友人 その七 終章 (別れ)
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友人その六(遊び)からの続き 私に仕事が重なり、スタッフを揃えて事務所を広くしなければならなくなり、事務所移転の候補地をあれこれ探し、漸く良い所が池袋で見つかった。思ったより広い所だったので牧師に、出版社を作りたいのだったら机を置いても良いよと声を掛けると、かなりその気になり真剣に考えてくれ、その事がこちらの意に反して「池袋では駄目だ。青山辺りに探した方がいい」と押し切られ、池袋の契約の判子を押す直前にキャンセルして青山を探したのだった。漸く池袋の半分ほどの広さしか無いが良い所が見つかり、そこへ9月に移ったのだがどうしても机が3つ入らない。入らなければ牧師に悪いと思い、散々苦労した挙句何とか入れる事が出来てホッとした。後は、牧師を待つだけだと、牧師と肩を並べて仕事をするその日を楽しみにしていた。その頃になると、牧師は私にとってかけがえの無い友人の一人となっていた。 私は牧師が花屋として映画に出た事もあったので「何しろ花屋の経験があるんだから、早く花でも持っておいで」とからかうと、そのうち行きますよと言っていたが、1ヶ月経ち2ヶ月が経っても来ないので、私はとうとう痺れを切らし「何をしてるんだ。いい加減にしろ、来ないのならば机は捨ててしまうぞ」と文句の一つでも言ってやろうと電話すると、電話に出ない。拍子抜けしたが、おかしいな〜夜の11時頃に自宅に居ないはずは無いのだけれどと思いながら、何かの会合があったのかも知れないと思い、次の日の目を覚ました頃を見計らい朝の11時頃に再度電話をしたが、牧師は出ない。午前中に居ないのは何か変だと思い、これはひょっとすると何かあったのかもしれないと牧師専用の電話じゃなく、今度は家族の電話に掛け直すとお母様が電話に出られて、いきなり「○○は、死んでしまったんですよー、小林さん! もう○○には会えないんですよー」と言われた。ビックリ仰天した私は「うそーーー!」と言うのが精一杯で、何が何だか判らなくなり事務所の所員の手前もあったので、事務所を出たり入ったり繰り替えしていた。 考えられるのは、とにかく三人で飲んでいた編集者に電話して教えて上げないといけないと思いつき、電話する事にした。編集者に牧師が・・・と言葉を発した途端に嗚咽に変わり涙が溢れ出て止まらず、道端にしゃがみ込んでしまい、亡くなったと言う後の言葉がどうしても言えなかった。「どうしたんですか?どうしたんですか!小林さん・・・」と電話口で激しく言う編集者の声が遠くに聞こえて来たが、私はただただ泣いていた。電話で編集者はTVニュースで見たのでもしかすると、と思っていたと語った。その事が何を意味するのか多少不思議だったが、友人の死があまりにも突然の出来事で、その事を把握する事に頭と体が追いつかず、人生の儚さだけをおぼろげながら感じていた。 その日は一旦家に帰ったが、じっとして居られずフラフラと出歩き、気が付いてみるといつものスナックへ向かっていた。酒を飲んでも中々酔わず、歌も歌わずスナックでただひたすらメモ用紙に正円を書いて気分を落ち着かせようとしながら、バーボンのボトルを半分飲んで千鳥足で帰った。 私はいつでもそうなのだが、失ってみて初めてそのものの大きさを認識する自分の愚かさが悔やまれ、あの時こうしておけば良かった、あー言ってやれば良かったと悔やんでは泣いた。 以前、私の尊敬する建築家が亡くなった時、三日間泣き続けた事があり、四日目には泪の一粒も出ないので考えた。私は三日間位しか感情を持続する事ができないのだろうと・・・。 それに比べ今回の牧師の時は、一ヶ月あまりいつも涙ぐんでいた。 亡くなるつい一週間ほど前の夜中に電話が掛かってきて、韓国での詩集の出版が思うように進まないと嘆いていた。私が図面を書きながら話していると、すぐ判るらしく、人の話を聞いていないなと言って普段より早く電話を切ってしまった。 その電話が、最後となった。 牧師を亡くして、クヨクヨした毎日をおくっていると 「何をやってるんだよ、小林さん! しっかりしろよー」と、今でも牧師の励ます声が聞こえてくるが こちらはこちらで「何をやってるんだ。全く、冗談じゃ無いよ」と、言いたくなる。 今でも、まだ何処かで生きている様な気がして仕方が無いが、先日一周忌を前にお墓参りも済ませた。 この最後の記事を牧師の命日に奉げます。12月21日牧師没す 私にとって牧師は、大きな心の支えであり慰めでありました。
その事に感謝して牧師のご冥福を祈ります。 合掌 小林英治 |



