奉安堂は本門事の戒壇〜日蓮正宗の誤れる本尊義〜
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さきに法華講総講頭池田大作発願主となって、宗内僧俗一同の純信の供養により、昭和四十二年総本山に建立の工を起せる正本堂はここに五箇年を経て、その壮大なる雄姿を顕わし、本年十月、落成慶讃の大法要を迎うるに至る。 日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明(せんめい)し、もって後代の誠証(じょうしょう)となす。 正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。 即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。 然れども八百万信徒の護惜建立は、未来において更に広布への展開を促進し、正本堂はまさにその達成の実現を象徴するものと云うべし。 宗門の緇素(しそ)よろしく此の意義を体し、僧俗一致和衷協力して落成慶讃に全力を注ぎ、もってその万全を期せられんことを。 右訓諭す。 昭和四十七年四月二十八日 日蓮正宗管長 細井日達 この言葉は僧宝たる日興上人の遺誡である。私はこう真っ当な道理を問うた。 五老僧は「身延山には大聖人の魂が染みついている」と日興門徒を脅したのである。
もちろん戒壇には事と義の二義があり、戒壇本尊の住処を指して再往の立場から「事の戒壇」とも言う。戒壇本尊は「広宣流布の暁に本門事の戒壇堂に安置される御本尊」であり、 広布途上に於いては戒壇本尊も御形木御本尊も御守御本尊も、一往に全て義の戒壇である。 現時が明らかな広布途上である以上、広布大願の創価学会常住御本尊が持つ意義はいや増して大きい。 しかし、その論を以てして即「奉安堂は本門事の戒壇だ!」とするのは教義の変質である。 総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死のもとゐたらん という大聖人の金言が如く、それはまるでこういった理屈と同じである。 「私達は凡夫かもしれないが、本当は仏性を持った仏なので修行はしなくていい。」 確かに我々には尊い仏性が宿っている。そう考えるのが大聖人の仏法だろう。 それでも、だからと言って「私達は未だ名字即の立場である」という意見を否定出来るだろうか。 また、総別の二義と言えば日蓮正宗側はすぐに「唯授一人の血脈」を想起することだろう。 しかし、これもまた教義の変質なのである。このことは別途論ずることとしたい。 「日蓮日興」とある師弟の血脈は存する。これは信心の血脈を再往の立場で論じた場合である。 しかしその僧宝たる日興上人が、大衆と法主を対比させながら法主無謬論を否定しているのだ。 法主は伝持の立場であり、堀上人、日達上人と「法主は大聖人ではない」と明示しているのだから。 結句、上記で示した正本堂への意義付けを確認して頂きたい。 八百万信徒が創り出した広布達成の一大瑞相に鑑み、最後の戒壇建立事業とされたのが正本堂である。 それは因果俱時の二法、また事行広宣流布の大躍進によって荘厳されていたのであった。 その正本堂を以てしても、日興上人が示した広布途上に於ける不惜身命の信心を目指すが故に、 「本門寺の戒壇たるべき大殿堂」「事の戒壇に準じて」と定義されたのである。 大聖人は信心の血脈なくして功徳はなく、御本尊も只信心の二字にをさまれりと指導されている。 それでは一体、日蓮正宗の誤れる本尊義とは何を源流として生まれてしまったのだろうか。 「広布途上であろうと何だろうと奉安堂は事の戒壇である!」 この総別の二義に違背した言説は、事行の広宣流布を至上としないが故に生まれたのだと言えよう。 確かに、戒壇本尊がある住処は一分に於いて事の義を有する。 しかし、あの正本堂ですら「事の戒壇に準じて」建立されたと我々は理解した。 それでも、正本堂が広布の一大瑞相と共に誕生し、最後の戒壇堂建立であることは明確だった。 だからこそ正本堂がやっと、「事の戒壇に準じる一往の事の戒壇」と祝された訳である。 その正本堂を破壊した現在の日蓮正宗が、実働会員10万人そこらで建てた奉安堂を恥じることもなく、 「奉安堂は事の戒壇だ!」と主張する姿から、戒壇本尊を信徒獲得の道具とする信心が伺える。 また私の論をして、顕正会の二番煎じと批判する人々もいる。 これはあまりにも論理の飛躍であり、ネガティブキャンペーンの域を出ていない。 顕正会は国立戒壇を主張し、国会の議決と天皇の許可による文字通りの国立戒壇を「事」としたのだ。 彼らは正本堂を「民衆立の戒壇である」と批判した訳であって、私の論点とは全く異なっている。 ここで改めて述べておこう。 五老僧は「身延山には大聖人の魂が染みついている」と日興門徒を脅したのである。
地涌の菩薩が目指す信心は、広宣流布に邁進しゆく信心である。戒壇本尊は「広宣流布の暁に本門事の戒壇堂に安置される御本尊」であり、 広布途上に於いては戒壇本尊も御形木御本尊も御守御本尊も、一往に全て義の戒壇である。 現時が明らかな広布途上である以上、広布大願の創価学会常住御本尊が持つ意義はいや増して大きい。 広布途上であることが明らかな以上、一往に論ずれば御本尊は義の戒壇なのだ。 戒壇本尊は本来、秘仏であった訳であるし、本尊流布の技術革新が飛躍的に向上した現時に於いて、 登山の意義を強調した過去の文献等は比較する前提を異としている。 広宣流布は創価学会常住御本尊と共にある創価学会なくしてあり得ない。
そんな創価学会を破門にし、広宣流布を放棄した現在の日蓮正宗にとって、 御本尊は人間を縛り付ける呪物でしかないのだろう。これが、日蓮正宗の呪術的本尊義である。 |
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2011/2/2(水) 午後 7:26 [ 脳挫傷による見えない障害と闘いながら・・・ ]
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「広宣流布の暁に」「広宣流布の暁に」と繰り返し叫んでいる宗門。
700年以上そればっかり。
じゃぁどうやったら達成できるか具体的な方策をしていない。
丑寅勤行して祈っていれば広宣流布は達成するとでも思っているのか…?
だから700年経ってもこの体たらくぶりなんでしょうね…
日蓮大聖人の本流とも言うべき日興門流、日蓮正宗がこんな状態じゃ大聖人のお嘆きもさぞかし大きいことと思います…
哀れなり日蓮正宗…
2010/12/19(日) 午後 2:40 [ eijitypeR(^^♪ ]
けんいちさん、はじめまして。
色々としらべているうちに
こちらのページにたどり着きました。
すごく勉強になりました。
総別のお話も、ぜひ学ばせて欲しいです。
よろしくお願いします。
2011/1/3(月) 午前 8:54 [ えんぴつ ]
必ず 大御本尊は 世界の人達に披露される日が来ると思います。
大聖人がそう仰ってますものね。
また 登山に行きたいです。
2011/7/20(水) 午前 4:53 [ 日眼女 ]
eijiさん、戒壇云々の前に現実的に広布を進めることを考えた方が良いと私も思います。
2011/8/5(金) 午後 0:03
えんぴつさん、総別の二義は簡単で、私達は仏様であるけれども、それはあくまで総じての立場で、大聖人のお立場が別しての仏様である…斯様な理解で良いかと思います。理と事にも近い概念です。
2011/8/5(金) 午後 0:04
日眼女さん、まずは此の一凶と対峙することですね。
2011/8/5(金) 午後 0:05