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明治以降に建てられ、各種業務を実際に取り扱った建物及び店舗などの商業施設も含めます。
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神奈川・平塚 / 旧日本爆発物製造株式会社・支配人室(現「旧横浜ゴム平塚製造所記念館」)



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国登録有形文化財(平成16.07.23)

名称: 旧横浜ゴム平塚製造所記念館(きゅうよこはまごむひらつかせいぞうしょきねんかん)
年代: 明治39年(1906)頃
設計:カーリ&ウィルソン
施工:清水組
構造及び形式等: 木造平屋建、鉄板葺、建築面積234㎡
登録基準1: 造形の規範となっているもの
所有者名: 平塚市

移築復原工事・管理棟工事施工(建築):西山建設株式会社
記念館:木造軸組平家建て195.11平方メートル
管理棟:重量鉄骨造平家建て120.11平方メートル
設計・監理:平塚市都市整備部建築課(現:まちづくり事業部建築住宅課)

解説文:	日英合弁の「日本爆発物製造株式会社」の支配人室として建設。
     木造平屋建で,ヴェランダやベイウィンドーなどが特徴。
     屋根は鉄板葺で,南東に塔屋を頂き,外壁はドイツ下見板張とする。
     創建当初の姿を良く残し,小規模ながら明治期の木造洋風建築の佳品と言える。

平塚駅から徒歩10分くらいの緑が多い「八幡山(はちまんやま)公園」にある建物です。
愛称は「八幡山の洋館」だとか・・・

公園の隣には広い「横浜ゴム」の工場があり、そこから移設されたものだそうです。
この横浜ゴムの敷地は、幾多の変遷をたどって来たわけだそうで・・・
詳しい沿革については、下記の平塚市の解説文をご覧下さい。

平塚に火薬の工場があったとは知りませんでした、後には海軍の管理下に置かれ「火薬敞」となる。

昔の会社や商店の名称は、何を扱っているかというのが一目瞭然で分かり易いです、・・・しかしながら、「爆発物」というのは、今見るとゾッとしますね。(^_^;

海軍火薬廠がおかれたことにより、その後の軍需工場進出の礎となり、平塚市の工業の発展に大きく影響を与えた。 しかし、平塚が空襲を受ける一因ともなってしまう。

この建物は関東大震災や戦災にも生き残り、日本爆発物製造株式会社時代の施設のうち現存する唯一の遺構となった。

建物の特長は、なんといっても塔屋でしょうね。 当時の入り口は、ベランダ側にあったようです。
ベランダと塔屋を見るアングルがやはり一番美しいですね。

また、主屋のアーチ型の窓やその上下に施された装飾、北側の壁に設けられたベイウインドウ(出窓)なども美しいです。

このピンクの可愛らしい外壁の色は、移設時に当時の姿に復元されたものだそうです。

2009年の3月に記念館として開館し、一般公開しながら平塚市民サークルにも貸し室として開放されているとか。

◎沿革

 明治37年(1904)2月〜38年(1905)9月の日露戦争で日本海軍が使用した火薬(砲用発射無煙火薬)の全量は、当時、日本と同盟関係にあった英国からの輸入に依存していました。
戦後、日本国内では無煙火薬国産化の必要性が痛感され、国内に火薬製造所を新設すべき、との議論が海軍内部よりわき起こります。

その火薬製造所建設の地に平塚が選ばれます。
平塚に火薬製造所が建設される背景には、江戸時代、中原を中心にかつて江戸幕府が管理した御林(おはやし)が16か所、126ha余にわたり存在し、明治以降、跡地は「御料所」となって帝室林野局の管理する広大な国家管理の遊休地がありました。

① 大規模な火薬製造所を建設するための工場建設にみあう用地が容易に確保できたこと、
② 明治20年(1887)の東海道線開通によって火薬製造に係る原材料と製品の輸送に利便な地であったこと、
③ 軍都横須賀に近いこと、相模川や金目川に囲まれ良質な地下水が比較的容易に確保できたこと、
  などが理由とされ、平塚が火薬製造所建設の地に選ばれるという歴史的事情がありました。

