無題
復興特区法案の成立 本日、復興特区法案が参院本会議で成立しました。
地に足の着いた復興を確保するため、また、その中には我が国の社会経済の課題解決につながるような先導的な復興を実現するために、我が国の法制度史上「最強の特区」を目指して立案に取り組みました。
政権及び民主党のあり方については、多くの問題がありますが、こうしたある意味復興の要となる法案を、当選一年未満の議員が立案に参画でき、そしてそれを委員会で採決するところまで取り組むことができるのは、当選回数至上主義に拘われない民主党の長所だと思います。(もちろん、ねじれ国会であるにしても与野党の健全な折衝を通じてもう少し早く提出できなかったのかとの遺憾な思いはありますが)
発災直後に党の対策本部に入り、昼夜を分かたず被災地の緊急支援要請に取り組み、また、その後、原子力事故賠償関連法案や復興特区法案と取り組んで参りましたが、引き続き、制度の生みの親としてその責任を全うして参ります。
ちなみに、上記の対策本部入りの直前に議員会館の近所の中学校の生徒の皆さんを会館内に収容させて頂いた時の記事が掲載されましたので、ご参考までに。
寒空の下から暖房の効いた会館に一歩足を踏み入れた瞬間の生徒さん達の歓声を今でも鮮やかに思い出すことができます。
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国会議員の防災意識 政治部 福元竜哉 国会は通常、立ち入りが制限されており、許可された人しか入れない。
例えば、国会議事堂西隣にある3棟の議員会館は、衆参両院の議員、職員、秘書らが出入りする場所で、部外者の入館には制約がある。だが、あの日、子どもたちの「避難所」となっていたことはあまり知られていない。
民主党の小西洋之参院議員は、東日本大震災の発生後、参院議員会館9階の自室窓から地上の様子を見ていて、異様な光景を目にした。眼下の中学校の校庭に避難していた大勢の生徒たちが、夕闇迫る中、校庭でブルーシートを広げ、風をさえぎるように自分たちの周りを囲い始めたのだ。
「帰宅できず、校庭で夜を明かすつもりだ」
そう悟った小西氏はただちに校長に電話し、議員会館会議室の提供を申し出た。小西氏からの連絡を受けた参院事務局は、西岡武夫議長(当時)の了解を得て、生徒らを会議室に一晩泊めた。
避難してきたのは、千代田区立麹町中学校の生徒約130人と教員約10人。校舎改築のため、国会に近い旧永田小学校を仮校舎として使っていたが、震災当日は余震を警戒して仮校舎内に戻れず、交通網マヒで帰宅もできずにいたのだった。議員会館に入った生徒たちからは「あったかーい」と歓声が上がった。
国会には、大規模地震発生時などの危機への備えが、一定程度ある。例えば、衆院では非常食1日5000食を3日分備蓄し、参院でも、「3000人が3日間、寝泊まりできるよう」(事務局)非常食、水、毛布、薬、発電機、ガソリンを蓄えている。ともに、首都の交通・物流がストップし、多くの議員、秘書、職員が帰宅困難になっても、数日間しのげるようにしている。国家的な緊急事態に国会が機能不全にならないようにするもので、国政を間断なく遂行していくための備えといえる。麹町中生徒らの受け入れには、「緊急避難的対応」としてこの備えから食事や毛布が提供された。
国会議事堂内では、衆院本会場の議員たちが座る議席の下に、銀色の防災ズキンが備え付けられている。
衆院の防災ズキンは、1978年の大規模地震対策特別措置法制定を受け、86年に備え付けられた。本会議中に大地震が発生し、天井のステンドガラスの破片が落下してきた場合に議員を守るため、というのが導入の理由だった。現在は、ステンドガラスとその下の金網の間に透明の合成樹脂を張っており、ガラス破片の心配はまずないというが、それ以外の落下物から議場内外で議員が自らを守るケースに使われることも想定されている。
ただ、物資・設備のハード面の備えはあっても、議員たちの防災意識は、必ずしも高いとは言えない。自民党の高木毅衆院議員は、震災後、衆院議院運営委員会の理事会などで、議員が参加した初の防災訓練実施を主張した。高木氏は、「震災の時は、議員会館の部屋も大きく揺れ、机の下に潜った。いざという時の安全確保のために議員も参加した訓練は必要だ」と訴えるが、他の与野党議員らの反応は鈍く、実現に至っていない。
議員らの関心が総じて薄いのは、国会議事堂が「剛構造」と呼ばれる堅牢 ( けんろう )な造りで、昔から「地震に強い」とされていることもあるだろう。議員会館も新築したばかりだ。だが、首都直下型の大規模地震に国会がどこまで耐えられるのか、機能不全に陥る可能性がないのか、という懸念が払拭されているわけではない。
国会議員一人一人が防災意識を高め、ソフト面の備えもしておくことが、国会の危機管理のカギとなる。
(2011年12月5日 読売新聞)
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