言で黒板の端から端まで作文の文章で埋めて行けば、生徒も黙って帳面にそれを写している。沈黙の支配する教室の中で、私は身の置き所がないような気がしていた。
 
後から考えてみると、担任の教師は転校生の私が皆からいじめられて孤立していると考えていたらしいのだ。「父兄会(PTAのこと)」に参加した母も、担任の先生からそれらしいことを言われたといっていた。先生は、誤解していたのである。私はガキ大将でいるよりは、アウトサイダーでいる方が楽だと知って、自分からおとなしくしていたのだ。
 
だが、先生はクラスから浮いている私を力づけ、ほかの生徒にも転校生の私のことを少しでも知らせるために、担任教師としての善意から、作文を板書するという挙に出たのだった。
 
「さかのぼり日本史」によると、中国駐在のドイツ大使オスカー・トラウトマンは、日本が南京攻略戦に苦労していた頃、日本と中国の間を仲介して戦争を終わらせようと努力している。だが、日本側があまりにも居丈高な態度で交渉に臨んだために和平交渉は失敗に終わった。
 
その後で近衛首相は、「国民党政府を相手にせず」という声明を発して自ら中国との和平交渉を打ち切ってしまった。そのため、日中戦争は敗戦まで続くことになる。あの頃の日本は、運命を決する重大な岐路に立っていたのである。そして私も群れの中に留まるか、群れから離れて一人になるかの転機に立っていたのであった。

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雅子妃と紀子妃の確執

雅子妃と紀子妃の確執
 
 
「週刊新潮」の最新号に、雅子妃と紀子妃が不仲なので美智子皇后が嘆いているという記事が載っていた。
その特集記事の題名は、こうなっている。
 
  「美智子皇后が嘆いた雅子妃の紀子妃妨害」
 
題名だけを見ると、雅子妃が悪役、紀子妃が受難者になっている。心を病んでいるとされる雅子妃に、タフな紀子妃を妨害するほどのエネルギーがあるだろうかと、いぶかりながら記事を読んでみると、直ぐに雅子妃が悪役にされている理由が分かった。この特集は紀子妃側の関係者から流された情報をもとに、紀子妃を擁護する立場から書かれているのだった。
 
事件そのものは、「妨害」と騒ぎ立てるほどのものではない。
 
天皇が心臓のバイパス手術を済ませた後、真っ先に、「お見舞いに伺いたい」と病院関係者に申し入れたのは紀子妃だった。こういう時の紀子妃の行動は、何時でも神速をきわめている。彼女は秋篠宮との婚約が整うや否や、すぐさま宮内庁から、皇后出御の際の映画を借り出している。自分が外出したとき、群衆にどう「お手振り」したらいいか、知りたかったのである。
 
紀子妃が勢い込んで病院に出かけようとしていたら、雅子妃が、
 
「順序が違うのではありませんか」
 
と言っているという話が伝わってきた。注意してほしいのは、雅子妃が直接、「順序が違う」と紀子妃に抗議したのではなく、紀子妃側は伝聞で雅子妃がそういっていると聞かされただけなのだ。この件には、何となく腑に落ちないところがある。雅子妃は本当に、「順序が違う」といったのか、そしてこの話がどういう筋道を経て紀子妃側に流れてきたのか、そのへんがハッキリしないのである。
 
紀子妃は、天皇への見舞いを取りやめた。「週刊新潮」によれば、このいきさつを知った美智子皇后は、「大いにお嘆きの様子」で、天皇への見舞いを二人の妃ではなく、皇太子と秋篠宮の二人で行うように取り決めて事態の収束をはかったという。
 
「週刊新潮」の特集記事は、徹頭徹尾、紀子妃側に立って書かれている。こうした傾向は、「週刊新潮」だけでなく、その他の雑誌や週刊誌にも共通している。ただし、新聞などが掲載する女性週刊誌の広告を見る限り、女性誌は一方的に雅子妃を攻撃するようなことはなく、雅子妃に同情的な記事も書いているようだ。
 
