大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづる kemukemu

路上でパフォーマンスをしているだけでもすごい!まず、すべて表示、写真は右下の拡大マークをクリック!

「満州」語録

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]

「満州」語録 了

イメージ 1

イメージ 2

*写真:「最新 満洲寫真帖」(昭和13年発行)から
上 「チチハル 満州人街南大街」
下 「五龍背温泉」




●『さらば大連』 北小路 健

私の胸の中にある「大連」も紛う方なく「過去」のなかにある。
追憶のなかにだけ確かな存在感をもつ幻となった。
しかしかつてここを「故郷」として育った者が、
せつないほどの郷愁に駆られるとしても少しも不思議はあるまい。
だが考えてみると「大連」も「旅順」も、
まことに定めなき運命に弄ばれたものである。
もともと中国の地でありながら、他国どうしの戦場と化したり、
いったんは日本の手に接収され、更にロシアの占領下におかれ、
再び日本の植民地となって四十余年
−満人といわれたり州人といわれたりした現地在住の中国人達は、
いまこそ本来の姿に戻り得たのである。
−そのことを、われわれは、
日本の近代史がおかしたかずかずの罪悪への強い反省をこめて、
心から祝福してあげねばならない。
それなくしては、われわれの「郷愁」は
かつての侵略者の恣意的な独りよがりにすぎなくなってしまうであろう。



●『望郷 満州』 北小路 健

満州国は日本によって築かれた国であった。
われわれは一様に、国策に沿って、
一庶民として、応分の営為をなしつつあると信じていたが、
その国策が、そもそも侵略的であったあったとすれば、
「王道楽土」も「五族協和」も日本人本位の身勝手な旗印ではなかったのか。私たちが、日本国家から見放されて、
みずから身一つを守らなければならなくなった敗戦の時点で、
私のなかにはこうした烈しい反省が芽ばえていた。
日本近代史が犯した誤りを、
われわれ一人一人が背負わずには済まない宿命を噛みしめる敗戦生活が、
その後につづいた。
満州国は、日本の敗戦とともに地上から消えた。
そしてわれわれは、植民地「満州」の無残な終焉を、
たしかにこの目で見届けて来た。荒涼たる風物と、
人心の荒廃と−それは忘れることのできぬ惨憺たる体験だ。
それから三十数年―かの地に永く育った者の胸裡に、
否応なく望郷の念をかきたてて迫って来る面影がある。
人は永く住みついた土地と、そこに展開したおのれの歴史を、
そうやすやすと忘れ得るわけはないのだ。
敗戦による苦渋の想いは、いまや歳月が薄め、消去してくれた。
満州はいま「中国東北部」といわれる。
われわれの瞼にありありと浮んで来るあのころの面影は、
新しい時代の建設の中で、ただならぬ変り様にちがいない。
いまそこにあるのは、かっての面影の残影にすぎないのだ。
あれがそのままの姿で、われわれの前に再びあり得ることは決してない。
あれは「満州」の原風景であった。幻なのだ。
だから私は、それが幻であったことをみずからにいい聞かせるために、
わざわざもう一度かの地をおとずれようとは決して想わない。・・・・・
その「幻の地」を「故郷」と呼ぶより呼び様のない切なさが、
いま私のなかにある。





