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大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづる kemukemu
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書庫「戦争とストレス」語録

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故・臨床心理療法家・霜山徳爾の言葉から



●「そもそも人間にいとなむ社会では、「縁」ということばの意味深さを、つくづくと感じさせ、数奇な体験を味わわせるさまざまな出会いに満ちている。それらを直截に把握するためには、これらの多様な事象の意味する一般的、基本的な真実を知らねばならない。しかし、知るといっても、それはいわゆる分別知、すなわち、見る自分をこちらにすえ、見られるものをあちらに置いてながめるような「冷静な」客観的観察によって知ることではない。・・・・大切なのはそのような分別知の立場をすてて、一つの宿縁によって邂逅した人間に、私の存在を結びつける直截的な人間的なかかわりの中に、いわば一隻(いっせき)の瞳をこらして、交感的にその意味を見出そうとすることではないだろうか。」

●「出会いということの本質は、私と一致しようとする「汝」、すなわち、いわば限界を知りながらもあたたかく、私の内面性の閾をこえ、自らの内面性をいかに貧しく、あるいは無惨でも、私に開き示そうとする「汝」を発見することの内に存する。」

●「神経症者や精神病者に対して、彼等を理解しようとするならば、われわれが彼等に対して無関係な主体としての態度をとる限り、あるいは彼等を単なる客体ないし対象として考える限り、われわれは彼等について何ものも了解することができないということである。・・・・人間がもし単に並存的にのみ在るものならば、ひとりの人間が他の人間を真に揺り動かし、他によって理解され、認識されるという意味で互いに感動し触れ合うことはできないであろう。・・・・・むしろ、人間がかたみに真実のふれ合いをし得る事は、人間の根源的な、「他に向かってひらかれている」という性質を、人間の「汝」性を、前提としているのである。」

●「人間を理解しようとするには、・・・・・相手を客観化し、対象化することによっては可能ではなく、いわば存在の伴侶性、共人間性とでもいうべきものを通しての直截の接近が求められるのである。われわれにとって、人間として生きる哀しみの照翳、ひそやかな落下、そのみじめな栄光、をひとと共にしないでは、いかなる 他者の理解もあり得ないであろう。 ・・・・・一基の墓の下に、どのような辛酸があったかをはかるようなものである。それは目に見えず耳にきかれないものを、やさしいみとりをするようにそっと握えるという意味で、ほとんど芸術的な直観に似ている。」

●「最初は、なにか寄りつきがたい冷たさ、距離を感じさせていた、疎通性のない「他人」が、次第にこちらに心を開いて、自己の生活の哀歓を語り、よごれた巷で日毎ひろい上げる苦悩を打ちあける時、われわれは「告げられた苦しみは分けられた苦しみ」であることを痛感する。」

●「不安には、この狭窄、圧迫、重圧に対して、これに拮抗し、あるいはこれに促進される「心拍性」、つまり内からこみあげてくるあらがい難いうながし、という現象性がある・・・精神病理学においても、不安症状を有する患者が怒りやすくなり得ることはよく知られており、また不安の圧迫から脱れるためのいわば衝動的な自殺や、内心の不安を防衛するための衝動的な攻撃行動が指摘されている。体感としての不安の次の特性は、よりどころのない「浮動性」ということである。不安には何か「碇泊点がないこと」「基盤のないこと」、立場の喪失の感じが伴っているものである。・・・・・しかし、浮動性それ自身が恐るべきではなく、それは落下や転落への不安なのである。・・・・・ところがそれ(庇護と安定)が失われると、生活空間はあるおびやかすものを持ち、狭小化され、人間は生活空間への定位を失い、汝の世界との関係を定めることができずに動揺して、立つ瀬がなくなり、立場を失うことになる。・・・・めまいの語源になる言葉は、いずれも、「存在しているものが消失すること」を意味している。またいずれも、不安の場合の「眼の前が暗くなる」、存在的定位の消失、浮動感、脱力感、世界の相貌化の変化の気分及びこれに伴う身体症状を表現している。・・・・この不安の持つ浮動感は正に人間の未来が不明であり、「かくされている」ことから一般に生じる。すなわち、未来は影にかくれて不明なのである。そしてかくれているものは不気味であり、文字どおり我が家にいないことであり、故郷感を持つことができない。・・・・・・不安神経症や強迫神経症の場合に、不安に対する不安、つまりある症状が起こりはしないかという、いわゆる期待不安が悪循環的に症状を悪化させるのも、未来の不確定性によるからであり、それを確定しようとする努力が裏返しにされたのが予期不安であるといえる。」

