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洩矢神社

洩矢神社 (もりやじんじゃ)


住所:長野県岡谷市川岸東1-12-20 (N36°02’52”、E138°02’22”)

旧村社

神紋:丸に柏の葉

祭神:洩矢神(もりやしん)

例祭日:10月20日に近い日曜日

最寄の交通手段:JR中央本線「岡谷駅」下車




洩矢神社は長野県岡谷市に鎮座する、諏訪の土着神である「洩矢神」を祀る神社。

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鎮座するのは岡谷市のJR中央本線が分岐する場所の南側すぐの場所、川岸東地区にある。

天竜川を望むようにして鎮座し、背後には中央自動車道が通っている。




『土着神の頂点』を祀る

祭神は洩矢神(もりやしん)。諏訪地方で昔から信仰されてきた神で、諏訪信仰の中でも重要な神様である。

延文元年(1356)の「諏訪大明神絵詞」によれば、元は洩矢神が諏訪地方を治めていて、そこに素盞嗚尊の子孫・建御名方命が諏訪に侵入して、この天竜川を挟んで対峙。洩矢神は鉄の輪、建御名方命は藤の枝で戦うも、洩矢神の持つ鉄の輪が建御名方命の藤の枝によって朽ちてしまったため敗北した。

洩矢神は建御名方命に服属して、建御名方命も洩矢神を排除するようなことはせず、諏訪の神は建御名方命に、洩矢神はその筆頭神官である神長官となった。

洩矢神の娘の多満留姫は建御名方命の第二子・出早雄命に嫁ぎ、息子の守屋神は茅野市宮川高部に住み神長官を代々世襲し、それぞれの子孫が大祝・諏訪家、神長官・守矢家として諏訪地方を共同で治めてきた。


この洩矢神と建御名方命の戦場となったのが現在の岡谷市川岸地区で、洩矢神社は洩矢神の本陣跡だと言われ、一方、建御名方命が陣を構えたのは天竜川を挟んで向かい、現在の県道14号線(岡谷街道)沿い、中央印刷の建物の横に鎮座している藤島神社がその跡と言われている。(荒神塚古墳)


洩矢神社は、氏子が洩矢神の御神徳をたたえるために藤洲羽の森の天竜川を挟んだ対岸の地に社を建て洩矢神を祀ったのが始まりである。

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江戸時代中期、洩矢神社の藤と藤島神社の藤とが天竜川の上でからみ合う程繁茂していた寛文年間(1661-1673)、諏訪の高島藩主が蛍見物のとき邪魔になると云うことで切り払うことを命じたが神罰を恐れて誰一人伐る者がない中、新屋敷の嘉右衛門という力自慢の男が「自分に山役二人の役料をくださるなら伐ります」と申し出たので伐らせたところ、間もなく気がおかしくなってしまった。

藩主には祟があったので新たに祠を城内で造って奉納することにしたところ、大きすぎて大手門を出ることができないため、やむなく少し縮めて奉納されたのが現在の洩矢神社の本殿である。

現在地に遷座したその後は藩主の崇敬が篤く、上田高1石9斗4升1合3勺の神事免が奉られ例祭を藩主が行なったが、明治4年(1871)の廃藩と共に神事免を上地し例祭は氏子で行なうようになった。

翌・明治5年(1872)11月に村社に列格される。


洩矢神社の御神徳は、特に産婦などが底抜けの柄杓を献納し祈願すれば安産間違いなしといわれている。




境内には諏訪大社と同じく四隅に御柱が立っている。

洩矢神社も諏訪大社と同じく式年御柱祭が行われ、本宮の7日後の下社と同じ日に行われる。

また、幟旗は諏訪大社と同じ太さのものを許されていることから、諏訪大社とのつながりが深い重要な神社でもある。

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「左上から右下に向かって一之御柱、二之御柱、三之御柱、四之御柱」


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「神紋の丸に柏の葉」

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「洩矢神社の扁額」


社殿の左右には摂社か末社と思われる祠が向かって左に2社、右に1社祀られていたものの、手元の資料には祭神に関しては載ってなかった。しかし、例に漏れず四隅には小さな御柱が立っている。

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諏訪地方の神社には結構四隅に御柱を立ててる神社が多いように感じた。特に諏訪大社の摂社や末社などの小さな祠でも立っていたり…。


あと、境内は鬱蒼としてる木々の中を縫うようにしてマレットゴルフのコースが敷設されていました。

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個人的感想としては微妙…。他所でやればいいのにと思う。


それから…

洩矢神社に来た理由が『東方風神録』の関係が主だったりします。

社殿横にはこんな絵馬も。

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記紀と東方シリーズの関係としては、「建御名方命=八坂神奈子」「洩矢神=洩矢諏訪子」だったりするわけで、確か「守矢神社」も出てくるので、東方の聖地の一つとなっています。

