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2008年8月12日

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姥神大神宮

姥神大神宮 (うばがみだいじんぐう)



蝦夷国(渡島国)一宮、旧県社

神紋:州浜鱗、丸に武田菱

祭神:天照大神(あまてらすおおみかみ)、住吉大神(すみよしおおかみ、底筒男命、中筒男命、表筒男命の3柱)、春日大神(かすがおおかみ、天児屋根命)

例祭日:8月5日

最寄の交通機関:JR江差線「江差駅」




姥神大神宮は北海道南部の日本海側にある江差(えさし)という歴史の古い町に鎮座しています。

北前船の終着点。民謡の江差追分や幕府軍艦の『開陽丸』が座礁沈没した所としても知られています。


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創建は鎌倉時代の建保4年(1216年)、現在の鎮座地より海側の津花町に鎮座していました。

当時、この津花に「折居様」と呼ばれていた老婆が住んでいて、ある夜に、神島(カムイシリ、現在の鴎島)から光が発せられているのを見て不思議に思いながら島に渡った所、老翁に会い、その老翁から瓶子(へいし)を授けられ、「瓶の中の水を海に撒けばニシンが群来する」と教えられた。

老婆はその事を住民に告げて、網を作らせて瓶の中の水を海に撒いた所、海水がたちまち白く米のとぎ汁のようになり、ニシンが押し寄せ大漁になり飢えを救ったという。

その後、老婆は忽然と姿を消しますが、老婆の草庵に残された御神像を「姥が祀っていた神」=「姥神」として祀ったのが始まりと言われています。

その水を入れていた瓶子が岩になったといわれているのが鴎島にある瓶子岩(へいしいわ)です。

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「瓶子岩」



また神社の右側にある折居社はこの折居姥を祀ったものです。

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「折居社」

正保元年(1644年)に神職の藤原永武(初代)が現在地に遷座しました。


また、松前藩主であった松前家からも篤く崇敬され、松前藩8代藩主・松前道廣からは寛政11年(1799年)「降福孔夷」(福を降すこと孔夷なり)と書いた額を奉納しました。

しかし、当時蝦夷地にロシア船がよく出没しており、文化4年(1807年)に幕府の役人から「孔夷」という文字を「紅夷」(顔が赤い夷=ロシア人)、すなわちロシアと松前藩が接近しているとと受け取られ、一時期陸奥国梁川藩(福島県伊達市柳川町)に転封されるという事件が起きます。

これは草書で書いたため「孔」が「紅」に見えてしまったということが分かり、文政4年(1821年)に再び旧領に復帰。

問題の「降福孔夷」の額は、「隆民殿」という額に替えられました。(現在は江差町指定文化財)

また、鳥居の前には箱館府総督の清水谷公考(しみずだにきんなる)が詠んだ、「この浦のたみを そだてし姥神に 猶ゆくすへを 祝ぎまつる」という歌が掲示されています。


社格は、文化14年(1817年)に朝廷から正一位の神階を贈られ、明治4年12月に郷社、明治17年4月に県社に列格されました。




毎年8月9日から11日には『姥神大神宮渡御祭』が執り行われます。

9日に宵宮、10日と11日に本祭が行われ、13台の山車(ヤマ)による巡行と、夜には3基の神輿が神社へ一気に駆け込み、1度では入らず、まず7回、5回、3回と松明に迎え送られながら往復し神社へ入御します。

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「渡御祭の山車(3分の1の大きさ)」

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「境内には山車の模型が展示されている」




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御朱印は時期ごとに3回いただいています。それぞれ微妙に違う。

御朱印は珍しく瓶子の形をしたものです。

ただ、よく見るとそれぞれの御朱印の形と中の文字が微妙に「一之宮」と「勅宣正一位」で違います。というか記事を作ってて気付きました…。

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琴似神社

琴似神社 (ことにじんじゃ)



旧郷社、屯田一宮

神紋:五七桐

祭神:天照大御神(あまてらすおおみかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)、武早智雄神(たけはやちおのかみ、伊達成実)、土津霊神(はにつれいしん、保科正之)

例祭日:9月4日

最寄の交通機関:市営地下鉄東西線「琴似駅」




                           

琴似神社は札幌市中心部から北西に4.5kmほど行った、札幌市西区琴似に鎮座しています。

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琴似神社は、明治8年(1875年)に、北海道開拓使最初の屯田兵として琴似に入植した240戸の人々が旧亘理藩(宮城県亘理町)藩祖・伊達成実公を「武早智雄神」と尊称して、御神徳を北海道開拓の上に顕彰するため「武早神社」という社号で、現在の山の手2条1丁目に創建したのが始まりです。

(宮城県亘理町にも武早智雄神(伊達成実公)を祀った亘理神社が鎮座しているが、創建は明治12年で琴似神社のほうが早い)

明治30年(1897年)に鎮座地を山の手5条1丁目(水上通り入口西角)に移し、「琴似神社」と改称。移築した祠を本殿として、幣殿、拝殿を造築しました。

明治44年(1911年)に大国主大神を増祀し、大正4年(1915年)、現在地に遷座し、村社に列格。その後、昭和19年(1944年)に郷社に列格されました。

昭和42年(1967年)には、紀元二千六百年を記念して境内の大改修と施設の整備が行われ、伊勢神宮より内宮・外宮の祭神である天照大御神と豊受大神を増祀。

更に平成6年(1994年)、琴似屯田兵と縁があった旧会津藩の藩祖・保科正之公を尊称し「土津霊神」として増祀、現在に至ります。




入植した屯田兵は主に戊辰戦争で幕府側として戦い、新政府から賊軍とされ差別された奥州列藩同盟の亘理藩・会津藩出身の武士達でした。

戊辰戦争で破れ虐げられた挙句、見知らぬ北の未開の地の開拓に島流しのように送られた先人は、藩祖を祀ることで心の拠り所としたのではないでしょうか。


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社殿に隣接して、「屯田兵村兵屋」という木造の小さな建物があります。

これは、明治7年(1874年)に北海道の警備と開拓のために「屯田兵」という制度が作られ、全道37ヶ兵村が設置されました。

明治7年11月21日、琴似に240戸の兵屋が造られ、翌年の5月には最初の屯田兵がこの琴似に入植して、明治37年(1904年)9月の制度廃止まで北海道の開拓と警備に当りました。

現在展示されているのは、その当時の兵屋番号140番・佐藤喜一郎に給与された兵屋で、昭和38年(1963年)12月に現在地の東北400mのところにあった兵屋を移築したものです。

昭和39年(1964年)には北海道有形文化財に指定され、当時の屯田兵の暮らしを伝える貴重な遺構で、内部には当時使われていた数々の遺品が展示されています。

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ちなみに、「琴似」という地名はアイヌ語で、コッ・ネ・イ(窪地・になっている・もの)という意味で、入植以前は現在の札幌中心部をこのように呼んでいたらしいです。

「琴似」はそのアイヌ語の読みから開拓使によって付けられた地名です。


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高倉伽月
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