・・・・・・・

閉じる コメント(0) ※投稿されたコメントはブログ開設者の承認後に公開されます。

閉じる トラックバック(0) ※トラックバックはブログ開設者の承認後に公開されます。

「満州」語録 11

イメージ 1

イメージ 2

*写真:「最新 満洲寫真帖」(昭和13年発行)から
上 「ハルピン キタイスカヤ街」
下 「ハルピン 新城大街よりモストワヤ街・地段街方面を望む」




●『新中国・見たり聞いたり考えたり』 大 久光

私は旧制中学の一年生の頃まで外地に住んでいた。
旧大日本帝国の植民地で育ったわけである。
そのためかどうか、植民地という言葉に対して、
他人より幾分敏感に聴き耳を立てるような傾向があるらしい。
それだけでなく、現在はすでに異国となってしまったそれらの土地に対して、常に一種の郷愁のようなものを感じ続けている。・・・・・
私の心をそそるのは、
それらの土地の自然であり、風習であり、
自分自身の幼年、少年期の記憶と固く結びついた
<時間>そのものなのである。・・・・・・
そして、それらの土地が、すでに私と全く無縁な、
失われた場所として在ることが、
私の感慨を一そう色濃いものとして強くよみがえってくるわけであろう。
そしてまた、それが私自身の意識するとせざるとにかかわらず、
自分にとって一つの罪の土地であったという観念も
また逃れ難い重さで迫ってくるのだ。
いま、東北を列車で旅しながら、短命だった「満州国」の、
そのなりたちから崩壊までのいろいろな出来事が、
パノラマのように頭の中で明滅する。
私が夢多き青春期をおくったのは
協和会服が幅をきかしている頃の満州だった。
官にも、民間にもほんとうに真剣に、理想にもえて、
満州の建国に取り組んでいる人もいた。
満州建国の歴史の中の、
血ぬられた部分や謀略の匂いのみちみちた部分には目をそむけたくなるし、
悔悟の念もしきりなものがある。
しかし、まじめに、理想にもえて、
取り組んでいた人たちの善意と努力のあったこともまた事実で、
それを思うことが、わずかに救いである。
そうでなければ、眩しくてとても目をあけて、
赤い夕日なんか眺められるものではなかろう。



●大 久光

大陸は私の青春會遊の地である。
そんなことは、建設にいそしむ新しい中国とは何のかかわりもない、
後ろ向きの世界のことである。
しかし私にとって青春の源流をさかのぼる感傷の旅でもあった。・・・・・
しかしその過去は、必ずといっていいほど、中国側の痛みであった部分に、
突き当るのだ。
それがいま、私の胸に突き刺さってくる。

・・・大連がたまらなく、懐しい。行ってみたいと思う。
行こうと思えば行ける機会が何度もあった。
しかし、その都度、藤堂氏をためらわせているものがあったという。

当時は自分では気が付かなかったが、
いま思うと日本人の生活は、
中国人に対する支配と差別の上に立ったものだった。
そのことの自責が、今になってひしひしと心を締めつけてくる。
それが現地への訪れを、ためらわせるのである。
これは植民地で暮したことのある人たちにとって、
共通の感情であり、宿命のようにさえ思われるのである。





・・・・・・・・

閉じる コメント(2)

閉じる トラックバック(0) ※トラックバックはブログ開設者の承認後に公開されます。

「満州」語録 10

イメージ 1

イメージ 2

*写真:「最新 満洲寫真帖」(昭和13年発行)から
上 「吉林市街全景」
下 「ハルピン駅」




●『戦後生まれの正義感』 遠藤 満雄

・・・満州にいた大部分の日本人がそうであったように私の父母もまた、
中国を侵略する、というような意識や感覚はどこを捜しても見当たらない。
父のほうは曲がりなりにも関東軍の兵士なのだから、
全体の機能としてはまぎれもなく満州支配の武力装置であり、
その装置を構成する歯車の一つであった。
しかし歯車であるが故に、全体を見渡すことなどできようはずもなく、
自分がなぜ満州に連れて来られたのかと疑問を感じ、自らの頭脳で考えたり、調べたりするほどの素養も持ち合わせてはいなかった。
・・・私自身が満州という地で生まれた、ということと同時に、
わが家の歴史もまた満州を原点として始まっていること、
この個人的な環境は私とともにある。
両親が満州に求め、培い、そして裏切られたものは、
私にとってもまた追体験しなければならないものだし、
私より若い世代、子供たちにも語り継ぎ、
追体験させておかなくてはならないはずのものだ。・・・・
満州事変から日中戦争、太平洋戦争に至る十五年戦争の敗戦を
「勝負は時の運」式にとらえ、
その敗戦の本質を見極めようとしない無反省な輩が
いまなお数多く生き残っている。
・・・この戦後生まれの世代の中に、
Kさんと同質の日本の優越主義、言葉をかえれば蔑視感がないだろうか。
「大東亜共栄圏」の盟主たらんと妄想した驕りは、
戦後世代の中から完全に消え去っただろうか。
満州は戦後長い間、語ることがタブーであった。
中国を慮って「満州」という単語そのものが死語となった。
でもそれが逆に戦後の日本人に「満州」を考えさせる機会を
失わせてきたともいえる。
満州での悲劇は単に犠牲者としての悲劇ではない。
長い間、日本人が加害者であったことによってもたらされた悲劇である。



