熊本・熊本 / 今村家住宅(川尻薩軍本営跡)
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∞ 国登録有形文化財(平成10.01.16) 熊本市景観形成建造物 年代: 江戸末期(1830-1867) 構造及び形式等: 木造2階建,瓦葺,建築面積191㎡ 登録基準1: 国土の歴史的景観に寄与しているもの 解説文:熊本市の南端,加勢川の北岸に近い県道に面して広い間口を構える大型町家。 西南戦争の際に薩摩軍の本陣が置かれたと伝える。 1階の出格子と2階を低く押さえた外観に特徴があり,西南戦争以前の民家が比較的に多く残る川尻の町で ひときわ目をひく建物である。 西南戦争の際、陸路熊本に向かった薩軍は、川尻に熊本鎮台攻略の拠点として本営を構えました。 川尻の町は西郷隆盛以下、1万5千人余りに及ぶ兵で埋め尽くされたといわれています。 この住宅は、町役人も務めた旧家で、江戸時代の屋号が「塩飽屋(しわくや)」の今村家です。 西南戦争の際、薩軍の本営が置かれたと伝えられ、玄関先には「明治十年戦役南州翁本営跡」の碑が建っています。 出格子が美しい町屋です。 2月15日大雪の中、鹿児島を出発した薩軍は2月20日に先鋒隊が川尻に到着し、翌21日に西郷もこの地に到着。 「新政大総督、征伐大元帥西郷吉乃介」の表札を掲げ、熊本城攻撃のための本陣を置いた。 しかし、熊本城はその前に焼失、その後も薩軍の攻撃は失敗続きになるようです。 ◎西南戦争おさらい 西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。 征韓論により下野した西郷は帰郷して私学校を興したが、その生徒が西郷を擁して挙兵。 ともに下野していた桐野利秋、篠原国幹、村田新八、別府晋介らが率い薩摩軍は北上、東京を目指した。 その途上で熊本鎮台(熊本城)を包囲したが、稚拙な作戦により陥落させることができず徴兵による政府陸軍に鎮圧され、最後は西郷ら薩摩軍幹部らは鹿児島に敗走、城山に陣地を築き立てこもったが政府軍の集中砲火にあい、多く自刃した。 明治初年の士族反乱の最大で最後のものとなった。以後の反政府運動の中心は自由民権運動に移る。 熊本、鹿児島を中心に激戦を繰り広げたが、熊本城籠城戦と田原坂の戦いは特に名高い。 政府軍が勝利し、一連の士族の武力反乱は集結した。この戦いで乃木希典が軍旗を奪われた。 挙兵したのが明治10年2月初旬、西郷が城山に立てこもって自刃したのが9月24日だそうですから、 8か月に渡って、南九州一帯が戦火にみまわれたんですね・・・ 維新という大変革があったわけですから、人それぞれ様々な苦悩があったとは思います。 特に禄高の少なかった武士にとっては、急な変化に戸惑ったでしょうね・・・ 新政府も今までの藩政を拒否するにしても、一切合切地方から取りあげてしまって、 もう少し温情のあるやり方もあったでしょうに・・と思う事がありますね。 (川尻4丁目 2011年10月23日) ・
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さすがに本陣にしただけあって大きいですね。千本格子がきれいだし、出入口の取っ手部分が削ってあるのがいいね。ポチ
東北出身士族たちは薩軍に対して東北の仇を討つとばかりに奮闘したみたいですね。恩讐のかなた・・・
2012/1/28(土) 午前 9:57 [ donpancho ]
パンチョさん、薩軍本営というのは、この近くの寺院という説もあるんですが、この家も関係はあったので、どっちでもいいですよね・・・
その当時の面影を保っているとかで、きれいな町屋だと思います。
辛酸をなめた想いは、相手に対してその思いを決して忘れない物ですよね。
温情を受けたという気持ちも同じで、政治的事情はともあれ、人間の心を忘れちゃいけませんよね〜
ポチありがとうございます。
2012/1/28(土) 午後 0:49
格子が見事な建物ですね。
2012/1/28(土) 午後 2:17
Architecさん、こんにちは。ずいぶんとこまかにまわっておられますね。詳細な解説にポチ☆
2012/1/28(土) 午後 5:12
houzanさん、町屋は格子が美しいですよね〜
2012/1/28(土) 午後 7:06
Keiさん、ポチありがとうございます。
解説はちゃんと伝わっていますでしょうか?心配になるときもあるんですが・・・
2012/1/28(土) 午後 7:08
すーーーっと格子が美しいお宅だわ。でも、きっと時代でおこったいろんな事件をじっと見守ってきたんだね。
(。。)
2012/1/29(日) 午前 2:34
碧ちゃん、そうよね・・
本営だったからこそ、残ったのかもしれない・・・
2012/1/29(日) 午前 7:53