 明治38年12月「日本火薬製造株式会社(明治40年「日本爆発物製造株式会社」と改称)」が、日英同盟のもと日本海軍とアームストロング社、チルウォース社、ノーベル社の英国三社の合弁会社として平塚町と大野町に跨る官有地と民有地を買収した38万坪(後に42万坪に拡大)の地に本社ロンドン、支店平塚として、資本金総額1万ポンドで設立されます。

 製造所の建設は、英国ノーベル社よりカーリが工場建設監督、ウィルソンが補助として来日、また日本海軍技師市岡太次郎などによって開始され、工場施設の完成は明治40年末ごろといわれます。

その中で本建物は、英国人支配人の執務室あるいは住居として建設された、といわれます。

また明治44年(1911)に一度火災で焼失したとされ、再建されたともいわれますが、平塚市内では唯一、神奈川県内でも数少ない明治時代の洋風建造物です。

 大正8年(1919)、会社は日本海軍が全施設を買収し、4月、海軍火薬廠として発足します。
火薬廠の発足後、本建物は高等官クラブ(正式名称:横須賀水交社平塚集会所)として使用され、昭和20年(1945)8月の終戦とともに火薬廠が廃廠となって、その使命を終えます。

 戦後は、米軍により接収され、昭和25年「横浜ゴム株式会社」が、本建物を含む一部敷地の払い下げを受け、主に応接室や会議室として使用されました。

平成16年、本建物は横浜ゴム株式会社より平塚市へ無償贈与され、八幡山公園に移築され、今後の保存と活用のため復元されました。

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                                                                        ーー平塚市HPより転載ーー


                                 (浅間町 2012年4月17日)



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神奈川・小田原 / 「ういろう」と「小田原宿なりわい交流館」



●「ういろう」

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このお店は、小田原宿を紹介するTV番組などで取りあげられていますから、お馴染みでしょう。
「外郎=ういろう」は、この家の苗字なのだそうです。

私としては「ういろう」は名古屋のものだと思い込んでいたので・・
                 (♪白・黒・抹茶・小豆・コーヒー・柚子・さくら〜〜 Ww)
小田原で「ういろう」?!って、ビックリです。

日本全国にお菓子のういろうはあるようで、どこが発祥ってハッキリしていないんだそうです。

このお店は、元々は腹痛などに効く薬を製造・販売していた。
ここから東海道を西へ行くには、厳しい箱根八里越えがあるので、昔の旅人は事前に薬を買い求めたのでしょう。

各地への売り込みのプロモーションに、菓子のういろうをつけて売り上げに貢献したとか・・・

・・んでもって、お腹の弱い歌舞伎役者が、ここの薬を飲んで調子が良くなったので、
      歌舞伎の演目「外郎売り」を上演。 今で言えば、抜群のプロジェクトですねぇ・・!

入り口を入ると、正面には「ういろう」だけではなく、わらび餅やら練切りなどの菓子が並び、
本来のお商売だった薬は、ズズーッと脇におかれて、対面販売されていました。
店内には「外郎博物館」があり、製薬の資料が展示されているそうです。

お城のような建物は、開業当時からこのようだったそうです。
                        小田原のPRに努めていたのでしょうか・・

なお、店舗内の天井は折り上げになっていましたが、撮影は許可して戴けませんでした。


小田原市内を通る旧道、つまり国道一号線沿いに、城かと見まごうような堂々とした店舗を構える店がある。
小田原名物の「ういろう」を売る、その名も「ういろう」という薬屋兼菓子屋だ。
菓子のういろうは説明するまでもなく、よく知られたういろうだが、ここでは薬の「ういろう」(正式名は「透頂香」)も調剤・販売しているのだ。

店内は菓子を売るコーナーと、薬局コーナーに分かれており、薬局には薬剤師も常勤している。
もっとも、ここで調剤するのは「透頂香」などういろうに伝わる漢方薬のみで、一般的な病院の処方箋などは受け付けていない。