「東方風神録」には諏訪地方のあちこちが名前で登場してます。

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人穴浅間神社 その2 - 「人穴」

人穴 (ひとあな)




前回、人穴浅間神社の記事を書いたわけですが、そのつづき。いよいよ人穴へと入ります。そして前回のおさらい。


「人穴」は静岡県富士宮市の人穴浅間神社境内にある溶岩洞穴。鎌倉時代の「吾妻鑑」で将軍の命で探索に入った家来主従が原因不明の怪奇現象で4人死亡して命からがら逃げ帰ってきた洞窟です。

16世紀には長谷川角行が修行を行い、富士山信仰の一つ「富士講」の聖地となりました。

現在神社の境内には富士講の石碑が立ち並んで、さながら墓場のようになっているので心霊スポットにもなっています。

まぁ、ざっとこんな感じでしょうか。

人穴浅間神社に関しては前回の記事に書いてありますのでそちらに…。


とりあえず、そのままの格好ではちょっと不便なので、LEDライト・長靴は必須です。あとはジャンパーなどの防寒着、行場などで使うロウソクとライター、そしてデジカメがあればOKだと思います。



それでは「人穴」へ。

人穴浅間神社の社殿の右側に「人穴」の入り口があります。

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入り口といっても横にぽっかり穴の入り口があるわけではなくて、石段を降りていった先に入り口がある感じ。

この人穴は他の観光地化された鍾乳洞とかそういう感じではなく、まったく観光地化されていない洞窟なので、全く明かりがありません。

なので、LEDライトは必需品。これが無いと穴に入ったら二進も三進もいきません。もう暗闇。


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石段を降りていってまず左側に石仏があります。なんか門番みたいな感じですね。

入口の天井は低いです。すこし屈みながら入ります。


この入り口を入ってから自分の時はスゴイ霧でした。寒いというわけではなく湿度が高くて空気が少し淀んでいる感じ。

一瞬火山性ガスか何かかと思って焦りましたが、どうもそういうわけではなさそうなので前進。

ライトで先を照らすと木製の建物が見えてきます。

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この建物は富士講の行場だと思われます。

友人からロウソクの方が雰囲気いいよってことだったので、ロウソク灯してみました。

ちなみに、この友人は白装束で人穴に籠って行をして一夜明かした人。夜に肝試しで来たカップルがビックリして途中で引き返したそうなw

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カメラのフラッシュより自然で暖かな感じ。これだけで一気に入る前の妙な雰囲気から一変して、なんかこう癒される感じじゃないですか?

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行場の奥には赤文字で書かれた富士講の石碑。

枯れた榊に蝋燭立てやワンカップのお酒、それにキットカットまでお供えされてます。


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行場の後ろは岩の大きな柱があるので左右に迂回します。

行場から奥は床が水でぬかるんでいるので注意。

写真のように左右に木製の歩道が設置されているので、そこを歩くと大丈夫です。念のため長靴の方が安心できます。(写真は行場の右側)


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行場の裏側はこのような感じで広い空間になっています。

床には四角形のコンクリートっぽい基礎みたいなのが2ヶ所ほど。行場が作られていたのかもしれない。

あと…この写真は心霊写真ではなくて霧だと思う。フラッシュの関係でその部分だけモヤモヤっと写っているのだろうけど。

まぁ、自分は見えない人だから心霊写真ではないということで。富士講の人だったら先達様よろしくおねがいしますm(_ _)m。


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さらに奥に進む。ここらへんは丸い断面の穴形状。いかにも溶岩洞穴らしい感じが残っています。

奥に見えるのは恐らく浅間大神の石像を祀る祠。

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近づくとこんな感じ。一部崩れた岩の上に祀られていました。

その崩れた岩の右側から奥に進めます。


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その崩れた岩の先、すぐ右側には2体の石仏。非常に見づらいですけど…。

これフラッシュとか光当てると、目の部分が白く光って見えるんですよね。なんか怖いです。


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ここまで来ると最深部は目の前。

蝋燭立てとか見えます。そしてこの先、一気に天井が低くなります。

中腰よりしゃがまないと奥に進めません。

そして、その先にあるのが「浅間大神」と書かれた石碑。

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ここが最深部です。このあたりも床が水でぬかるんでいました。


「吾妻鑑」では大河が流れているとかなんとかありましたけど、水の溜まったぬかるみ程度なもんです。

怪奇現象もありませんでしたし、主従が怪死したのは個人的には火山性ガスとか一酸化炭素中毒で死んだのかなぁとか予想しているんですが。

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人穴浅間神社

人穴浅間神社 (ひとあなせんげんじんじゃ)



