数学という○○
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月刊 アフタヌーンの今号(7月号)の 『 天地明察 』 が、存外に面白かった。
「存外に」 とは、大変に失礼なんだけれども、
先月号と今月号の間のひと月で、こちらの見る目というか、視点が変わったのかもしれない。
『 寛文二年 元旦――
三種の神器のひとつ
「草薙剣の神霊」とされる
熱田大明神の御許
ここ熱田大神宮にて
初日の出を拝み
この一年の幸福と
この旅の成功を
祈願する 』
今号の最初のコマは、版画風に描かれたご来光に、上記の文字列が被る。
これだけの記述からも、けっこうイロイロなことが読み取れるはずなんだけれども、
ついつい、そういうことをおろそかにしてしまうのが私の悪い癖で、
今回、主人公である二代目安井算哲(後の渋川春海)を wiki ってみてはじめて、
なんとなく江戸時代後半が舞台と、思い込んでいた設定が、
つまり寛文二年が1662年のことと知る。
1662年?
ま、まだ始まったばかりじゃん、江戸時代〜!(大汗)
なぜ江戸時代も後半と思い込んでいたかというと、
いま、算哲の就いているお役目が、各地の緯度を計測することで、
歩測と天文観測の結果と、算術で得られる答えとを、
照らし合わせて確認していく、というもので、(合ってるよな?汗)
そういう科学的な検証を必要とする学問的なことができるのは、
江戸時代も中期以降だろうと思っていたからだ。(江戸時代前期の方々ゴメンナサイ。)
あと、“歩測”“天文観測”といったことで、伊能忠敬と結び付けてしまったのかもしれない。
いずれにしろ、半端な知識 & 注意力散漫のせいである。
『 天地明察 』 は、冲方 丁(うぶかた とう)氏の同名の小説が原作である。
今年の9月に、映画も公開されるらしい。
『 宇宙兄弟 』 もそうだけど、これらの展開がなぜ今年かといえば、
やっぱり先日の「金環日食」という世紀の天体ショーと、切り離しては考えられない。
単に珍しい見世物としてではなく、宇宙そのものへの興味だけでなく、
いろんなドラマや、歴史や、学問や研鑚の積み重ねがそこにはあることを、
新たに認識できるきっかけとなり得るからだろう。
(もちろん、宣伝効果の大きさも外せない要素だけれど)
数学がからきしな私には、
「金環日食が何年何月何日の何時何分に起こる」といったことが、
予測が“計算で”割り出せるということが、まったく理解できない。
出来ないけれども、当日、まさにその時間に金環日食が起こったのを、
実際にこの目で見ている。
現在は、その計算もコンピューターで出来るから(その理屈もわかってはいやしないが)、
そのとおりの結果でも当然で、あまり不思議とも思わずにいるのだけれど、
算哲の時代には、使って算盤、ほとんどの場合は筆算、それで計算していたわけで。
もちろん、天体の観測やら土地の測量やらは、古代エジプトの時代から既に行われていた事だし、
数学というものも、それぞれの地域で進歩してきたのだし、
改めてビックリすることではないかもしれないのだが。
「これから起こることを計算で導き出す」 というのは
どんなに丁寧な説明を受けたとしても、やはりピンとこない。
現在はカレンダーを小学生でも作ることが出来る。
けれど140年前までは違った。
暦は専門家の手によってしか作れず、都度々々確認しなければならないものだった。
「暦は娯楽でもある
さらに教養でもある
吉凶の列挙であり
様々な日取りの選択の基となる
それは万人の生活を映す鏡であり
尺度であり
天体の運行という巨大な事象がもたらしてくれる・・・
“昨日が今日へ 今日が明日へ ずっと続いていく”という
人にとっては なくてはならない 確信の賜物だ」
そう考えた時に算哲は、あるひとつの疑問を持つ。
そして・・・・・・
というのがこれからの展開。
今野敏氏の「神々の遺品」での、数学の扱われ方とかを思い出した。
長い時間を経て、文明が滅んだ後でも、必ず解読されるまたはその基盤となる。。。
大変に苦手なのにも関わらず、憧れを払拭できないのは、
数学のそういう面(<説明できるならそう書きます・・)を、感じるからかもしれない。
原作を読んでみようと思った。 |




