身柄拘束中の被疑者取調べと自白の任意性
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みなさん、こんばんは。
Kenビジネススクールの田中です。
Kenビジネススクールも立ち上げてから早7年。多くの通信制大学卒業者を輩出してきております。
卒業生の卒業論文も、本人の承諾を得たものだけを、ホームページにアップしておりますが、私自身のものはアップしておりませんでした(卒業したのが1998年で、当時はパソコン持ってなかった。)
現在、Kenビジネススクールには、中央大学法学部通信教育課程の卒業を控えた生徒が多くおります。卒業論文で苦しんでいる方も多いので、参考までに、(恥ずかしながら)私の書いた卒業論文をホームページにアップロードしました。一応A判定ですので、多少参考になると思います。
(久しぶりに読み返してみると、初学者ならではの若気の至り的な暴走論文であり、恥ずかしさ満点です。。。)
以下は論文の概要を示したものです。
【論旨の概要】
古来、自白は「証拠の女王」であるといわれていた。これは法定証拠主義制度下の時代の描写である。この法定証拠主義はキリスト教の道徳概念と結び付き必然的に自白の偏重を生んだ。そして、そのような刑事裁判制度を基礎とした中世ヨーロッパにおいては、被告発者の自白を獲得するために目を覆い隠したくなるような非人道的で残虐な拷問が糺問官によって日夜行われていた。又、糾問主義的訴訟で知られる1532年のカロリーナ法典では、有罪の宣告をするためには、犯人の自白または二人以上の信憑力ある証人の証言を必要とするなど自白中心の証拠法則が支配していたといわれている。我国においても、古く律令法制が恒常化し、苛酷な拷問を常套化する歴史が続いていた。しかし、中世における身分制社会を打破し、個人尊重及び自由の保障をその基礎とする近代以降の社会においては、このような刑事手続きが許されてはならないことは当然であり、かつ、国家が個人を国家政策実現のための手段や単位として位置付けることは許されず、個人を目的として、個人を個人として尊重しなければならない。即ち、国家が圧政、犯罪の抑止、真相の解明の目的で、拷問等を利用し、個人を犠牲にすることはこの根本理念に反することになる。
この理念から、拷問等によって個人の基本的人権を侵害することは如何なる理由があろうとも許されず、また、虚偽の自白を招く危険性の高いことが明白である拷問等によって獲得した自白を理由に、その自白者に刑罰を科すことは、必然的に無辜の処罰となり得る危険性も高いので、これも当然に許されない。
しかし、今日における都市化社会及び犯罪の凶悪化、組織化の傾向は、我々の生活を脅かし、国家ではなく犯罪者によって、我々の自由が奪われる危険性を生み出した。そのことで、捜査権限の拡大強化が叫ばれるようになってきている。しかし、我々はこのような社会の風潮を単に合理性や必要性のみの判断で安易に結論を出すべきではなく、先人の残した歴史的教訓を念頭に置きながら、現代社会の問題を分析し、自由な社会における正義の実現を図らなければならない。
以上を前提として、以下、憲法38条2項を中心とする自白法則について論及する。
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