●『「満州」とはなんであったか』(『満洲昨日今日』所収) 香内 三郎

・・・・私どもの多くにとって、「内地」は全く未知の世界、
いくら父母の話を聞き、学校で「習って」も、
現実感のない世界だったから、
どんなに困苦が大きくとも既知の世界に「残留」しようかな、
と考えなかったわけではない。
が、親の世代は、どんなに渡満年数がながかろうと、
すべての「特権」を失ってからは、
一日でも早く「内地へ帰る」ということで、意識をいっぱいにしていた。・・・・・
ともかく、私たちの「満州」経験はなんとなく締めくくりがつかず、
宙に浮いている。
・・・・風景に過去の足跡が残っているのも、
もうしばらくの間かも知れない。





・・・・・・・

閉じる コメント(0) ※投稿されたコメントはブログ開設者の承認後に公開されます。

閉じる トラックバック(0) ※トラックバックはブログ開設者の承認後に公開されます。

[満州」語録 9

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

*写真:「最新 満洲寫真帖」(昭和13年発行)から
上 「新京 南広場」
中 「新京 西公園と大同大街」
下 「新京 満州人街の雑沓」



●『森繁自伝』 森繁久彌

金でいえば、億という数字−そんな土地やら家やら、
ビルやら物やら財宝やら―
そして、長い年月の血と汗がただ働きにすっとんで、
各人一人千円のユニティな振出しに戻ったのである。
物を持つということが、
こんなにも滑稽なものだったかと知らされたようなものだ。
・・・・満州の曠野を走っている時は、
家を見ても、人を見ても、そらぞらしいほど遠い他人と見えたが、
あの赤い柿の実のなる家を眺めては、
おお同胞よ!と口にも出かかるたのもしさである。
これが祖国というものだと一人うなずいた私だったが、
安直にうなずいた揺りかえしはひどかった。
それから幾年、そして幾度、
私は温かかるべきその祖国の同胞から
非情の打っちゃりを受けねばならなかったか。



●『満州昭和十五年』 桑原甲子雄

・・・私のカメラの対象は、
ほとんど満人街と呼ばれた中国人地区にかぎられていた。
かれらはこの大陸で生れた父祖の地以外住むところをしらぬはずである。
かれらの生活空間にこめられた濃密な時間は歴史そのものであった。
そのことは白系ロシア人たちにもいえる。
国境をこえ北満で住みついているかれらの足の地についた柔和な表情。
ひたすら軍事力で物言わせようという虚構の日本人の多くの表情とは
まるきりちがったものだった。
それは、大陸にいる人間たちに触れながら、
日本をあらためて見返えしたとき、
ある日ハッと感じられる想念であり、
観念やイデオロギーをこえたものとして、
ある確かさをもって私に迫ってくるのだった。・・・・
満州についての教訓は、私にとって名称はどうあれ、
住民、庶民、大衆をぬきにした国とか、国家というものへの
いいようのない不信感であった。・・・・



