あおいうみ みどりのもり (12)
|
振動音をともなう小さな揺れは心地よく、目覚めかけた仁子を何度も眠りの淵へ引き戻した。 うっすらと目を開けても、仁子の目の前にあるのは柔らかな暗闇だけ。 体の向きをわずかにずらし、寝息に合わせて上下する夫の胸に耳を寄せると、確かな鼓動を感じた。 南原の腕と、肌触りのよい寝具に包まれた仁子は、まるで親鳥の羽の下でまどろむ生まれたてのひな鳥のように、安心しきって、また目を瞑った。 それを何度か繰り返しているうちに、ようやく彼女の意識もはっきりとしてきた。 カーテンの隙間から細く差し込んだ光が、振動に合わせて揺れている。 起き出す必要も感じないまま、仁子はベットを抜け出すと、カーテンの隙間から外の世界を覗いた。 外には、朝焼けにそまる空と、青々とした緑に覆われた広大な大地が広がっていた。 仁子は、空の赤みがだんだんと薄れていく様子を静かに見つめていた。 「ところで、ここは、どこだろう」 仁子はつぶやいた。 「ダウンズヒル? プロサーパイン?」 思いついた地名をとりあえず並べてみる・・と、ベットのほうから笑い声がした。 「プロサーパインに着くのは、明日の朝だよ」 ゴブラン織りのベットカバーに覆われたダブルベットの上で、南原が肘を支えに、わずかに体を起こしてこちらを見て笑っていた。 「おはよう。仁子」 「おはようごさいます」 仁子は微笑んで、呼ばれる前に自分からベットにもぐりこんだ。 南原の腕が仁子にまとわりついた。 「もう少し、こうしていていいか?」 仁子の頬に唇で触れながら、南原がねだるようにたずねた。 「仕方がないですね」 「おや、珍しいことを言うものだ」 めったに言えない台詞に、南原が笑った。 「だって、一日中座っていても、お尻が痛くなっちゃうじゃないですか」 「じゃあ・・・一日中、このまま・・・」 南原は誘うように、仁子の耳元でささやいた。 「えー・・・」 「だめ?」 問われた仁子は、くすぐったそうに笑った。 仁子にしても、今日だけなら・・・まあ、いいか・・という気持ちがないわけでもない。 いまだけは、特別。 そう、この列車が、終着駅に着くまでは・・・ あれから数日後。 仁子と南原は、GSPEこと、グレートサウスパシフィック急行の車内で、ふたりきりの時間をゆっくりと過ごしていた。 GSPEは、オリエント急行の流れをくむ豪華寝台特急で、『走るホテル』、『走る三ツ星レストラン』の異名を持つ。 ジェームス博士がくれたチケットは、キュランダ〜ブリスベン間のコミショナーズ・スイート、 いわゆる、一等寝台個室である。 コンパートメントの中は、列車の中とは思えない、豪華なしつらえになっていた。 個室内には、シャワーが完備されている。 部屋の内装は、ヨーロッパ上流階級風、ふたりが横になっているベットは部屋の横幅いっぱいのダブルサイズである。 列車の発車日時は、1週間と決めた2人の休暇の最終日なっていた。 始発駅のキュランダから、途中で小さな観光旅行も織り交ぜながらブリスベンまで行くのに3泊4日かかる。 「『ゆっくり帰っておいで』・・・か。ジェイムズ爺様に感謝しないとな」 「そうですね。でも、戻ったら、すぐに日本に戻る準備しないと・・・」 仁子は笑った。 列車の中で、仁子は不思議な感覚を味わっていた。 ホテル並みといっても、電車のコンパートメントだから、手狭といえば手狭である。 寝ても覚めても、いつでも南原が、仁子の手がすぐに届くところにいる。 食堂やラウンジへ行くとき以外はこの部屋にいて、訪れるものといえばお茶を運んでくれる給仕ぐらいだった。 なにもかも揃った部屋で、誰にはばかることなく、何をするでもなく、ただ一日中ふたりでゆるゆるとすごしている。 走っても走ってもあまり変化の見られないオーストラリアの広大な風景は、だんだんと時間の感覚を、 現実感を、仁子から奪いとっていく・・・ 「こんな・・・、感じかな・・・」 午後。南原の肩に頭をもたせかけ、後ろに流れていく車窓の風景を見つめていた仁子がつぶやいた。 「なにが?」 南原の指が、優しく彼女の髪を撫でた。 