インドネシア留学日記 in 古都ジョグジャ

インドネシア・ジョグジャカルタ特別州に2010年2月より留学しています。(2010.12.29帰国済み)

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【災害情報】ムラピ山噴火7〜現地より〜

2010年に発生したムラピ山噴火災害からもうすぐ1年が経とうとしている。
先月、10か月ぶりに被災地域を訪れた。
 
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以前当ブログでも紹介した「山の番人」M老人が住んでいた村を訪れる。
 
ここは昨年12月にも訪れており、2度目の訪問となった。昨年訪れた際には、まだ被災後3カ月で
既に観光地と化しており、その迅速さにはなんとも複雑な心境になったのを覚えている。
(例えば東日本大震災の被災地が被災3カ月で観光客であふれかえるという状況は
日本では考えにくい)
 
現在は着々と(??)観光開発が進み、入域料金・駐車料・バイクタクシーの金額も明瞭会計となっていた。また、昨年はそのままにされていた被災家屋も、解体されて、以前の村の様子や被災後の状況を伝えるミニ資料館や安宿に変わっており、溶けたヘルメットや焼けたコーランなども「売り物」になって
いた。
 
 
ではもともと住んでいた住民たちはどこにいったのか。
現在、この村は政府より居住が禁止されているため、人々はその村から数キロ離れた仮設住宅に
入居してるとのことであった。
 
925
 
ひょんなことからしりあったAさん(彼女自身も被災し2カ月の避難所生活を送った。現在はもとの
家に戻り、屋台を経営してる)の案内で仮設住宅の集まる地域を訪れる。
 
そこで暮らすAさんの親戚の家を訪れ、その家の主人Sさん(61)にお話しをうかがう。
Sさんは妻(45)と長男(23)長女(16)とともに仮設住宅に暮らす。
 
Sさんは前述のM老人とは親戚関係にあり、被災前は同じ村に住んでいて日々交流があったそうだ。
火砕流に襲われた時は、夜道を妻と子供とともに5km駆け下りたそうだ。(その火砕流で村人が37
犠牲となった)その後2カ月避難所で暮らし、6か月前にこの場所に移ってきた。
 
現在の仮設住宅は政府の援助で造られ6m×6mの風呂トイレ付きである。共同井戸やモスクも
政府の援助で建てられており、質素ながらも最低限のものはそろっているとの印象を受けた。
また生計支援に関しても、Sさんは被災前に牛を数頭飼っており、それも現物支給という形で
政府から補償された。また、各世帯にナマズの養殖池とナマズの稚魚50キロが与えられている。
 
生活物資に関しては、被災直後は余るほどたくさんの援助物資があったが、今は1カ月に1
生活必需品の支給があるのみである。
 
これは私見であるが、1)コミュニティの形を維持したままでの仮設住宅の建設、2)その後の生活維持
まで配慮した支援の実施、など政府の今回の対応はある程度評価できるものであると感じた。
 
無論、被災者からは「政府が関与すると汚職によって中抜きが行われ、私たちの手元に届く時には
援助の額が半減している」との、今やインドネシア人の口癖になりつつある非難の声も聞かれたが。。
 
しかし、被災者や行政関係者にとって本当に難しいのはこれからだろう。
 
今回の災害は、1)2004年のスマトラ沖大地震に始まる災害対応の経験がインドネシア国内
(政府・NGO・市民・企業etc)に蓄積されてきた,2)災害の起こった地域がジャワのジョグジャ
カルタということもあり国内的な知名度が高かった、3)地方政府(ジョグジャカルタ特別州)自体は
官庁等に被害がなく、機能しやすかった、など理由により緊急支援期、およびその後の復旧期
にはかなりの援助が行われた。
 
しかし、ここからどう被災者・被災地域を復興させていくのか、という問題は対処治療的な対応では
なく、明確なビジョンが必要となってくる。
 
現在Sさん達が住んでいる仮設住宅は2年の期限付きであり、その後は解体される予定。
政府は別の土地を購入してそこにレンガ造りの家を建造し、復興住宅地とする計画をたてている。
しかし、そこに入居するためには1世帯30,000,000rp(約30万円)支払う必要があり、どれだけの
被災者がそのお金を用意できるかは不明瞭だ。
 
