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網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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ラスコー(その4)

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L:ラスコー(その4)
                   ☆
ラスコーの洞窟には大型動物ばかり描かれていて、小動物どころか人物・人間は描かれていません、たった一つの例外を除いて。
たった一つの例外というのは、縦穴に描かれているのですが、これは他の洞窟のどの絵よりもストーリーをもっている気配があります。10日にはこの絵のコピーをお配りして、みなさんにじっくりそのストーリー、意味を考えてもらうことにしたのですが、なにか面白い解釈が出来たらぜひブログで報告してください。ブログには著作権の問題とかを回避するためボクのスケッチでご紹介しましょう。
この絵の古典的解釈はブルイユ神父の「おそらく、狩猟の最中に起きた死亡事故を記念する絵」というのです。「おそらく」は不可欠です。大きな野牛(バイソン)が毛を逆立てて立っています。槍が野牛のお尻からお腹へ突き抜けるようにささっています。その刺さっているあたりから野牛の内臓がはみ出しています。野牛はその苦痛に耐えるかのように四つの脚を踏んばりあごを引いて角を突きだしています。その角の突きだしたところに、一人の男が倒れています。脚をまっすぐ硬直させるように突っ張り、両手を拡げ、掌を開いています(人物の描写はあとにまわします)。その下に鳥がいます。足が異常に長く、これは足ではなく杭のようなものかもしれない。とすると鳥は生身の鳥ではなく飾りのようなものかもしれない。そう思わせるほどに単純な線で鳥は描かれている。男の脚の下方、鳥の後方に、槍の先のようなものが描かれています。そしてこの倒れている男と鳥の左方、その男と鳥に尻を向けて犀が「静かに遠ざかって」行きます。犀は、自分を脅かした野牛を撃退して静かに去っていき、すでに男は野牛との闘いに破れて倒れている図だというのです。
足がちゃんと描かれていない尾もない鳥は、しかし、解釈しづらいらしくこれは「逆棘(サカトゲ)がついている土台のある杭」で、「アラスカのエスキモー(原文のまま)とヴァンクーヴアーのインディアンたちの葬式用の杭を連想させると神父は解釈しています。つまり、死亡事故を描いた一種の葬送の図というのでしょうか。
野牛の臓物は解読はできないが、一種の徴でヘブライ文字ではないかという説や、キルヒナーという学者は、ラスコー文化とシベリアのヤクート族の文化との相似性に注目し、ヤクート族の供犠で、牡牛の前にラスコーの鳥とよく似た棒の先端に鳥の彫刻をつけた三本の杭をたてて、それが犠牲の獣が天上へ行くべき道になるというようなシャーマンの儀式をやる、それと結びつけて解釈しているそうです。
牡牛の前に倒れている男の躯が硬直しているのもシャーマンの失神状態の姿・特徴を表しています(こういった議論はバタイユの本に紹介されています)。
倒れている男は、鳥の顔をしていて、キルヒナー説ではシャーマンが鳥の仮面を被って失神しているという解釈になります。ブルイユ神父は、この鳥頭のところが解釈しきれないでいました。
しかし、キルヒナー説では犀は別の絵として野牛と男の構図から外れてしまいます。
たしかに、野牛+男+鳥の杭の線と、犀の線とは、線の質が違います。犀は野牛より太い線で描かれているので、別の機会に、つまり時期はずれて描かれたと考えられます。しかし、この狭い竪穴の壁に、すでに野牛と人間の死(あるいは仮死)の姿というドラマチックな情景へ犀を加えたのにはそれなりの理由があるはずで、なぜ犀がそこに描かれているのか(書き加えられたのか)は、考えないわけにはいかないと思います。
犀のピンとあげた尻尾の先(厳密にいえば、その先は垂れ下がっていて)肛門の近くに二個づつ縦に並んで、対になった計六個の黒い点が描かれています。縦にちょっと長い点で、いかにも尻尾から滴か糞が垂れているという感じなのですが、これもなにを意味しているのか。
いろいろ謎の多い、それだけに興味深い絵なのです。