そもそも「ういろう」とは何なのか。そこが問題である。
ういろうを経営する外郎家(または宇野家)の始祖は、陳延祐という中国の人物である。
陳家は支那台州(現中国浙江省)で当時既に千四百余年も続いていた公家の家柄だ。
延祐は元の順宗皇帝の頃、大医院並びに礼部員外郎(れいぶいんがいろう)という役職にあったが、元が明に滅ぼされると二朝に仕えることを恥じて日本に渡った。正平23年(1368)のことである。

延祐は筑前博多に入り、官職名の一部をとって、更に官職名と間違えられないよう読み方も変えて、陳外郎(ちんういろう)と名乗るようになった。
医術卜筮(いじゅつぼくぜい)に詳しかったことから、将軍足利義満に再三に渡って京に招かれたが、遂に京に上ることを果たさず剃髪して帰依した。

その後、息子の大年宗奇が義満の招きに応じ、外郎家は後小松天皇の時代に京都に移った。
朝廷の典医並びに外国信使の接待及禁裏や幕府の諸制度顧問となった宗奇は、幕府の傍らに邸宅を与えられ、手厚く保護された。
後に宗奇は朝廷の命で明に一時的に戻るが、その際に霊宝丹という薬の処方を持ち帰った。

その効能は広く知られ、当時、貴紳はこぞってこの珍薬を求め、冠の下に入れて持ち歩いていた。
冠の隙間から取り出しては服用することが流行ったが、夏の暑い折に冠の中に薬を入れておくと、頭の熱で薬の表面が溶けて香りを発したため、時の天皇より「透頂香」(とうちんこう)の名を賜った。
頂(頭)から透して香る、という意味だ。と同時に、外郎家で作られる薬の意で、透頂香は「ういろう」とも呼ばれるようになった。

宗奇の孫(外郎家四代目)の祖田は徳が高く非凡であったため、時の将軍足利義政に重用され、祖田のふたりの子のうち、長兄の定治(五代目)を足利氏の祖籍である宇野源氏の世継とし、十六菊と五七桐の家紋を与えた。
そのため、定治以来、外郎家は宇野姓も持つようになり、今も外郎/宇野家では菊桐の紋を使用している。
その定治は永正元年(1504)に北条早雲に招かれて小田原に下り、「陳外郎宇野藤右衛門定治」と名乗り、菊桐紋を門戸に冠した豪勢な八棟造りの家屋を建てて住まわった。

屋根を幾重にも巡らせた八棟造りの建物は、幾度となく倒壊や焼失の憂き目に遭ってきたが、外郎家の子孫は定治の遺言を守り、その都度は建て直し続けてきた。
関東大震災(大正12年)以降、しばらく仮店舗の時代が続いたが、平成9年になって現代の八棟造りの建物が再建された。
その際に発掘された古い皿などは、外郎家に受け継がれてきた貴重な資料や道具類と共に店の奥にある明治18年(1885)築の蔵の中で展示されている(平成17年夏より一般公開)。

話を500年前に戻そう。小田原での外郎/宇野家は北条氏から特別の知遇を受け、莫大な家禄も与えられていた。八代目光治の頃、豊臣秀吉による小田原攻めが始まり、光治も小田原の陣中軍に加わって籠城した。

小田原落城後、秀吉は北条氏の一族家臣を全て小田原から追放したが、外郎家に限って「誠に由緒深き家柄であるから、城下に留まり存続するように」と命じた。
以来、外郎家は野に下って医薬に専心するようになったという。身分は商人となったものの、その後も外郎家は歴代の小田原城主に手厚く保護されたという。

江戸時代の浮世絵などに見られる「ういらう」とは、外郎家が小田原で一般に販売していた薬の透頂香のことである。
また、一部の浮世絵に見えるように、外郎家の大店の内には狩野元信の筆による虎の絵が飾ってあったことから、ういろうは「虎屋」とも呼ばれることもあったという。

東海道を往来する諸大名はもとより、庶民もこの薬を求めて道中の常備薬や土産としたことから、ういろうは諸国に知れ渡っていたが、歌舞伎の二代目市川団十郎が登場する有名な逸話が、更にういろうの名を広めた。