旧村社

神紋:丸に棕櫚

祭神:木花咲夜媛命、徳川家康、藤原角行

例祭日:7月10日

最寄の交通機関:






人穴浅間神社は、富士山西麓の富士宮市人穴に鎮座している浅間神社。

「富士講」の発祥の地で、富士信仰の聖地。境内は「人穴富士講遺跡」という富士宮市指定史跡になっている。

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人穴浅間神社は富士宮市の北、県道75号線沿いの人穴地区にある。

富士宮側から北に向かって県道75号を北上すると右手に鳥居と、木製で山の形をした人穴の説明板があるので、それが目印。

事前に大体の場所を把握していなければ見つけづらいかもしれない。ちなみにカーナビには表示されていたが…。


県道から参道へと入っていくと、参道は左側に折れて、参道の左右には草の生えた広場、その奥に社殿へと向かう緩やかな階段がある。

訪れた時間が冬場の夕方5時頃ということも相まって、あまり神社という感じがしない。なんというか寂しい感じの場所という印象。

とりあえず車は参道の右側に停めて、長靴、防寒用のジャケットを装備。LEDライト、ロウソク、ライター、そして一眼レフをリュックに詰めていざ神社へ。




さて、この石段の上に人穴浅間神社と人穴、富士講の石碑群の人穴富士講遺跡があります。

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とりあえず「人穴」という名前がなんだか気味が悪いように感じた人もいると思いますが、そもそも人穴とは何ぞやと…

人穴とは富士山麓にある溶岩洞穴の一つで、人穴浅間神社の社殿の横にぽっかり開いている洞窟の事をいいますが、この洞窟…怖い話があるのです。

鎌倉時代の歴史書「吾妻鑑」によると、建仁3年(1203)6月に、鎌倉幕府2代将軍・源頼家による「富士の巻狩」の際に家来の新田四郎忠常主従6人に人穴を探検させたことでも有名で、中に入ってから出てくるまでに一昼夜かかって、中には大河が流れていたり、コウモリがいっぱいいたり、その時には怪奇を見た従者4人が死亡し、新田四郎忠常は命からがら戻ってきたらしい。

「浅間大菩薩の御在所」なので近づいてはいけないと、当時の古老は言っていたそうで、その頃から富士山信仰の聖地として崇敬あるいは恐れられていたようです。

洞窟は遠く江ノ島までつながっているという伝説のあるそんな人穴ですが、実際はそんな入って出てくるまで一日かかるくらいの長い洞窟ではないし川も流れてない。調査によれば総延長83.3mでわりと短い洞窟です。

その後、戦国時代末期の16世紀から17世紀にかけて富士講の開祖といわれる長谷川角行が洞窟内で四寸五分の角材の上に爪先立ちをする千日行を行って、富士講の聖地となり、富士講の信者が富士山登拝の前後に訪れる聖地でもありました。



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さて、石段を登って行くとお墓のような石碑群が立ち並んでいて、その先に人穴浅間神社の社殿が鎮座しています。

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「石段の最初に現れる富士講の石碑」

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「人穴浅間神社・社殿」

社殿に向かう参道の右手にまず墓のような石碑、左手奥にはさらに沢山の石碑群が立ち並んでいます。

とりあえず富士講の石碑ということなのですが、見た感じはお墓以外の何物でもない印象を受けます。

長谷川角行の富士講では人穴が浄土であり、角行自身もここで入滅したということなので、富士講の行者たちもここで眠るという思いがあったそうです。


人穴浅間神社自体の創建は慶安元年(1648)及び寛文5年(1665)で、前身の光?寺の富士講二世・日珀、三世・珀心によって再興されたことに始まります。(wikiより)

明治以後は浅間神社(現在も登録名は浅間神社。「人穴」浅間神社は正式ではない)として社殿を建立し御三柱を祭神とし、昭和17年(1942)、陸軍により人穴部落と共に強制移転をさせられたが、昭和29年(1954)に再び氏神として仮社殿を建立し現在に至る。

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境内の富士講の碑塔は全部で233基。主に講祖や先達等の遺徳を称えるものであったり、富士山登拝の大願成就を記念したもので、江戸期のものでは天明~嘉永年間(1781-1854)に建立されたものが35基と一番多い。

ちょうど富士講の最盛期で、主に関東(江戸・安房・上総・下総)の信者によるものである。


ここが、社殿の右側にある人穴の入り口。

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とりあえず縄が張ってあって、立て看板にも「「さわらない」「近寄らない」「入らない」の「3ない」行動にご協力ください」って書いてあるので、肝試しとか心霊スポットめぐりの一環で来てる人はご遠慮ください。