また、S老人の「以前の土地には畑もあったし、森もあった。食べるものには苦労せず、村は豊か
だった。」という言葉に象徴されるように、村の人々の暮らしは住宅さえあれば食っていけるものでは
ない。
 
「次の災害に備えつつも、住みやすいコミュニティの再建の目指す」
今、東北が直面している問題に、ここジョグジャの被災者・行政も対峙している。
 
写真1
SさんのすんでいたK村に向かう道沿いにある看板。「あなたは今から危険な地域に立ち入ります」
というなんとも直接的なメッセージ
イメージ 2
写真2
売られている遺品
イメージ 1
写真3
Sさんが住む仮設住宅
イメージ 3
写真4
Sさんと仮設住宅の前で。Sさんの「村は豊かであった。」という言葉が今も忘れられない。
イメージ 6
 
写真5、6

火口から18km離れているにも関わらず火砕流が到達し、64人の死者を出した村。現在は排出された
砂を採りに来る人たちで賑わっている。案内してくれたAさんも叔母一家をこの地で亡くしており、写真
の家はその叔母の家である。合掌後、Aさんの許可を得て撮影。
イメージ 4
イメージ 5
 

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タイ滞在雑記(Thailand)

 
Selamat Idul Fitri 1432H
Mohon maaf lahir dan batin
 
ということで、今年もインドネシアはジョグジャカルタで断食明けの大祭をむかえました。(3年連続)
ここ2年は(無駄に)断食をやり通し、(無駄に)毎日のお祈りにも参加していたので、そういう意味で
少しばかりは達成感とともにむかえた断食明けの大祭でしたが、今年は断食月中、日本→台湾→
タイと断食するにはハードルが高い3カ国に滞在していたこともあり、(ある意味普通ですが)まったく、
達成感なし!!《昨年の様子はコチラをご覧ください》
 
まぁそんな感じですが、追加調査や委託を受けている医療系の調査のため、ジョグジャには10月1日
まで滞在する予定です。来年からは社会人になることもあり、当分インドネシアには来れそうもない
(はず)なので、やることやって、余った時間はしっかりインドネシアを堪能しようと思います◎
 
さて、今回はインドネシアに来る前に滞在していたタイについてです。
タイには10日間ほど滞在し、東北部や北部をNGOスタッフの方の解説のもとでまわりました。
 
 
僕自身4年ほど前にとある方とタイに来たことがあるのですが、その時は観光中心でしたので、
今回はタイの別の顔を見ることができました。
 
忘れないうちにタイで感じたことをメモっときます。
 
〜国境〜
 今日まで、日本やインドネシアで「国境」なるものをリアルに感じることは皆無であった。無論、インドネシア
 の場合はカリマンタン・ティモール島と他国と国境を接する場所もあるのだが、ジャワ、その中でもジョグジャ
 カルタで研究する僕は、日頃から国境を意識することはなかった。
 (もし、僕の調査地が上記の両島はもちろん、スラウェシ島やスマトラ島であったら、この意識は変わっていた であろう。以前訪れたマカッサル近郊の島々では、中国やマレーシアから南下してきた人々を祖父や父に持つ 人々がたくさんいた。また、アチェでは祖母がアフガニスタン周辺の人であるという人にも出会った。
 なぜ、ジョグジャでは国境を意識する機会が少ないのか、この問いに対し、白石隆著「海の帝国」は説得力
 のある返答を寄せている。さすが。)
 