                                  ーーHP「和菓子街道」より転載ーー


●「小田原宿なりわい交流館」

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小田原市内にある、名産品や老舗を巻き込んでの「街かど博物館」の中間点にある施設。

昭和7年(1932)に建てられた旧網問屋を再整備した建物で、出桁造りになっています。
ここでひと休み。お茶もいただけます。

この他にも、まだまだ梅干しや蒲鉾、削り節などの老舗に伝統建築を伝える建物が残っていますので、
小田原の旧東海道を中心とした市内を巡るのも楽しいですね。


私は、残念ながら時間切れになってしまいましたが、日々のつれづれに、また食材を求めがてら訪問してみることにしましょう・・・



                             (本町1丁目ほか 2012年4月17日)

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大分・日田 / 日本丸館(にほんがんかん)・岩尾家住宅



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国登録有形文化財(平成15.01.31)

名称: 岩尾家住宅(旧日本丸製薬所)主屋
(いわおけじゅうたく(きゅうにほんがんせいやくしょ)しゅおく)

年代: 大正後期(1912-1925)竣工/昭和初期(1926-1988)増築
構造及び形式等: 木造3階建、瓦葺、建築面積171㎡
登録基準1: 国土の歴史的景観に寄与しているもの
解説文:伝統的な町並みが残る豆田上町の中央にある薬局。
    主屋は大正後期に建てられた2階建,塗籠の町家で,昭和初期に3階の望楼が増築された。
    正面1階右端には唐破風の屋根を飾り,2階には銘木を多用した大広間を造る。
    「豆田の天守閣」として市民に親しまれている。
     *他に明治初期建の離れ、明治後期建の土蔵が登録文化財に指定されている。



日田・豆田上町通りの中央に位置する建物。

向かい側は「まちの駅」で、土産物屋や食べ物屋さんが集まっているところなので、
これも、観光地によくあるこけおどしのナンチャッテ天守閣だろう〜と思ってました。
壁にデカデカと「日本」なんて書いてあるし・・・

近寄ってみたら、どうもそんな感じじゃなかったんですね〜

調べてみたら、長い歴史のある薬局で、国の登文にもなっている建物でした。

さすがは、重伝建地区の豆田町、大変失礼しました!!m(__)m


日本丸(にほんがん・にっぽんがん)の原料は、牛黄(ごおう)・麝香(じゃこう)・羚羊角(れいようかく)・蟾酥(せんそ)・熊胆(くまのい)・真珠(しんじゅ)の動物漢方と人蔘などの薬草を使用。

原料を石臼でひき、すり合わせ小さく丸め、朱色に色づけし、乾いたものを保存かめに入れ、仏前で薬に使った動物のたましいを供養したのち販売していたとか・・・。

主用効能は、熱病・風邪・腹痛・下痢症・霍乱・赤痢・コレラ・疱瘡・麻疹・吐くだし・中厚・悪心・胃病・肺炎・肋膜炎・呼吸器病・腎臓炎・心臓炎・心臓弁膜異常・胃痙攣・黄疸・神経痛などだそうです。

すごい効き目・・・当時の宣伝文句が

  ・ふしぎによくきく 日本丸
  ・火の用心。病の用心に日本丸
  ・のむすぐきく 天下の名薬
  ・心臓と大熱には一等よくきく
  ・色々のんだが やっぱり日本丸。のんだ!ねた!おきた!なおった日本丸

今なら「個人の感想です」「効き目は個人によって違います」ってただし書きしないとダメね(^^)


◎日本丸の歴史

 創業は江戸末期・安政2年(1855)掛屋を営んでいた14代半蔵が、たまたま岩尾家に300年来伝わる家伝薬に目をつけ、薬種屋「伏見屋岩尾古雲堂」を開業し、また「伏見屋百貨店」を営業する。

その後、明治20年(1887)15代昭太郎がその家伝薬に朱色をかけ、日の丸をイメージする「日本丸(にほんがん)」(心臓と熱さましなどの特効薬)として、販売を開始する。
効能に加え、ユニークな宣伝方法で爆発的な売り上げをしめし、東京・大阪・京都・名古屋・札幌・朝鮮・満州に支店を開設し、ハワイ・ブラジルにまで販路を広げる。

