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河村名古屋市長が「南京大虐殺は無かった」と南京市からの表敬訪問団の前で発言し、
名古屋市との友好提携都市・南京市では、河村市長へ抗議の意味をこめた行動が広がっている。
「蟻の兵隊」というドキュメント映画を観た。
中国では南京に限らず、日本軍による虐殺・強姦・略奪が日常的におこなわれていたようだ。
当時の兵士は、健在ならば既に90歳を超えているだろう。
彼らの殆どは、その忌まわしい過去を語らないまま墓場まで持っていくようだ。
「蟻の兵隊」は、奥村和一さんという元日本兵が、司令官の背信行為を追及する行為とともに
勇気をもって当時を証言している。
是非皆さんにも観て頂きたいフィルムである。
下記の南京大虐殺に関する本は図書館で見つけた。
公正に書かれている本だと思う。
これも南京大虐殺の項目を全文紹介しましたので、一度目を通してください。
内容紹介
世界で初めて“日本軍山西省残留問題”に正面から斬り込んだ衝撃のドキュメンタリー!
私たちは上官の命令に従い、蟻のようにただ黙々と戦った―。
終戦直後の山西省で何が起こっていたのか?
●製作年・国
2005年・日本
●スタッフ
監督:池谷薫『延安の娘』
製作:権洋子『延安の娘』
撮影:福居正治『延安の娘』、外山泰三
編集:田山晃一
音楽:内池秀和『火の鳥』『偉大なる旅人 鄭和』
●解説
中国山西省で終戦を迎えた北支派遣軍第1軍の将兵2,600人は、武装解除を受けることなく残留。国民党軍の部隊として、戦後4年間共産党軍と戦い、550人が戦死した。生き残った者も700人以上が捕虜となり、ようやく引揚げることができたのは、日本が高度経済成長に突入しようとする昭和30年頃のことだった。“軍の命令で残った”と主張する元兵士らは“志願による残留”とみなされ、戦後補償に応じない国を訴え続けている。
第1軍司令部軍司令官によって行われたという歴史上類を見ない“売軍行為”は、多くの日本人にとって知られることの無いまま、第二次世界大戦の記憶の風化と共に歴史の闇に葬られようとしている。本作は、戦争の被害者でもあり加害者でもあるひとりの老人・奥村和一が、“日本軍山西省残留問題”の真相を解明しようと孤軍奮闘する姿を追った衝撃のドキュメンタリーである。
奥村氏の体には、未だ無数の砲弾の破片が残り、左耳の聴力と全ての歯が失われている。しかし彼は、戦争によりそれ以上のものを奪われた。“初年兵教育”の名の下に、“肝試し”と称してなされた中国人の虐殺を巡るエピソードは、戦争がいかに人間の尊厳を破壊しつくすかを如実に物語っている。真実を見極めようとする奥村氏の中国への旅は、この問題自体を黙殺しようとする国家に対する戦いと、侵略戦争の加害者としての贖罪という二重の意味に彩られる。これまで妻にさえ語ることのなかった自らの戦争体験を明らかにすることで、彼にとっての戦争に決着をつける道を見出す奥村氏の姿は、戦争責任を省みることなく、総括することもせずに歩んで来たこの国の歪んだ像を際立たせる。
監督は、テレビ・ドキュメンタリーのディレクターとして数多くの作品を手がけ、モンテカルロ国際テレビ祭ゴールデンニンフ賞受賞などの経歴をもつ池谷薫。『延安の娘』に代表されるように、中国での取材活動を積極的に行っている。資金の一部を全国の有志からのカンパで補い完成した本作は、試写を見て感銘を受けたボランティアの活動の甲斐あって、全国各地で上映され、その波紋の輪を静かに広げている。見ることで知り、知ったことで何かが変わる。『蟻の兵隊』とは、まさにそういう映画だ。
内容(「キネマ旬報社」データベースより)
第二次世界大戦後も中国に残留し共産党軍と戦い続け、政府から黙殺された日本兵がいた。当時の残留兵・奥村和一が、日中戦争が内包する闇“日本軍山西省残留問題”の真相解明に孤軍奮闘する姿を追ったドキュメンタリー。『延安の娘』の池谷薫監督作。
内容(「BOOK」データベースより)
本書では、満州事変~日中戦争~アジア太平洋戦争と続いた「十五年戦争」において、日本は一体どのように侵略戦争を遂行し、どのような戦争犯罪をおかしたのか、なぜそういうことをおこなったのか、そうしたことを事実に基づいて、その全体像をわかりやすく描く。さらにそうした日本の行為が、平和を追求する国際的努力の中でどのように扱われてきたのか、戦後の日本はそうした過ちにどのように対処してきたのか、という観点からもくわしく説明を加えている。学生、高校生、学校の教師、市民のみなさんなど多くの方々に活用していただき、日本の戦争責任問題と戦後補償の解決に少しでも役立てていただくことができれば幸いである。