 今回タイ、特に北部では、国境というものがいかに不安定であり・ドラマテックなものであるかを何度も感じ
 させられた。
 期せずして1泊する運びとなったタチレク(ミャンマー領)では、小川を挟んだタイ側がほとんど
 影響がない中、雨によって町全体が浸水していく光景に接した。これまた期せずしてミャンマービールで乾杯
 する運びとなったミャンマー人からは、国内では食べていけない現状、そしてタイからの経済的影響力を受け
 ているタチレクの地でなんとか成功したいという想いを聞いた。高原の涼しい気候がありがたいメーサロンでは
 国共内戦で敗れた国民党軍がこの地に逃れ、1987年の武装解除まで独自の統治を続けていた歴史を
 学んだ。ゴールデントライアングルでは、あのメコン川をボートで移動しながら、対岸のミャンマー・ラオスが
 タイからの観光客を狙って作ったカジノを見、メコンをさかのぼって中国へ向かう汽船に何度も接した。
 
 ああいう場に立つと、日頃よく目にする「アジア共同体」「グローバル化」なんていう言葉が、とても薄っぺらく
 感じる。うまく言えないが問題はもっと複雑でドロドロしている。(まぁこの表現も薄っぺらい・・。うまく言えん。)
 
 ここ数年は「インドネシア」という国に自分の意識が集中していた。今回ありがたいことに勉強させて頂く機会
 をもらい、タイという国にも興味がでてきた。島嶼国のインドネシアとインドシナ半島の中心に位置するタイ、
 この2国を自分の中で比較できれば、また新たな視点を獲得できるのでは・・・・と夢が膨らむ今日この頃。
 (しかし、タイ語はインドネシア語に比べ、どーーーーーー考えても難しい・・・気がする・・・。)
 
写真1
タイ側より東南アジア研究者のあこがれ(??)メコン川を臨む
イメージ 1
写真2
浸水したタチレクの町
イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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不思議な隣人(Australia)

 
オーストラリア政府が、インドネシア向けの生きた牛の輸出を停止し、最長で半年間の禁止措置を行うと発表した。理由はインドネシアのと殺の方法が「残虐すぎるから」らしい。
 
インドネシアはご存知の通り、イスラム教徒が人口の70%を超える国である。だから牛をと殺する際も、
多くの場合はイスラム教の教義に則った方法がとられる。
 
僕も犠牲祭の時など、何度か牛さんが天に召される(??)現場に立ち会った。男たちが牛を囲い、押さえつけて
足を縛る。そして、のど元にナイフを入れる。「アッラーの御名に於いて(ビスミッラー)」と唱えながら。
 
そら、初めて見ると「ぎょっ」となるが、日本人的感覚で「命を頂いて自分は生きているんだな」と再確認する
おごそかな瞬間でもあった。
 
でオーストラリアである。
 
じゃかるた新聞2011年6月11日の記事によると
 
豪州政府は八日、インドネシア向けの生きた牛の輸出を同日から停止し、最長で半年間の禁止措置を行うと発表した。豪州国営ABC放送が先月三十日、インドネシアのと殺業者が、豪州から輸入された牛を足で蹴ったり、ムチで打つなどした上で、のど元を切る映像が放映され、視聴者から「動物を虐待している」と抗議が殺到したのを受け、豪州農林水産省が決定した。(中略)
牛のと殺方法については、豪州ではスタンガンなどを用いて気絶させてからと殺するのが一般的だという。インドネシアでは、イスラム指導者会議(MUI)がと殺の際に、祈りを捧げる、しっかり研がれたナイフを使用する、のどを切る際には一度で終えるなどの条件をハラル(イスラムの教義に沿う)として挙げている。 

んん・・・・・・・・・。
よーわからん。
 
「スタンガンで気絶させて殺せばOK。でもナイフで殺すのはだめよ!!」
「多文化共生!!でイもスラム教の殺し方は残酷たから禁止!!」
 
殺すのに変わりはないし、インドネシアの方もそれは宗教上のルールなんだから尊重されるべきなんでは??
と僕は思うのだが。。。
 
わからんついでにもう1ニュース
 
なんでも、オーストラリアでは野生のラクダが発するおなら・げっぷが地球温暖化の一因になっている
として、100万頭のラクダを「駆除」する計画が進んでいる。方法としては、ヘリコプターや四駆車から
ラクダを射殺し、死んだラクダは解体して人間やペットの食用にするそうだ。
 