戦中には、「日本丸」を慰問袋に入れ、戦地に向かったというエピソードも残っている。
昭和18年には国にゼロ戦を1機寄付するほど莫大な富を築いた。
しかし、時代の波により原料仕入れ困難となり、
昭和40年代に製造を中止し、その90年余年の歴史に幕を閉じた。
その後も薬販売のみ続けていたが、平成3年秋大型台風19号が日田を襲い、最上階の銅版などが飛び、大損害を受けたため修復し、この機会に平成5年3月資料館「日本丸館」をオープンすることとなった。

◎建物について

江戸時代から昭和初期にかけて増改築を重ね、展望楼を持つ現在のかたちとなったため、入り組んだ迷路のような間取りになっている。(平屋建て→2階建て→3階建てに増築)

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入母屋、平入の巨大な主家を有する木造4層3階建ての建物である。 母屋2階の大広間は明治後期の建築で、本座敷24畳、控えの間8・5畳、奥の間は33畳(奥の間はギャラリー連として使用中)の広さを要す。 廊下は松の1本造り、長押は杉の1本造りで継ぎ目がなくめずらしく、大広間から眺められるように造った庭園や中庭も見ることが出来、当時の商家の華やかさが見受けられる。 展望楼へあがると、日田の町並みが一望でき、「豆田の天守閣」とも言われている。                                     ーー日本丸館HPより転載ーー


                                (豆田町 2011年10月25日)

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大分・日田 / 原次郎左衛門味噌醤油蔵



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 「原」の名前が歴史に登場するのはおよそ800 年以上も昔のことです。

筑後国原村、現在の福岡県浮羽郡といいつたえられています。
私どものルーツをたどることができるのはありがたいもので、歴史を通してご縁をいただくことも少なくありません。

 祖先の中には、『平家物語』に登場する者、足利尊氏や毛利輝元に仕えた者、天正の遣欧少年使節団に加わった者もおります。

幸いにして、多くの資料なども残っていることから、それぞれの職業や身分を知ることができます。
二千町歩もの土地を支配し、今でもその名前が町名に残っている領主もいれば、雪舟の後継者として作品が国宝にまでなった絵師雲谷等顔も。

少年使節団に加わった原マルチノは16代前の直影のフタイトコにあたり、彼の演説が日本で最初の活版印刷によって本となり出版されたという史実も残されています。

 江戸から明治にかけて筑後吉井小向村庄屋であった原家も、明治20年代に日田の隈町で製菓業を営むようになり、明治32 年(1899)から現在の地で味噌・醤油・清涼飲料水などを製造するようになりました。
屋号の『まるはら』とともにある当主『次郎左衛門』の名前は、当代が先祖からの名前を受け、平成7年から正式に名乗らせていただいているものです。

                             ーー原次郎左右衛門味噌醤油蔵HPより転載ーー

日田(ひた)の隈町(くままち)エリアにある「原次郎左衛門蔵」は明治32年(1899)創業。

「原家」は現在23代を数え、日田の町から醸造元が姿を消していく中にあって、昔ながらの味を伝え続ける日田の代表的な味噌・醤油蔵。

味噌・醤油の製造工程やラムネの工場見学もできます。
ラムネもやっているというのがユニーク。
明治時代にはニッケ水やお菓子を作っており、その後明治32 年から醤油や味噌の製造とともにラムネの製造も始めたのだそうです。

日田の町は、古くから味噌・醤油、また酒の醸造元が栄えた町として知られていたそうです。
日田盆地独特の寒暖の差の激しい気候、三隈川の清らかな水、深い緑に囲まれた澄んだ空気など、醸造に適した諸条件がすべてあったからだとか。

