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 源義康が、三十一歳の若さで病没すると、下野国足利荘を継承したのは、三男の義兼であった。

 義兼は、1154年に生まれ、母は、藤原季範の養女(実孫)であった。義兼の母は、頼朝の母の妹であったから、義兼と頼朝は母系の従兄弟にあたる。

 また、祖父の義国と頼朝の曽祖父の義親が兄弟であるから、父系でも縁戚関係にあった。ある意味、異母弟の範頼・全成・義経などよりも、血縁的には頼朝に、最も近い存在であったと言える。
 
 義康の死後、幼少であった義兼は、伯父の義重の庇護を受けて成長している。義康の早世は、ある意味、足利氏の将来にとって幸いした。

 惣領を失った足利氏は、平治の乱に参戦することができなかったため、平家全盛時代にも、平家の圧迫は少なかったと推測される。

 1180年、伊豆国において頼朝が挙兵すると、義兼は、鎌倉へ馳せ参じた。翌年には、頼朝の仲人で、北条政子の妹を妻に迎えている。

 1184年、京において源義仲が源義経の軍勢と戦って討ち死にすると、頼朝は、自身の娘、大姫の婿にする予定であった義高(義仲の息子)を殺害する。

 義高殺害の後、義兼は、義高残党の討伐で戦功を挙げた。

 その後、義兼は、頼朝の弟、範頼の軍勢と共に西国へ向かい、平家追討の合戦で、戦功を挙げている。その功績により、義兼は、上総介に任官した。

 以降、1189年の奥州合戦に従軍。翌年の出羽国における大河兼任の乱では、追討使に任じられて、叛乱軍を鎮圧した。

 数々の戦功を上げ、また、頼朝挙兵後の早い段階で馳せ参じたことから、義兼は、頼朝の厚い信任を得ている。義兼は、御門葉の席に連なって、源氏を称することが許された。

 鎌倉時代を通じて、足利氏が御家人の筆頭格の座を保ったのは、義兼の功績が大きい。義兼は、1199年、四十六歳で没した。

 余談であるが、同時代の河内源氏には、義兼の名が多い。

 足利義兼(義家の曾孫)の他に、従兄弟にあたる、義国流の新田義重の三男、新田義兼(義家の曾孫)、義忠流の石川源氏である石川義兼(義家の曾孫)、義光流の柏木義兼の四名で、柏木義兼以外は、全員、鎌倉幕府の御家人として頼朝に仕えている。

 また、本姓は源氏であるため、四名共に、源義兼である。本書では、文脈に従って、必要に応じて名字を付加している。

 足利義兼の息子として記録が残っているのは、義純・義助・義氏である。長男の義純は、妾腹であったため、足利荘を継承せずに、新田義重に養育された。

 義純は、新田義兼の娘を妻とし、時兼・時朝の二子をもうけている。1205年、北条氏の謀略によって、畠山重忠が壮絶な最後を遂げると、重忠の未亡人で、北条政子・義時の妹が、畠山氏の所領を継承した。

 義純は、重忠の未亡人の婿となって、畠山氏の名跡を継承したのである。以後、平姓畠山氏は消滅し、源姓畠山氏が御家人として鎌倉幕府に仕えた。

 義純は、畠山氏の婿になる際に、先妻の新田義兼との間に生まれた、時兼・時朝を義絶した。時兼・時朝の兄弟は、母方の実家である新田一族を称して、岩松氏と田中氏を興した。

 岩松氏は、新田本宗家の政義が惣領職を失った際には、世良田氏と共に、新田氏の惣領職を継承して、「半分惣領」となった。

 南北朝の動乱期には、足利尊氏に従って、新田義貞の死後、新田氏の惣領となり、新田荘を領有している。

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こんにちは、「玉前神社の謎」を書いています。
ご訪問ありがとうございました。
足利氏の鎌倉時代前後の系統がよくわかりました、戦乱の時代とはいえ家督を相続するのはいろいろ訳がありそうですね。妻となる女性の出自も重要な条件のような気がしていますが・・・

2011/7/18(月) 午前 8:05 [ 玉依姫 ] 返信する

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