「・・・水槽の中の、イルカ・・・」 世界が滅びてしまって、自分と南原しかいない世界があったら、こんな感じだろうか? そのとき自分は悲しいだろうか? この人が傍にいたとしても悲しめるだろうか? (この人さえいれば、なにもいらない・・・ 研究も・・・自分さえも、いらない・・・この人の中に、自分も融けてなくなってしまえばいい・・・) そんな壊れた想いが仁子の理性と緩やかに浸食していく。 その毒を含んだ甘美な想いに浸ることを、仁子は、いまだけ自分に許すことにした。 ここは 彼女の『いつも』とは違う場所。 研究を・・自分をなくすのが怖くて、南原の手を振り払うようにして別れた『あのとき』とも違う。 (この日常とは隔離された空間でなら、少しぐらい自分をなくしても大丈夫・・・) 時間がきたら、列車は定刻通りに終着駅につく。 そして、仁子を無理やりにでも日常に引き戻してくれるはずだ。 (だから・・いまだけ・・・) 「ずっと、こうしていたいな・・・」 仁子は、まどろむように目を閉じた・・・。 (ずっと・・は・・・無理だろうな・・・) 仁子の滑らかな髪に指を滑らせながら、南原は思った。 列車が走り始めてからずっと、仁子はまるで夢の中にいるような顔で、幸せそうに南原の傍に寄り添っている。 そんな仁子の目を他に向けさせたくなくて、仁子を独り占めにしたくて、 列車が走り出してからずっと、南原は意識的に研究につながるような話題を避けてきた。 しかし、夢はいつか覚める。南原にしたところで、そんな無理はいつまでも続けられない。 今だって、仁子と話したい研究ネタがたくさんあるのだ。 (例えば、サー・ジェイムスのフルネームとか・・・) ジェイムス・J・ウィリアムズ。 みんながSir.をつけて呼ぶので、仁子はジェイムスがファミリーネームだと思っているようだが、 ジェームスは、もちろんファーストネームだ。 彼は、存命している学者のなかでならおそらく、オセアニアで一番多くの新種の虫を発見した者だろう。 彼は、3年ほど前に自主的に早乙女研究所にやってきて、研究所が気に入ったからと居ついてしまった。 研究所の食堂で食べることができるマーサの食事以外には何も望まず、悠々自適に好きなことをして暮らしている。 (かのウィリアム博士がまだ生きていると知ったら、仁子は腰抜かすかもな・・・ファンだから) でも、それは、もうしばらく南原の胸の中にしまっておくことにした。 なにも慌てて、仁子を現実に引き戻すこともあるまい・・・そう思った。 もう少しだけ、仁子を自分だけのものにしておきたい・・・ (仁子を抱きしめ続けて、このまま飛び立たせなくするわけじゃない・・ もう少しだけ・・・この列車が着くまで・・・それぐらいは、かまわないだろう?) こんなふうに何日も仁子を独占できるのは、今だけだろうと、南原にはわかっている。 普通の生活に戻れば、研究が・・森や生き物たちが、彼女の心の半分をもっていってしまう。 仁子を永遠に南原の腕の中に閉じ込めておくのは、不可能だ。 それこそ、世界が滅びでもしない限り・・・ (でも・・それは、だめ、なんだよな・・) 世界が・・・この世界にある森や生き物が、彼女を輝かしてくれる。 世界がなくなって、南原が仁子を手に入れたとしても、彼女は・・彼女の心は、南原の腕の中で死んでしまうにちがいない。 そんな仁子を見るのは、なにより南原自身が辛いだろう。 それこそ、泣き暮らすことになりかねない。 (だから・・・いまだけだ・・・) 「少なくても、あと2日はあるな・・・」 南原は微笑み、仁子にキスすると、つかの間の楽園で仁子を抱きしめた。 *** あおいうみ みどりのもり END ***
|






夫婦として、研究者として共に歩いていく二人にとってこの夢のようなひとときは大切な宝物として心に刻まれるのでしょうね。読み終えた時、二人の世界に引き込まれている自分がいました。そして思わずコメントしちゃいました。Somedayの続編が読めること、とても嬉しく思います。ありがとうございます。
2006/1/11(水) 午前 1:29 [ ナナホシ ]
ナナホシさま。コメント大歓迎です。いつも読んでくださってありがとうございます。プレゼントの中身は電車の切符でした。次の回は、『あおいうみ・・・』の余談。御伽噺風?です。
2006/1/11(水) 午前 8:46