「週刊新潮」は、予算配分の件でも、秋篠宮家の立場を代弁をしている。皇太子は天皇と共用で、年に3億2400万円のお手元金を得ているのに、秋篠宮の分は6100万円にすぎず、職員数も皇太子には70人近く与えられているけれども、秋篠宮には僅か16人だけだというのだ。
 
こういう秋篠宮家を実質的に取り仕切っているのは、紀子妃だという。彼女は秋篠宮家の出席行事の一つ一つについて資料を集め、宮家運営に関する一切の企画立案に当たっているらしい。
 
また、週刊誌には、こんなことも書いてあった。
 
各宮家は、住宅の補修費などを宮務課に申請して獲得bしている。その際、宮家の間で資金の奪い合いになることが多いが、結局、秋篠宮家に先んじられてしまうというのである。それで、宮内庁内では「さすがに紀子妃は、交渉がお上手だ」と囁かれているという。
 
紀子妃の下には女官たちが居着かず、相次いで転勤を希望しているといわれているのも、妃があまりにも敏腕家であるからだろう。秋篠宮家に味方するマスコミが多いのも、紀子妃の手腕によるところが多いかもしれない。
 
雅子妃と紀子妃の仲がしっくり行っていないとしたら、彼女らが閑だからだ。一般の主婦が日常的に行っている家事を、宮内庁から派遣されている国家公務員がすべて処理してくれるとしたら、「妃殿下」たちが暇をもてあまし、互いの行動に目を光らせることになるのもやむを得ないだろう。
 
イギリスの王族は、それぞれ公務についたり、慈善活動に打ち込んだりして、意味のある生活をしている。私は、日本の皇族にトーマス・マンの「大公殿下」を読むことを勧めたいのだ。
 
この小説の主人公は、ヨーロッパのある小国の皇太子で、アメリカの実業家の娘と恋仲になる。皇太子を婿にすることになった実業家は、アメリカ人らしい率直さで、皇太子に尋ねるのである。あなたは、大きな工事が完成すると、そこに出かけていってテープを切ったり、国家的集会の席上で開会の挨拶をしたりして毎日を過ごしている。そんな日々を送っていることを空しいとは思わないか、と。
 
すると、皇太子は答えるのである。国民は、私が現地に出かけていって、テープを切ったり、挨拶したりすると喜ぶのです。国民を喜ばすことが、王室に生まれた人間の義務ではないですか。
 
実業家は、いうのだ。あなたは、自分をだましている。そんな形骸でしかない行為を繰り返して、国民と自分をだまし続けないで、もっと実質的な生き方をなさい、と。
 
皇太子は、国家財政の仕組みや法律などについて真剣に勉強を始める。そして、真に国民のために生きるようになって、はじめて充実感をもって生きることが出来るようになるのだ・・・・・。
 
「大公殿下」は、現代のお伽噺かもしれない。が、王族・皇族にとって学ぶところの多い作品と思われる。

 

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二人の政治家

二人の政治家

中曽根康弘ほど口の達者な人間を見たことがない。
 
戦後、テレビが普及するまで、国民はラジオを通して政治家たちの主張を聞くしかなかった。それでラジオの政治番組は人々の関心を集め、与野党の議員が対峙して論争する番組などの人気は異常なほど高かった。そうした政治番組で、一番目立っていた政治家は何と言っても中曽根康弘だった。党を代表して政策討論会に出席するような議員たちは、いづれも弁舌に長じたものばかりだったが、そんな中で中曽根康弘の存在は、ひときわ目立っていたのである。
 
弁舌で周囲を圧倒するような政治家は、とかく自信過剰になる傾きがある。中曽根康弘は自民党内の派閥では河野派に属していたけれども、親分に忠節を尽くして派閥内の序列を高めようなどとは考えないで、ひとり輝くことを求め、「首相公選制」の運動を展開していた。当時、首相になるためには派閥のボスになり、派閥間の合従連合を通して頂点を目指すしか方法はなかった。だが、中曽根はそうした迂路を経ないで、首相公選制によって一気にトップに立つことを目指していたのだ。
 