●『コラージュとしての満州』(『満洲昨日今日』所収) 別役 実

私の満州は、こうした小さな断片のコラージュである。
それらを、順序を整えて並べ直したり、
ひとつの流れとして確かめることなど、恐らく出来ないだろうし、
する気もない。
最近、中国孤児のことが新聞やテレビでしきりに話題にされていて、
私も熱心に見ているのであるが、
彼等が見えない目でものを見ようとするように、
その「思い出」を探ろうとしている姿が、私にはひどく身にしみる。・・・
かりにも一度「満州国」というものが想定され、
そこに何ものかを結実させようとしていただけに、
それが崩壊した時、すべてが無法則的に拡散してしまったのかもしれない。
・・・・いうまでもなく私の言う満洲というのは、
かってそう呼ばれていた場所のことではない。
私たちがそこに居た、生活のことである。




・・・・・・

閉じる コメント(2)

閉じる トラックバック(0)

「満州」語録 8

イメージ 1

イメージ 2

*写真:「最新 満洲寫真帖」(昭和13年発行)から
上 「奉天 満州人街の盛観」
下 「新京駅」




● 『反劇的人間』「終戦後の満州で見たもの」 安部 公房

日本人は、誰かが捕って取り囲まれるでしょう。
それまでまわりにいっぱいいた日本人が、
どこかへスーッといなくなっちゃう。一人もいなくなっちゃう。・・・・・
ぼくだって戦争中からそう思っていました。
日本人というのは世界中でも連帯感の強い国民だと。
たしかに政府はそう主張したがる。
しかし現実には、どうも日本人の連帯感というのは希薄なんだな。・・・・
日本人は個として孤独だから、ある群衆を組んだときに、
異常に群集心理が出る。酔ったようになる。・・・・
しかしその人たちは、
ばらばらになると今度はほんとうにばらばらなんですね。・・・・
この戦後の体験は、いまでも非常に深い強烈な印象ですね。・・・・・
そしてその日本人の泥棒が狙うのも、やはり日本人なのです。・・・・
日本人が日本人を襲っていた。
しかも非常にそれは残酷な襲い方をしました。・・・・
ぼくは日本人の内部構造について、
日本人はとても自分自身に嘘をつくのが上手だという気がしますね。・・・
日本人はよく群がるという、
実は、はじかれるのがこわいのですよ。
なぜかといったら、もともとはじかれた状態で生きているからです。
はじかれることに対する恐怖が疑似集団を作るけど、
たとえば権力が崩壊するといった極端な状態になるとー
はじくことも、はじかれることもない。
コントロールを失った状態になるとー今度はものすごく残酷になる。
ところが、その日本人が中国人や朝鮮人を襲うことはなかった。
なぜかというと、日本人はその時すでに負けた民族だったからです。
・・・・ものすごく残虐なことをやった。・・・・
それを日本人が日本人に対してやる。
だからぼく、終戦後の海外での経験を通じて、
日本人というものについて、それ以来、認識が違ってしまいました。




●八切 止夫

なにしろ私は一九四五年の夏、あまりに死をみすぎている。・・・・
前は憲兵隊と組み、赤軍進駐後はロスケの手先となって脱走兵狩りをし、
同胞をシベリヤ送りにしていた奉天警察総局へ「それっ」と暁の攻撃をかけ、日本人が日本人の警官を雪中に引きずり出し、
興銀の並木を、ずらりと首吊りの木にしてしまった。
さてこの後が大変で、案外に日本人にはレジスタンス精神がなく、
すぐ、長いものに巻かれろといった考えが多いのか、
自分だけ助かろうと密告者が多く、私も逮捕された。・・・・・
「日本人ほど信念がなく権力に弱く、べったりしたがるのはない」と
がっかりさせられた。しみじみといやになってしまった。・・・・
付和雷同的、まことに単純そのものに、
「長いものに巻かれろ」で考えもなしに、進んで協力し、
ご愛嬌に他人を密告するのである。・・・・
おっかない国民である。・・・・





・・・・・・・

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]


.

kemukemu
人気度

ヘルプ

Yahoo Image

  今日 全体
訪問者 4 240395
ブログリンク 0 483
コメント 0 6193
トラックバック 0 405
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
検索 検索

標準グループ

開設日: 2006/4/28(金)


プライバシーポリシー -  利用規約 -  ガイドライン -  順守事項 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2012 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.