明治の表富士登山新道
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少なくとも明治に入って、
徒歩の「むらやまみち(鈴川〜村山神社)」は、
富士馬車鉄道ができ、使われなくなったようだ。
馬車鉄道で大宮浅間神社(富士宮)に行き、そこから村山へ、
村山登山道を使い山頂を目指した。
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東海道線開通は、登山ルートに更なる競争を生む。
その頃、たんなトンネルは技術的につくれなかったので、御殿場線を使っていた。
まず、すそのに新道ができる。
その後、大宮浅間と村山浅間の二重手間を回避する新道ができた。
四里ほどの短縮だ。
それは、村山神社を通らず、
大宮から直接山頂に向かう道だ。
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ところで、
日露戦争の勝利と戦費財政圧迫対応として、
日本は観光による外貨獲得の目玉として、
「富士登山」におおいに着目する。
万国博覧会開催と国立公園の制定運動である。
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一方、岳南では、
戦争需要で急成長し、技術から金融に力を入れるようになった富士製紙が、
吉原港の維持コストも鑑み、
身延線と富士駅開設運動を起こす。
甲州財閥が経営を握った。
これらの交通手段の変遷は、富士登山の表口ルートを何回か変更させた。
吉原宿が登山ルートからはずれたのである。
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「7合目に至れば、草木尽く」
私は5合目までしか登っていません。
2012/2/15(水) 午前 10:46 [ 琵琶 ]
琵琶さん、
地元ですが、2回しか登頂してません。
2012/2/15(水) 午後 8:56