内容(「MARC」データベースより)
満州事変からアジア太平洋戦争と続いた15年戦争において、日本は一体どのような侵略行為・戦争犯罪を行ったのか。その全体像を事実に基づき、図版も多用してわかりやすく描いている。〈ソフトカバー〉*
南京大虐殺
1937年(昭和12年)12月13日、日本軍は中華民国の首都南京を占領した。この占領から占領
後にかけての約2ヶ月間にわたって続けられた捕虜や住民の虐殺、強姦、放火、略奪など一連の残虐行為を全体として南京大虐殺、あるいは南京アトロシティーズ(残虐事件)という。
同年7月7日、中国との全面戦争に入った日本は上海ついで杭州湾から上陸し当時の首都南京に攻め込んだ。中支那方面軍(司令官松井岩根大将)指揮下の各部隊は、南京にいたる道々で虐殺・強姦・略奪をくりかえしながら進撃し、南京に流れ込んだ。
当時、外務省東亜局長だった石射猪太郎は回想録の中で「南京アトロシティーズ」の項を設け「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民心の頽廃であろう」と嘆かざるをえないほどだった。
一連の残虐行為の第一にあげられるのが、中国兵捕虜の集団虐殺だった。当時の戦時国際法によって捕虜は人道的に取り扱わなければならなかったが、日本は戦争でないという理由で捕虜として扱わない方針をとった。南京戦に参加した第16師団長中島今朝吾中将の日記(12月13日の項)によると「大体捕虜はせぬ方針なれば、片端より之を片付くることとなした」として、既に1万6千3百の捕虜を「処理」=殺害し、更に7、8千を「処理する予定」と記述している。残されている日本軍の公式文書にも捕虜は処分する方針である記されており、実際に処分したことを記述したものもいくつか見つかっている。
捕虜になった者以外では、逃げたものもあるが、逃げ遅れた中国兵は軍服を脱いで難民の中に逃げ込んだ。そこで日本軍は「便衣兵」(ゲリラ)狩りと称して、難民の中から兵士らしき者を選り分けて処刑していった。この中で一般市民も巻き添えになって殺された。武器を捨て戦意を失った兵士を法的手続きなしに処刑することは虐殺というしかない。
第二は一般市民への残虐行為である。「便衣兵」狩りにより民間人の男子がたくさん犠牲になった。また日本兵が掠奪をおこなう際に家に残っていた家人が殺され、あるいは女性が強姦されて殺された。元兵士の手記では、面白半分に住民を殺したことがしばしば出てくる。
南京大虐殺は軍による組織的な虐殺と荒廃した兵士たちの残虐行為が複合したものだった。
南京大虐殺が日本で大きく注目されたのは1972年の日中国交回復の前後だった。本多勝一のルポ『中国の旅』が国民の大きな衝撃を与え、それに対し、南京大虐殺は「まぼろし」だというキャンペーンがおこなわれた。その後、1980年代に入り、教科書検定をめぐって議論が再燃した。この中で「まぼろし」を主張する論者が史料を改竄していたことが明らかになったこと、虐殺の事実を裏付ける日本軍の史料や元将兵の日記、証言が次々に発表されたため、南京大虐殺はなかったという議論は破綻した。しかしその後、虐殺された数は数千人あるいは1万数千人、4万人前後と非常に低く見積もる見解(「過小評価」説)が出されている。
これらに対して、遺体を埋葬した諸団体の史料の分析、南京は過小評価派が言うような30万人の都市ではなく100万都市であったこと、南京防衛の中国軍は6、7万人ではなく約15万人であったこと、幕府山での捕虜虐殺だけでも2万人にのぼることなどが研究の進展によって解明されてきており、現在では十数万人から20万人が虐殺されたという見解が主流である。なお中国側は30万人が虐殺されたという見解をとっている。
もちろん虐殺者数の評価は、南京攻略戦(防衛戦)の対象となった南京郊外を含む地域を対象にしたものであるが、上海からの一連の虐殺を入れればさらに増えることは言うまでもない。なお日本では南京大虐殺という呼び名が定着しているが、英語では南京虐殺事件であるし、戦後の一時期はレイプ・オブ・南京(南京の強姦)と呼ばれていることからもわかるように、中国の軍民に対する様々な残虐行為全体がこの事件である。
(「キーワード日本の戦争犯罪」小田部勇次・林博史・山田朗共著 雄山閣)
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