現在、橋下徹が首相公選論を掲げているのも、昔の中曽根康弘と同様に、全国投票で首相が選ばれるようになれば、必ず自分が当選すると信じているからだろう。
 
とにかく中曽根康弘は、自信家だったのである。彼は第2次岸改造内閣に、科学技術庁長官として初入閣しているが、このときの内輪話を、当時、大映社長だった永田雅一がテレビで語っていた。
 
中曽根は岸内閣が発足したときに、盟友だった読売新聞社のナベツネなどを介して入閣運動を続けていた。しかし、形勢が好転しないことにいら立ち、妻を組閣本部に送り込んだのである。
 
このとき、大映の儲けを岸信介に注ぎ込んでスポンサーになっていた永田雅一は、組閣本部に顔を出して次々に閣僚が決まって行くのを岸の横で見守っていた。その岸や永田のところに中曽根の妻が本部に乗り込んできたという知らせが入ったのだ。
 
永田雅一は、このときの様子をこんな風な口調で語ったのである。
 
「中曽根のかあちゃんは、凄いよな。主人の入閣が決まるまでは、絶対に帰りませんと言って、頑として組閣本部から動かなかったんだ」
 
入閣するために、妻を組閣本部に送り込むようなことをする政治家はいなかったから、岸も永田も驚いたのだ。
中曽根は、自分一個の目的を達するためには、妻や配下を容赦なく酷使するタイプの政治家だった。彼は河野派が分裂すると、右派議員をまとめて中曽根派を結成するけれども、その派閥は常に少人数に留まって、田中派や福田派のように大きくならなかった。彼が派閥の議員のために、汗を流すことがなかったからだ。
 
中曽根派のような小派閥を率いて、首相になろうとしたら、汚い手も使わなければならない。中曽根は、政局の節目節目に提携する相手を変え、何時でも強い方についたから、「風見鶏」という芳しくないあだ名をつけられた。
 
彼の身の処し方は、昔から巧妙だったのである。中曽根は、戦争中に海軍を志願して国のために戦ったと自称しているけれども、実際は海軍経理学校に入学して経理将校になり、戦争中は内地・台湾から離れず、戦場で米軍と戦ったことなど一度もなかったのだ。
 
首相になってからの彼は、強いものにつくという習性から、外交政策では対米関係を重視し、レーガン大統領を自らの山荘に招くなどして個人的な親交を深めている。
 
彼は日本における最初の新自由主義者だった。官営企業を民営化するに当たって、「有識者」を集めて政策審議会を作り、その答申を実行するという形を取って、矢玉が内閣に集中することを避けたが、これもなかなかうまいやり方だった。
 
中曽根康弘が、自分一人を輝かせるために、身内を利用したのに比べると、小沢一郎は配下の面倒をよくみている。
 
中曽根と小沢は、何から何まで違っているように見える。中曽根は、歴代首相のうち二番目に長身で、風貌も見栄えのする方だったが、小沢は背丈でも風貌の点でも衆にぬきんでるという訳にはいかなかった。二人の決定的な違いは、中曽根が弁舌に長じていたのに対して、小沢は政治家にしては珍しく訥弁なことだった。
 
訥弁で見栄えも悪いことを自覚している小沢は、見た目の格好よさではなく、泥臭く見えても実利を追求する生き方を選んでいる。実利追求の第一歩は、これはと思うボスのために、犬馬の労を尽くすことだった。彼は田中角栄のために奉仕し、田中が死去してからは、その一の子分だった金丸信に仕え、若くして権力を握る地位についた。
 
彼が次に努力したのは、自派の議員を増やすことだった。最後に勝敗を決めるのは数の力であることを身にしみて感じていた小沢は、少数の有能な部下よりも、多数の無能な配下を集めることに努力し、新人発掘のために精力的に動いている。そして多数の手兵を集めた小沢は、彼らを手駒に使って党内を引っかき回し、新政権を誕生させたり、と思うとそれを潰しにかかったりしてきた。そのため、小沢は存在そのものが政界にとって害悪だと評されるようになった。
 