最も興味深く注目すべき点は、二点あります。一つはこのラスコーに描かれている唯一の人間はラスコーの壁画のどれに比べても、あまりにも稚拙な人物像だということです。一緒に描かれている野牛と比べても、いかにも拙いのです。(野牛はブルイユ神父やバタイユが、ラスコー絵画全般にみられるすばらしい技法として「歪んだ遠近法」と呼んで絶讃した方法で―画像は側面から描いていながら、足とか耳とか角とかを四分の三正面に描いたり、足指も開いているように描いたりする方法で描かれ、瀕死の図にもかかわらず生命力に溢れています)。その人物はあまり勢いのない線で頭から足の先まで、輪郭のみ辿られていて、脚と手は一本の線です。開いた掌は指だけで描かれていて、しかも指は四本しかない。まったく観察力ゼロの絵です。すぐ横の野牛が単純な線描にもかかわらず生き生きとして姿を描出しているのに、なぜ人間はこんなに稚拙なんだろう、これはよく考えてみる必要があります。
もう一つの特徴は、この倒れている男のペニスが勃起しているというところです。この問題は、ラスコー人の性=セクシャリティ観の問題へと展開するはずで、これについてはもうちょっとあとで考えたいと思います。
槍を腰に貫かれ内臓を露出した野牛とその横に倒れる人間、傍らに立っている鳥、そしてそれを尻目に去っていく犀の構図から、どんなストーリーを考え出すか、これはラスコー人は答えてくれないので、現代のわれわれは、いろいろなストーリーを考えていいと思います。そのどれもを、われわれは楽しむことができ、そのストーリーを考え出した人にとっての意味を理解し受容することができます。
しかし、人物はなぜ稚拙にしか描かれないのか、という問題は、もう少し深いレヴェルで、彼らの生きかたの問題としてそれがわれわれにどんな問題を投げかけるか、論理化する必要があるのではないか。
この時代、人物の彫像はいくつも例があります。女性像で(その一つ、ヴィンドルフのヴィーナス像の模造を、H(埴師)の集まりのときお持ちしたのを憶えていてくださいましたか)、胸や臀部腹部を強調し、母性を讃える女神像というふうに解釈されています。これらの彫像に共通することで、ボクが注目したい特徴は、この女性たちの顔、目鼻立ちは造形されないということです。
現代のわれわれは、まず人物像というと顔のなりたち(どんな顔立ちの人かということ)を気にしますが、原始の人は、顔や表情の造作はそんなに注目していなかったようです。
「人間」を強調するためにはむしろ仮面を冠らせたといってもいい。バタイユの本にも出てきますが、当時の別の洞窟などに見られる人物像(絵画、ほとんど線刻)は、みんな獣の頭をし(仮面をつけていたのか、そんな姿を想像したのか)四肢・足腰の具合も動物風です。
どうやら、ラスコーの人たち原初の人類は、動物=獣に対して、現代のわれわれとはまったく異なった共感というか感情を持っていたようです。共感と、同時に畏怖の念とでもいうべきもの。これは、バタイユ始めラスコーの研究書から学んだことですが、人類がその後「神」のようなものを立てて、聖なる対象として崇め拝むようになる以前、そんな人間よりはるかに秀でた能力の持ち主としてラスコーの時代の人びとは、動物=獣をみていたということです。
力も嗅覚も聴覚も視力も、獲物や食べ物を摂る能力も、走る速さも、なにをとっても自分より秀れた存在。のちの「聖なる」という概念は、ラスコーの人びと、原初の人類にとっては、「動物」という存在の領域のなかに宿っていたのでしょう。
そういう卑小な非力な存在たる人間自身を、心をこめて描く必要を感じていなかったことが稚拙にしか描かない一つの理由といえないでしょうか。(だから、子供を産む女性たちは別だったのです)。
そんな卑小な拙い存在がせめて少しでも聖なる力を帯びることができるようにと、自分の頭に動物の仮面をつけたりもしたのでしょう。
人間が「神」をみつける前(「神」という概念を認識する前)の時代、「聖なるもの」をこうした大きな動物=獣にみていた、その動物たちに対する畏怖と驚異の心のありかたが、あれだけの生命力溢れる動物を描くことを可能にしたといえます。
つまり、ここには人類が「神」と調和して生きようとする「古代」の世界との関係意識以前の、意識の姿をみることができます。「古代」よりはるか以前、自分を取り囲む「世界」を初めて認識する意識のありかたです。(つづく)

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