●「精神的な苦しみというものが、例えばどんなに甚だしいものであっても、その「心の痛み」を、痛覚という感覚的なものによって表現せざるを得ないということには重くて深い意味が潜んでいるように思われる。何故ならば、感覚としての痛みは、もろもろの精神的な苦悩の長い昏い原点、惨めな根源、だからである。・・・・痛みは、・・・われわれの身体にとって、それが大切な警告であり、防禦的なものであり得ることはよく知られている。それは単なる生理的現象でもなく、幅広く人間的な重い意味を荷っている。それは同時に「人間の痛み」であり、人間に対して問いかけてくるものであり、人間の精神的な応答を待つものである。」

●「われわれを脅かすものに対する防禦運動は自動的に行われるが、もしそれを反射的と呼ぶならば、それは神経系における生理学的な過程を意味しているのではなく、人間が以前の経験の意味に基づいてなす無意識的なはたらきをさすのである。そして、このことから判るように、人間は刺戟に反応するのではなく、刺戟を媒介として、その人間の内的生活史や現在の気分や、その時の状況すべてに依存するいろいろな意味に対して反応しているのである。・・・・身体が物理的なあるいは化学的な刺戟に反応するのではなくて、人間が身体的に刺戟の意味に反応するのである。・・・・視覚や聴覚の印象、また臭覚や味覚がその意味によって働くのみならず、また苦痛もある意味を持っている。すなわち、痛みによって人間は自己を理解しようとする場合もあり、痛みは彼の存在、彼の宿業の理解にも役立つのである。また痛みは障碍をおこした器官のために意味を持ち、自律神経系にとっても有意味であり、ある見方をすればひとつの不幸な適応であり、身体の応答、身体の言葉なのである。・・・・・人間は生きられた身体性であり、世界と共に生きる有機的なものであり、そこでは傷を負わせるような刺戟の「痛ましめるもの」が、「おびやかし」という意味を持ってくるのである。」

●「誰の一生にも、どれほどの不幸な人の一生にも、その人なりの美しい瞬間、いわゆる星の時間がきっと一度や二度はあったにちがいない。そして誰もが、この美しい瞬間によりすがって生き、かつ死んでいったのであろう。・・・・その患者の孤愁が性格的なひずみからこようが、精神病的、あるいは神経症的なものからこようと、そしてそれが他人に不快と禍いをまきちらしたとしても、もともと患者自身がそれに平気でいるわけではない。それどころか、むしろ誰よりも患者自身が悶え苦しんでいるのである。」

●「事象と意味とは基本的に二つのことではなく、事象自体が意味を持っているもので、意味それ自身が根本的な現実なのであり、いわば一つの「存在」といってもよい。・・・・・患者は、いや人間そのものは、そのような、言葉にならないものをカルマとして持っている。・・・・言葉と言葉との間のいわばすきまのようなところがあり、そこを通してしか、でてこないある根源的なものがあり、人間は、その根源的なもの、そして、その苦しみの内の静謐というものの内に、引きもどされて、意味の世界にふれるのではないだろうか。。・・・・彼ら(患者)の気持ちを汲むことは、「平安」を送りとどけることなのである。」

●「人間それぞれは、その歴史的、伝統的文化の背景を抜かしては考えられないのである。」

●「患者が独自の世界であり、山や海や風や星々、それに何よりも草木虫魚の「生きられた空間」のなかにある。何ものにも代えがたいものとして、それに根源的信頼をよせることである。そしてそれを前提として畏敬が生れる。」

●「患者に自由な、くつろいだ時間を贈り、かつ真剣な関心を持っていることを示すことが必要である。そしてただでさえ傷ついている患者の心をさらに傷つけることを決してしないように・・・・・」

●「注意を患者の一つ一つの個々の行動にとらわれず、普遍的にただよわすことによって、直観的にその背後の世界を見てとることである。ただだからといって、患者の内的生活史をないがしろにすることは、絶対あってはならないことである。詳細な生活史の情報を知っていればこそ、直観的な読みが深くなるのである。・・・・患者のありふれた言葉が、意外にも重い歴史から生れたものを持っていることが多い。ことに分裂病の患者がくりかえしつぶやく独語や、神経症の患者から告げられたイニシャル(*象徴的)な夢などは、とくに注目に価するものである。」

●「人間は「問う存在」であるから、患者の言葉には問いが必ず含まれている。それを患者の身になって考えなければならない。」

●「幻覚というものは、一見、知覚性を持っているように見えても、よく訊ねていくと知覚性は希薄になり、次第に病的想像、すなわち妄想と離れては考えられないものになってくる。」

●「患者は何も好きこのんで発症しているわけではない。家族関係、社会的対人関係、知能、遺伝負因、それに何よりもまだ未知の因子などが、たまたま「運悪く」相乗的に裏目に出て発症したのであって、われわれと異次元の病者ではなく、すぐ隣にいる人間である。われわれの方が「たまたま運がよく」わずかの僥倖で発症しなかっただけの話である。」

●「自由はたとえそれが一片の自由であっても、人間をして人間たらしめるものである。自由の重さは人間の重さである。・・・・自立・自律・自由こそ、いかに運命のくびきが重くても抵抗することに意味がある。」




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