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■阪急就任4年目、5位に終わり、前代未聞の信任投票
「ファームで若い選手の面倒を見させてくれるのなら」。西本が阪急ブレーブルの
コーチとしてユニフォームを着ることになったのは1961年暮れ。
大毎を追われてちょうど1年後のことだった。
「金輪際、監督はやらない」と心に決めていた西本に翌年、監督就任の話が持ち上がった。
チームの低迷でシーズン終盤には戸倉勝城監督の辞任が決定的となっていた。
岡野祐代表から話を受けた西本は一カ月近くも断り続けたが「嫌ならお前が探してこい」
とまで言われ、またも渋々引き受けることになる。
進退は自分で決めてきた西本もこの時は悩みに悩んだ。コーチ就任と同時に西鉄から
移籍してきた星野組以来の理解者、関口清治に揺れる心の内を垣間見せている。
1選手だった関口を無理やり自宅に泊らせた西本は、真夜中をかなり過ぎたころ
ぽつりと言った。
「セキさん。まだ起きとるか。こんど監督をやってくれと言われたんやが、どう思う」。
関口は、西本の迷っている姿をみたのは、後にも先にもこの時だけだという。
ぜひ引き受けるべきだ、という関口に、西本は「そうかあ」といったきり、あとは
何も言わなかった。それから間もなく監督に就任。
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西本は先頭に立って精力的にチームの立て直しを図る。エースだった梶本隆夫は「雰囲気が
それまでとはガラッと変わった。いつ呼びだしがかかるかわからないので正月でも気を
抜かずに体作りをしていた」と語る。
猛練習を課した阪急時代の西本についてこんな話がある。
遠征先では試合前に球場で1時間半ほどの練習をこなすのが普通だが、西本はマネージャーに
グラウンドを探させ、朝10時半には練習開始。試合後も夜間練習といった具合だった。
「朝起きてから晩寝るまでずっとユニフォームを着ている生活。でもオッサンがいつも
ついてくるので、選手も嫌とはいわなかった」。関口の述懐である。
監督になって4年目の秋、選手の間で磁気監督人事の話が出ているといううわさが聞こえてきた。
5位に終わったものの、ようやくチームに手応えを感じ始めていた西本には、これがカチン
ときた。選手に監督の新任投票をさせるという前代未聞のことをやった。
結果は、○37、×4、白紙3。開票を見た途端「辞める」と一言。球場から姿を消してしまった。
結局、小林米三オーナーの「何日かかっても説得せよ」の強い意志で、西本は再び指揮を執り、
翌年の初優勝をきっかけに、阪急をパ・リーグ最強のチームに作り上げていく。
■証言
60年の日本シリーズ第二戦、8回1死満塁でスクイズのサインに大毎・谷本稔は「シーズン中
こんな場面では打て打てだったから、監督がサインを間違ったんじゃないかと半信半疑で
バントした」。セ・リーグ審判部長を務めた富沢宏哉も右翼線審としてこのプレーを
見ていたが「満塁スクイズでは3塁走者のスタートがカギだが、このときは非常に悪かったことを
覚えている。突然のサインに疑問をもちながら走ったのでは」。
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