小沢一郎のやりかたを見ていると、自分でも何のために抵抗しているか分からないままに行動する復讐型の政治家に見える。
 
小沢が復讐型の政治家だとしたら、中曽根康弘は家族や同志を利用して高みを目指す上昇型の政治家である。彼らは、戦後の政界が生み出した二人の鬼っ子であり、彼らの内面に何があるのか知りたいと思う。人間研究の対象として、彼らに興味を感じるのである。
 

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老人の俳句

老人の俳句

俳句を作り始めた頃に心惹かれたのは、「青春俳句」と呼ばれている作品だった。
 
有名俳人の句集を読むと、句集のはじめの方に若い頃に作った作品=「青春俳句」が載っている。たとえば、山口誓子の句集には、こんな句が載っている。
 
  「学問のさびしさに耐え炭をつぐ」
 
これを読むと、冬の夜、下宿で火鉢の炭をつぎ足しながら、ドイツ語の原書などを勉強している孤独な学生の姿が浮かんでくるのだ。
 
また、別の俳人には、こんな句もある。
 
  「桑の葉の照りに耐え行く帰省かな」
 
これは、夏休みになって都会で勉強していた学生が、田舎の実家に帰省するときの作品である。ひっそりした道の両側に桑畑が続いている。そこにぎらぎらする夏の陽光が降り注ぎ、帰省する学生は、その照り返しのまぶしさに耐えながら家路を辿らなければならない、という句である。
 
有名俳人が若い頃に作ったこれらの青春俳句には、単純な叙景の句にも、みずみずしい味わいがあって、それ以後に作った俳句とは明らかに違っている。こういう句が生まれるのは、若い作者が未定の将来を前にして、希望と不安を感じながら生きているからだ。若い頃は、この心情あるが故に、すべてのものが濡れたように新鮮にみずみずしく見えるのである。
 
作者が中年になると、作品から若い頃のみずみずしさが失われる。その代わり、作品に重みや深みが加わっ来る。だが、作者が老年になると、出がらしといった感じの句が増えて来る。時々、新聞や雑誌に有名俳人の近作が掲載されることがあるけれども、そのほとんどがパッとしないのは、このためなのだ。
 
だが、新聞・雑誌にも、年配の作者の手になる秀逸な句が載っていることがある。
 
信濃毎日新聞第一面には「けさの一句」という囲み欄があり、一昨日、そこに次の句が載っていた。
 
  「句に賭けし青春遠し桐の花(河野閑子)」
 
選者の村上護によると、この句の作者河野閑子は、日野草城に師事して新興俳句運動に加わっていたという。すると、未だ生きていれば、年齢は多分90歳を超えていると思われる。その作者が、桐の花を眺めて俳句に賭けた自身の青春を想起し、桐の花のように無垢で純一な青春だったと、静かに自負しているのだ。
 
これが老齢の句であり、「老人俳句」なのである。
 
青春俳句には、未定の将来に対する期待と不安があり、老人俳句には自身の生涯に対する回顧と諦観がある。以前に同じ信濃毎日新聞にこんな句も載っていた。
 
  「亀鳴くや夢に終わりし数学者」
 
数学という学科には魔力のようなものがあるらしく、教師として見ていると、数学の好きな生徒は、文学を好む生徒が作家志望になるように、大抵、将来数学者になりたいと夢見ている。だが、大多数の生徒にとって、その夢は果たされることなく終わるのだが、この句には、そうして年老いた作者による諦観がこめられている。
 
老人の句には、過去を回顧した俳句の他に、動物や昆虫を題材にした俳句が多いように思う。そのことに気づいたのは、当地で直接に、あるいは間接に知り合った俳人たちの作品を読んだからだった。
 
