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満州国の崩壊

8月9日にソビエト連邦はヤルタ会談において連合国首脳により結ばれた秘密協定に基づき、1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告した。まもなくソ連軍は満州国に対しても北西の外蒙古(モンゴル人民共和国)及び北東の沿海州の2方向からソ満国境を越えて侵略した。それに対して満州国を防衛する関東軍は、日ソ中立条約をあてにしていた大本営により、1942年以降増強が中止され、後に南方戦線などに戦力を引抜かれて十分な戦力を持たないこと、また関東軍自体の兵装の水準の低さ、ソ連侵攻に備えての一月前から通化への司令部移動と大幅な防衛ラインの後退から、国境付近では、大きな抵抗もできずに壊滅もしくは後退した。

ソ連の侵略の犠牲となったのが、主に満蒙開拓移民団員(後述)をはじめとする日本人居留民たちであり、彼らは最初に蹂躙された。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、ソ連侵攻の呼び水になるおそれありとの理由で、東京の大本営に拒絶され、結果、彼らは破竹の勢いで満州領に攻め込んだソ連機甲師団の前に裸で放り出される結果になった。ソ連兵の最初の残虐行為については伝える人さえもほとんど残っていないが、市民を道路に一列に横に寝かせ戦車の無限軌道でひき殺したこと等が、当時幼かったわずかな生存者の口から語られているにすぎない。後に、一部は開拓団に恨みを持つ満州族や漢族によって殺害されたりしたが、脱出不能との判断から、集団自決により命を失った者も多数にのぼる。中には、シベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留された者もいるという。この混乱の中、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身によって、より多くの生存の機会を子供に与えるためににと現地人に預けたりして戦後も大陸に残り、いわゆる中国残留日本人孤児として、日本語も肉親の顔も、さらには自分の日本名さえも忘れて(もしくは知らぬまま)育ち、苦難に満ちた人生を送る事となる。後に帰国してさえも、その苦難は終わらなかったという。しかし、新京の軍属(主に将校の家族、関東軍の上級関係者たち)は8月10日、いち早く、莫大な資金を安全確保の「武器」として乗せた、憲兵の護衛つき特別列車で脱出して事なきを得、彼ら犠牲者の中には含まれなかった。

皇帝溥儀たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い通化省臨江県大栗子に避難していたが、8月15日の玉音放送によって戦争、そして自らの帝国の終わりを知ることとなる。2日後の8月17日、国務院は満州国の解体を決定、翌18日には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満州帝国は建国より僅か13年で地上から消滅した。

なお溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に逃亡する直前に、ソ連軍の空挺部隊によって拘束・逮捕され、即時にソビエト領内の収容施設に護送された

出典 「ウィキベディア」

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