らくだにしちゃーたまったもんじゃない。遠い国から人間に連れてこられ、道路建設などにこき使われた揚句、
いらなくなったら捨てられる。そんでも頑張って生きてきたら、今度は人間様が引き起こした「地球温暖化」なる
問題の責任を取らされて「皆殺し」
 
らくだに愛着を感じる僕でなくても泣ける話である。
 
ラクダは射殺OK!!牛はスタンガンならOK!!クジラは、、、、人間より賢い生き物なのよ!!(怒)
 
僕の友人のオーストラリア人は明るくて気さくないいやつばかりなのだが、オーストラリア政府が見せる
死生観はなかなか理解が難しい。。。
 
 
写真は昨年の犠牲祭(عيد الأضحى 、Eid ul-Adha)での1コマ。村中の男たちによる共同作業。
イメージ 1
肉はその場で切り分けられる。(てか村の男全員が牛さんの解体できるって何気にすごい!!)
イメージ 2
大人たちが解体にいそしむ傍らで、ヤギさんの亡骸と戯れる。
イメージ 3
解体し終わった肉・内臓は、村中の家々に青年たちの手によって配られる。
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考えさせられた論考・文章〜東日本大震災を通して〜

 
今回の東日本大震災に関連し、様々な論考・文章が新聞・雑誌・インターネットなどで発表された。
 
中には、今まで散々「地球を大切にしよう!!温暖化STOP!!」と叫んできたわりに、手のひらを変えて、
原発政策を非難する者もおり、閉口してしまうことも多々ある。それならそれで、1)二酸化炭素排出量
なんか無視して一昔前の火力発電中心の発電に戻す、2)日本近海に眠るメタンハイドレード(次世代資源)
の採掘・活用を国策として行う、など実現可能な対案を出してほしいものである。
 
電気は使いたい、電気代も上げたくない、地球にやさしい(??)生活もしたい、原発はいやだ。
小さい子供ではないのだから、わがままを言わず、国策として実現可能な案をマスコミには
提示して欲しい。
 
さて、そんな中で今回は2つの文章を紹介したい。
 
①卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。(校長メッセージ)
 
 災害の影響を受けて卒業式を中止した高校の校長先生が、3年生に向けて発表した文章である。
 「大学に行く意味は何なのか」という問いに対し、これほど明確に応えた文章を僕は知らない。
 
 大災害による惨状を前にして、僕たち学徒がすべきことは何なのか。ボランティア活動も大切だろう。
 しかし、永遠にボランティア活動をする人間はいない。ほとんどは月日が経つとともに日常生活へと
 戻っていく。これは、学生による国際協力活動にも言えることだ。それを、一生の職業とする人は
 ほとんどいない。
 
 しかし、誤解を恐れずに言えばそれでいいのだ。
 我々は、その現状から感じた「何か」としっかり向き合い、考え続ける。それは孤独であり、目に見える
 (就職活動に使えます!!的な)メリットがあるわけではない。しかし、人生を生きる上で一つの軸となる
 ものではないかと思う。
 
 こんなにも人の心に響く文章を書く人物が、高校で教師をしている日本。まだまだやれるという気にさせて
 くれる。
 
②国際開発ジャーナル20011年5月号(P6〜7)
 荒木光弥の「羅針盤」
 被援助国の温かい「恩返し」と日本の防災能力への「戸惑い」
 
 今回の災害に対し、世界中の様々な国から援助が寄せられた。
 その中には日本が今まで支援してきた途上国・新興国も多く含まれる。
 
 (以下本文より一部抜粋)
 国際協力をライフワークにしている私たちにとって、自己満足的な感激かもしれないが、途上国の
 人びとのウォーム・ハート(暖かい心)を‘恩義‘として感じてならない。あの小さな国ブータンが
 ワンチュク国王義援金100万ドル(約8100万円)を寄付してきたことを知った時、一人の日本人専門家
 (ダショー西岡)が命を賭してブータン水稲の普及に努めたことを思い出した。
 