旧制中学時代の恩師でもある中村六花先生には、次の句がある。
 
  「ちちろ皆 巣から顔出す 黄な日ざし」
  「月明や白蛾白蛾を追いのぼる」
 
「ちちろ」とは、コオロギのことで、夕方、巣穴からコオロギが一斉に顔を出したところを詠じた作品である。
交通事故で亡くなった宮下光雄さんには、ユーモラスな句が多い。
 
  「寒鴉 足ぶらさげて飛ぶ他なし」
  「もう恋すまじと 老猫ふぐり嘗む」
 
人事や風景について、すべてを見尽くした俳人たちは、回顧と諦観の句を詠んだあとで、身辺の小動物に目を向けるようになるのだ。こう見てくると、俳人にとって行き止まりということはあり得ず、壁にぶつかったと思う先に、また、新たな世界が開けるのである。
     (引用した俳句は、記憶に基づいています。誤りがあるかもしれず、あらかじめお詫びしておきます)
 

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脳科学者の至福体験

脳科学者の至福体験

テレビで、「奇跡体験を語る」という番組を見た。
 
ジル・ボルティ・テイラーというアメリカの女性脳科学者が、38歳の時、突然左脳の血管破裂による脳卒中の発作に襲われ、そのため、彼女は歩けない上に、しゃべれないという赤ん坊同様の無能力な状態に陥ってしまったが、その反面、たとえようがないほどの幸福感にも包まれたというのである。
 
38年の間に感じ続けていたストレスが一挙に消え失せ、彼女は宇宙の全分子・全エネルギーと一体化したような感覚に包まれたのだ。
 
脳卒中の症状から脱するまでには数年かかったけれども、回復後の彼女は、自身の体験を脳科学者としての視点から解明して一冊の本を書いている。この著書は全米で50万部を売り上げるベストセラーになった。有名人になった彼女は、各地で講演するようになり、私がTVで見た番組も、スタッフが講演会場にTVカメラを持ち込んで、彼女の講演をそのまま採録したものだった。
 
彼女によれば、右脳の役割は世界が伝えてくるあらゆる刺激をイメージの形で受け入れ、全宇宙の「今」の姿を把握することにあるという。個人は世界を構成する分子の一つに過ぎないから、右脳の次元では「私」の存在は意識されない。右脳の中にあるのは、「全体」の相であり、その全体が示す「今」の相なのである。
 
左脳は、右脳が受け入れた「全体」のなかからその一部分を切り取って、「私」の意識、自我意識を構成する。そして、「今」を分解して私の「過去」と「未来」を作りあげる。左脳は、自分の必要とするものを右脳から取り込むだけで、それ以外のものを切り捨ててしまう。
 
だから、脳卒中のために左脳が働かなくなれば、右脳のとらえている「全体宇宙の今」の姿だけが意識されることになる。すると、この静寂で壮大な「全体宇宙の今」のイメージが、人を至福の境地に導くのである。
 
ジル・ボルティ・テイラーは、人々が右脳の世界を見るように努力すれば、個人として幸福になるだけでなく、世界平和実現のために貢献することになると語って講演を終えている。講演が終わると、聴衆は総立ちになって、拍手していた。
 
ホームページで紹介した私の「宗教的体験」なるものも、ジル・ボルティ・テイラーの体験と同じものではないかと思われる。この女性脳科学者の場合は、脳卒中の発作で左脳が活動が停止したために右脳の提示する世界像をナマな形で見ることになったのだが、私の場合は、左脳に溜まっていたエネルギーが、右脳の側に跳躍して「全体宇宙の今」を照らし出したために至福感が得られたのだった。
 
私はジル・ボルティ・テイラーが左脳の働きとしたものを「表自己」と命名し、彼女が右脳の働きとしたものを「裏自己」と命名している。人間の内面は表と裏の二層構造をしていると考えたのだが、彼女は人間の意識活動を左脳と右脳の二つに振り分けて説明している。不遜な言い方を許してもらえるなら、私の「仮説」は、彼女の研究によって生理的な裏付けを与えられたことになるのだ。
 
長く生きていると、個人的な面でも刺激になるような情報が次々に入ってきて、興が尽きないのである。
 

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