現在の母屋は、火災により消失した旧母屋を明治43年(1910)に建て直したものだそうです。

代々、趣味で収集された郷土玩具が、店舗2階「九州郷土玩具館」で見られます。

もちろん、郷土玩具コレクターとしては、ちゃんと見てきました!
きじ車や竹田の姫ダルマ、太宰府の「うそ」、博多人形などが展示されていました。


九州の甘めな醤油は苦手なんですが、ここはそれほど甘ったるくないようでした。

ここから南側を流れる三隈川(みくまがわ)では、夏には鵜飼いが行われるそうです。
鮎を使った「鮎魚醤」はチョッと興味がありました。「いしる」大好きなんで・・・


                                (中本町 2011年10月25日)



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熊本・熊本 / 長崎次郎書店



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国登録有形文化財(平成10.01.16)
熊本市景観形成建造物

名称: 長崎次郎書店(ながさきじろうしょてん)
大正13年(1924)竣工
設計:保岡勝也
施工:不詳
構造及び形式等: 木造2階建,瓦葺,建築面積175㎡
登録基準1: 国土の歴史的景観に寄与しているもの
所有者名: 長崎次郎株式会社
解説文:旧城下の商人町の中心近くに建つ。木造2階建で,外壁は煉瓦で固める。
    設計は保岡勝也。軒の出の小さい屋根,障壁風の壁の上部に設けた小屋根,軒廻りの装飾,
    2階の連続する変形のアーチ等に特徴がある。
    市内有数の古い書店として広く知られた建物である。

新町周辺は、済南の役後、町が復興するに連れ、侍町・町人町から商工都市へ変遷し、吉田松花堂、長崎次郎書店、文林堂などの特徴的な建物が造られ、現在にいたっても、城下町の面影が残っています。
しかし、近年マンション等の中・高層建築物が多く建築され、城下町としての趣が失われつつあります。
この建築が醸し出す特徴的な色使いや模様(中国風)などは、深い印象を与え、吉田松花堂とともに地域の住民のみならず、多くの市民にとっての熊本の原風景となっています。

                                ーー熊本市HPより転載ーー

「長崎次郎書店」って珍しい店名は、ズバリ!創始者の名前だそうです。

◎会社沿革
明治7年(1874):長閏]此聞芦集鞠生まれ・大正2年歿)、熊本市新町に書籍及文具商として
        「長崎次郎書店」を開業する。
明治10年(1877):西南戦争の戦火に罹り全焼。ただちに復興し、開店。
明治22年(1889)1月10日:初代長洩佇拭塀派磧δ閏]困陵椹辧18歳で熊本市上通町に長崎次郎書店支店を開設。
明治44年(1911)8月23日:会社組織となり、新町を本店とし上通町の支店を「合名会社長崎次郎書店支店」と称す。
         ーーー以下略(長崎書店HPより)ーーー

緑色の瓦にスクラッチタイルの壁、2階の寺院の高欄風手すり、軒下には中国風文様と、和・洋・中が混ざったような、なんとも不思議な異国情緒が漂います。

設計した保岡 勝也(やすおか かつや 明治10年(1877)−昭和17年(1942))は岩崎久弥が社長を務める三菱社(現・三菱地所)に入社。三菱の丸の内赤煉瓦オフィス街の設計を行った。

1912年(明治45年)三菱を退社、その後、東京市京橋区銀座に「保岡勝也建築事務所」を設立。

埼玉県・川越市の「川越貯蓄銀行本店(現存せず)」「第八十五銀行本店(現・埼玉りそな銀行川越支店)」「山崎氏別邸(現存)」「山吉デパート(現存)」を設計した。これを川越4部作と呼ぶそうです。


このラーメンどんぶりにあるような文様は、メアンダー(雷文、またはギリシャ雷文)と呼ぶそうで、トルコ南部を流れるマイアンドロス川(メアンダー川)の名に由来し、蛇行する川の流れを現しているのだとか・・・
中国独特の文様かと思いましたが、ギリシャ・ローマ時代に遡るのだそうで、ラーメンに惑わされてはいけませんね。(^^)

熊本の広いアーケード街に大きな支店があるそうで、新町にあるここが本店らしいです。

剥がれてしまっていますが「大蔵省 熊本県官報販売所」と「教科書取次供給所」という古めかしい看板もそのまま・・・


                              (新町4丁目 2011年10月24日)


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