 本文では、ブータン以外にも、1990年代の社会主義国から市場経済国への移行時に、最大の援助国として
 国づくりに協力したモンゴルから、援助隊12人、義援金100万ドル(約8100万円)が届き、それに加え政府は
 公務員を対象に給料の1日分の募金を呼び掛け、その輪が一般国民や企業にも広がり、1億2500万円以上が
 集まっているとしている。
 
 僕がお世話になっているインドネシアからも援助隊15人、義援金200万ドル(約1億6200万円)が届いた。
 またジョグジャカルタでも募金活動や日本支援イベントが開催された。
 
 このような動きにただただ感謝する。
 
 日本では、得てして国際援助・協力に対する評価が低く、いわゆる「事業仕分け」でも真っ先にその対象と
 なる。もちろん日本の援助の中には効率的でない部分や無駄な部分もあり一層の努力が求められる。
 しかし、一方で、現地のニーズに寄り添いながら、ともに考える日本の援助、日本人に対する高い評価が
 あるのも事実である。
 
 日本には階級がないからなのかもしれないが、国際開発の現場における「謙虚でまじめな」日本人の態度に
 好印象を覚える人々も多い。
 
 今回のことが、日本全体がODAなどの国際援助について再考する契機となることを期待したい。
 
 また、記事ではインドネシアやフィリピンの防災関係者が、「先生」である日本の被災状況に戸惑っている
 現状が報告されている。その意味でも、今後の復興過程が、新たな教材になりうるようなものになるように
 しなければならない。
 
 
 
写真:草の根の交流(??) マカッサルと近郊の島を結ぶ連絡船の屋根の上にて。
イメージ 1
 
 
 
 
 
 

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自分の歩む道

 
ご報告が遅くなりましたが、就職活動を終えました。
 
中国、タイなどアジアに進出しているベンチャー企業と大型建造物の空調を手掛ける大手メーカーの
2社から内定を頂きました。この氷河期にありがたいことです。迷った末、ベンチャー企業の方にお世話
になることにしました。
 
来春からは社会人です。
 
が、ここにきてまだ迷っている。それは「研究者」という道。
 
先日、深夜に「ドキュメンタリー回顧録・遥かなる山の民ー秘境・雲南5000キロー」というテレビ番組を見た。
「今回お送りするのは1989年9月17日に放送されたものです。世界最後の秘境それは中国雲南省北西部から
ミャンマー国境地帯にかけて広がる一大秘境。学術隊と原住民たちとの交流や雄大なる自然を描く。」という
番組である。
 
学術隊の面々は濃い方ばかりで、幻の「青い花を咲かすケシ」を探し続ける植物学者や様々な石を回収し
満面の笑みを浮かべる地質学者など、一般人とはかなりかけ離れている。
 
しかし皆さま幸せそうだった。
 
一つのことをトコトン追い求める姿。
 
曲りなりにもこの3年間、インドネシアの農村社会と向き合ってきたと(勝手に)自負する身としては、
やっぱりあこがれるし、今までやってきたことにピリオドを打つということに惜しいと感じる自分がいる。
 
もっと深く・広く、インドネシア社会と向き合っていきたい。それは偽らざる自分の気持ち。
 
もちろん、社会人としてビジネスの世界でチャレンジしたい気持ちも同じくある。
 
(新卒で)社会人になれるのはこれが最後であり、研究者になりたいのならまた数年後に大学院へ
戻ってくればいいとも思う。だが、その数年が惜しい気もする。
 
先述のドキュメンタリーの中で、学術隊隊長の方が「東京の街なかや地下鉄の駅で、ふとロバの鈴の音
が聞こえることがある。そんな時、ここに戻ってきたいと思うんだ。」とコメント。
 
その気持ちわかるわぁ〜〜〜〜
 
写真はタナ・トラジャでの一コマ
「うわ、日本人歩いてきた!!ほれ、ニワトリ持ってみ!!」
イメージ 1
 
 

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