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松尾芭蕉と近江(一) 〜 義仲寺 〜

行く春を 近江の人と 惜しみける
漂泊の歌人・西行(1118〜1190年)に憧れ、旅に生きた俳聖・松尾芭蕉(1644〜1694年)は、
近江の地と人を愛し、「行く春を〜」の句を詠んでいます。
滋賀県には松尾芭蕉の足跡が多く残されており、折に触れてご紹介していこうと思います。

わが家から歩いて15分ほどのところに、芭蕉翁の御墓所である『義仲寺(ぎちゅうじ)』があります。
義仲寺の名の由来は、ここに木曽義仲(きそよしなか)の御墓所があることに縁ります。

治承四年(1180年)、信濃にて平家追討の軍を挙げた木曽義仲(源義仲)は、寿永二年
(1183年)五月、北陸路・倶利伽羅峠(くりからとうげ)において平維盛率いる十万の
平家軍を撃破。七月には京都に入り、平家を西へ追いやり、都を支配下に治めた。
ところがその後、後白河法皇との確執が表面化。朝敵とされた義仲は、源頼朝が差し向けた
源範頼・義経の軍勢に宇治川の戦いで敗れ、近江国粟津ヶ原(あわづがはら)で戦死した。
時に寿永三年正月二十日、その終焉の地に建てられたのが木曽塚、すなわち義仲寺である。

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義仲寺の山門と門前の通り。

JR膳所(ぜぜ)駅から徒歩10分ほどのところ、目立たない小さなお寺さんです。
昔は門前まで琵琶湖のさざなみが打ち寄せていたと言いますが、現在は埋め立てが進み、琵琶湖岸
までは500メートルほどの距離があります。

木曽義仲亡き後、その御墓所のほとりに草庵を結び、菩提を弔うひとりの尼僧がいた。
この尼こそ義仲の愛妾・巴御前(ともえごぜん)の後身で、尼の没後、この庵は「無名庵
(むみょうあん)」と呼ばれた。
戦国時代になって寺は大いに荒廃したが、貞享年間には大修理を経て再興が成り、時を同じく
して松尾芭蕉がたびたび義仲寺を訪れるようになり、無名庵をその宿舎として滞在した。

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(写真上)木曽義仲公御墓所/(写真下)松尾芭蕉翁御墓所

芭蕉翁は義仲寺に祀られた古の武人・木曽義仲を敬愛し、生前から「骸(から)は木曽塚に送るべし」
と遺言していました。
元禄七年(1694年)十月十二日、芭蕉翁は大阪で亡くなり、遺言どおり木曽義仲の墓所と並んで
葬られました。
旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る
享年五十歳、旅に生きた芭蕉翁らしい辞世の句です。

彼がなぜこれほどまでに木曽義仲を敬愛したのか、その理由ははっきりしませんが、木曽の山国育ち
で自由奔放であった人柄や、側近たちを思い遣る逸話に惹かれたとも言われています。
さらには栄華を極めた者の滅び行く様に同情の念を強く持っていたようで、『奥の細道』では奥州藤原氏
三代の栄華の跡を偲び、次のような句を詠んでいます。
夏草や つはものどもが 夢の跡
歴史の敗者への同情の念。
その中でも激動の時代を駆け抜けて三十一歳で逝った若武者・木曽義仲に、とりわけ惹かれるところが
あったということなんでしょうね。

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木曽義仲と芭蕉翁の墓所は、古木をはさんで隣り合わせにあります。

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木曽殿と 背中合せの 寒さかな
芭蕉翁の門人、又玄(ゆうげん)の句です。
ふたりの墓は狭い境内の中、まさに隣に寄り添うように建っています。

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義仲寺の境内には大木と言うほどではありませんが、何本かの芭蕉の木が植えられています。
広くはないですが落ち着いた雰囲気の境内は、周囲の喧騒からは切り取られた様な空間です。
お時間があればぜひ訪ねていただきたい滋賀の名所ですね。

えっと・・・義仲寺さん、本当にちっちゃなお寺で、30分もあれば十分に見られる広さです。
お出かけの際には、近くの三井寺か石山寺なども観光の予定に入れられるとよろしいかと思います。
この前ブログでご紹介したミシガンに乗られるのも良いかもしれません。
http://blogs.yahoo.co.jp/ko0214/39060444.html

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