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8度挑んで8度敗れた日本シリーズ。ひとは西本幸雄を悲運の名将という。
しかし、西本は自分が悲運であるとはつよほども思っていない。
「ま、一度くらいは勝っておかんといかんかったのかな、とは思うけど、
自分の能力とは経験とかを考えれば、これだけ長くこの世界でやって来られて、
出来過ぎだという気がしている」。
兵庫県宝塚市の閑静な住宅街に住む西本は、なんのてらいもなくそう語る。
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1955年暮れ、西本は大毎オリオンズ監督に就任する。弱冠39歳。
当時の球団代表・和田準一から「おまえしかおらん。頼む」とまでいわれて
渋々引き受けた。しかし、華やかなことが大好きで、「監督には大スターを」
と望んでいたオーナーの永田雅一にとって、コーチからの昇格人事は
三流以下にしか見えなかった。
それでも「情熱、きまじめ、一途」の西本はチーム作りに全力を傾ける。
コーチだった野口二郎は「当時の監督は三原さんといい、鶴岡(一人)といい
親分肌のひとが多かったが、西本さんは一軍監督の経験がない分、選手と一緒
になって苦労するタイプ。兄貴分のようなところがあった。ただ職人肌と言うか
頑固と言うか、こうだと思ったら絶対に曲げなかった」と回想する。
大毎の合併球団の例に漏れず不協和音はあった。監督采配に対する選手の不満が
永田の耳に入っていることは西本も知っていた。だが、シーズン中、そんなことで
選手起用に差をつけることは全くなく、大人扱いしたことでハイレベルの混成部隊
は個人個人が力を発揮した。「選手と一緒になって勝つことに一所懸命やった。
チームの成績も良く、私に対するオーナーの不信など考えてもみなかった」。
西本は勝つことだけに没頭していた。
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■日本シリーズで
リーグ制覇で隠れていた不協和音が、日本シリーズで表面化する。戦前、絶対有利と
予想されながら、すべて点差で大洋ホエールズに4連敗。とくに分岐点となった
第2戦の満塁スクイズ失敗が永田の目には消極策と映った。
怒りにまかせた永田の「バカヤロー」発言が引き金となって、西本はわずか
1シーズンで監督の座を降りることになる。
■西本の生い立ち環境
西本は一流銀行員を父に、和歌山市の裕福は家庭で生まれ育った。家は広大な
農地を所有し、多くの小作人を抱える地主だった。和歌山中から立教大へと、
恵まれた環境に育ってきた西本にとって、「バカヤロー」は、初めて味わう
屈辱だった。
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