「私の人生観」(『人生について』小林秀雄、中公文庫)
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どれだけ続くかわかりませんが、今年は日々の読書の中でその時々に心に響いた言葉を徒然なるままにスクラップをしてみようと思います。
以下は、小林秀雄さんの文章。最近、久しぶりに読み返してみました。少しかたいかもしれませんが、現代の日本でどのように生きるか、という課題について、全然古びていない言葉だと思います。小林さんの文章には、独学の精神が溢れていて、この精神の延長に、独立独歩する人物が鮮やかに立ち現れます。
「扱う材料に精通し、材料の扱い方に個性的方法を自覚し、仕事の成行きに関し、素人の覗い必然性を意識し、成就した仕事に自分の人格の刻印を読む、そういう事がどんな仕事にせよ、練達の人には見られるのであるが、そういう健全な、又極めて人間的な仕事の性質は、政治という仕事には、現れようがなくなって来ている。」
「知覚は認識を構成する一定の要素でもないし、恰も写真でも撮る様に外物が知覚でとらえられるものでもない。私達が生きる為に、外物に対してどういう動作をとるかに順じて知覚は現れるのである。鹿を追う猟師、山を見ずで、猟師は、山なぞ知覚していては商売にならぬ。成る程鹿は知覚するが、それも狙って打つという行動に必要なだけの鹿の形を見るのだ。これは対象を見るというより寧ろ、可能的動作の外物への投影を経験するという事なのである。私達の命は、実在の真っ唯中にあって生きている。全実在は疑いもなく私達の直接経験の世界に与えられている筈なのであるが、その様な豊富な直接経験の世界に堪える為には、格別な努力が必要なのであり、普通の私達は、日常生活の要求に応じて、この経験を極度に制限しているのだ。見たくないものは見ないし、感じる必要のないものは感じやしない。つまり、可能的行為の図式が上手に出来上がるという事が、知覚が明瞭化するという事である。こういう図式の制限から解放されようと、ひたすら見る為に見ようと努める画家が、何か驚くべきものをみるとしても不思議はあるまい。かれの努力は、全実在が与えられている本源の経験の回復にあるので、そこで解放される知覚が、常識から判断すれば、一見夢幻の様な姿をとるのも致し方がない。ベルグソンは、そいう考えから、拡大された知覚は、知覚と呼ぶより寧ろvisionと呼ぶべきものだと言うのです。(中略)これを日本語にすれば、心眼とか観という言葉が、先ずそれに近いと思います。」
「「美」を作り出そうなどと考えている芸術家は、美学の影響を受けた空想家であり、この空想家は、独創性の過信、職人性の侮蔑という空想を生むだけである、芸術家は、物Dingを作る、美し物でさえない、一種の物を作るのだ。人間が苦心して様々な道具を作った時、そして、それが完成して、人間の手を離れて置かれた時、そrは自然物の仲間に這入り、突如として物のもつ平静と品位とを得る。それは向こうから短命な人間や動物どもを静かに眺め、永続する何ものかを人間の心と分とうとする様子をする。」
「思想のモデルを、決して外部に求めまいと自分自身に誓った人。平和という様な空漠たる観念の為に働くのではない、働くことが平和なのであり、働く工夫から生きた平和の思想が生まれるのであると確信した人。そういう風に働いてみて、自分の精通している道こそ最も困難な道であると悟った人。そういう人々は隠れてはいるが到る処にいるに違いない。私はそれを信じます。」
これらの言葉は、芸術家や思想家に限ったものではないでしょう。私たちの日々の暮らしにこそあてはまるものだと思います。やはり人生においては、手仕事を通じて観ることが求められているのではないでしょうか。若いときに心に響いた小林の言葉を思い出しました。
「花の美しさはない。美しい花がある。」
自らの日々の仕事、そして生活を大切に新鮮に。
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