確かに先の震災の影響で崩れやすくなっているのかもしれないので注意が必要かもしれません。

人穴に関しては友人からの詳しい情報を得ていて、前日から浅間神社参りをしていたので、聖地たる人穴には富士講の信者として参拝しました。

つまりは…冒頭での装備はこのため。つまり入って奥まで行ってみたわけですが。

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牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳 (けんごしづかこふん)



被葬者:第35・37代・斉明・皇極天皇と間人皇女の合葬墓(と思われる)

陵形:八角

最寄の交通機関:近鉄吉野線「飛鳥駅」下車、徒歩15分



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牽牛子塚古墳は、奈良県は明日香村の越にある古墳で、個人的には2005年に訪れた。当時は石舞台のレンタサイクル屋さんから自転車を借りて明日香村を大体3日間かけて回ったのだけれど、その時に牽牛子塚、真弓鑵子塚、岩屋山古墳、益田岩船とか周りました。

この古墳は珍しい2つに別れた石槨を持つ古墳で、中に入ることはできないけど鉄柵ごしに中を覗くことができる。

真ん中を石の壁で仕切ったような石室の形をしている。この形から同じ丘陵にある謎の巨石・益田岩船もこの系統の石室を造るために掘られたのではないかと考えている学者もいるらしい。

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ちなみに最近の平成21年、22年の発掘調査で、この牽牛子塚古墳が天武持統天皇陵と同じ八角墳であることが判明して、斉明天皇の真陵だという可能性が強まった。

ちなみに、宮内庁が治定している現在の斉明天皇陵は牽牛子塚古墳から西南西2.5kmのところにある、車木ケンノウ古墳が斉明天皇陵とされているが、こちらは現在の学説では古墳ですらないと考えられているらしい。


第35代・斉明天皇は飛鳥時代の女性天皇で、舒明天皇の皇后。天智天皇や天武天皇の母君。第36代・孝徳天皇の崩御後、践祚して第37代・皇極天皇として即位した。

「2つの石槨を持つ古墳」と最初に書いたけれど、「日本書紀」の記述から斉明天皇の皇女で孝徳天皇の皇后・間人皇女(はしひとのひめみこ)との合葬墓だと現在では考えられている。

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この発掘調査では周辺からもう一つの石槨が出土して、越塚御門古墳という名前が付けられた。

自分が訪れた時はまだ発掘前だったのでその存在を知らなかったけど、これが斉明天皇の孫・大田皇女の墓と考えられ、「日本書紀」には斉明天皇陵のすぐ近くに大田皇女も葬られているという記述があるので、記紀の内容と一致する。

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豊平神社

豊平神社 (とよひらじんじゃ)



旧郷社

神紋:菊に左三つ巴

祭神:上毛野田道命、大山祇神、倉稲魂命

例祭日:7月15日

最寄の交通機関:地下鉄東豊線「豊平公園駅」より8分





豊平神社は札幌市豊平区の国道36号線沿いに鎮座する神社。

祭神として上毛野田道(かみつけののたぢ)を祀る。

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豊平地区は東北地方からの移住者が多く、豊平神社は明治4年(1871)に青森から入植した阿部仁太郎が祠を建てて奉斎したことに起源を持つ。

青森県平川市の猿賀神社(祭神は同じく上毛野田道命)が豊平神社の本社としているので御分霊を祀ったのだろうか。

当時の札幌はまだ開拓間もなく周辺には森林が多かったため、伐採に際して大山祇神を、その後、開墾が進み田畑が広がるに連れていつしか倉稲魂命を祀り、現在の豊平地区の氏神となったらしい。


祭神の上毛野田道命は、第10代・崇神天皇の皇子である豊城入彦命より五代目の子孫で、仁徳天皇55年(375)に、蝦夷が反乱を起したため、その平定に出征するものの伊峙水門(いしのみと、現在の石巻市)で戦死した。

延暦年間に征夷大将軍・坂上田村麻呂が奥羽地方平定に向かわれた時、田道命の神霊のご加護によりてこれを平定することができ、今の青森県平川市猿賀山に神霊を勧請して社殿を建立したのが豊平神社の本社である猿賀神社の由来。

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豊平神社で有名なのが境内で開かれる豊平神社骨董市で、4月から11月の最終日曜日に開催されている。


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参拝時、社殿と社務所の間で恐らく地元の老人会か何かの焼肉パーティーが行われていたので、かなり境内が肉々しかったw

御朱印をいただく時にご神饌のモナカを頂きました。ウマウマ。

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