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生活保護制度の問題点について・・・(2)

 (1)からの続き
 
 この往復が続くと、人間は膿んでくるもので、結果、少々不自由でも、生活保護に甘んじると言う就労可能年齢の人が増えてしまうのである。
 まず、高齢者の様に、先々、就業が出来ないと判断される受給者の場合は、ある程度の自由を与えてフリーハンドにして、全額、自己決済させることで社会との関係を維持させる。この生活で、もし、自己決済が不可能と判断される人だけを収容するような、官営の施設に保護する。ここから漏れるような人の場合は、自己責任でホームレス化してもそれは致し方ない。
 次に、負の連鎖による一時期、制度を利用せざるを得ない若年層に対しては(35歳以下)は、スキルのある人や学歴を持っている人と、そうでない人に分けて、前者は、その負が終えるまでを支援し、後者の場合、夜間高校や通信制の高校、あるいは、専門学校や大学進学などに至る長期に渡る支援が必要不可欠と考えている。未来の納税者を育てると言う意味でも有効な方法である。
 しかしながら、現在の制度は、全てに於いて中途半端で、ただ生きて行ければ良いとする一方的な独善が見え隠れしている。
 この制度は、国民の権利であり、行政の押し付ける管理下に国民を置くものではない。報道などで、生活保護費を受け取って直ぐに、飲酒やパチンコなどに出入りする高齢者が映し出されるのだが、生活保護を受給した場合、僅かな娯楽すら認められないとする独善は、許されてよいものではない。
 小生は、父の残したアパートを経営しているのだが、建物が古いこともあって、賃貸料が東京都内としてはかなり格安である。その為か10戸の内、3世帯が生活保護家庭で、区から、定期的に家賃が振り込まれている。2世帯が高齢者の一人暮らしで、1世帯が母子家庭である。この3世帯の生活に時折接する事があるのだが、かなり厳しい生活を余儀なくされている。
 80代後半の女性の場合、一人暮らしだが、正に慎ましい生活をし、その為には、1円でも安い物品を買う為に、悪い足腰を庇いながら、公共交通機関を利用して遠くの店まで行っている。また日中は、図書館などを利用して、光熱費を抑え、ちょっとづつ貯めた資金で、年に2度、安いパッケージのツアーに行く事だけが楽しみとしている。
 母子家庭の場合、子供がまだ乳児であること、そして本人が厄介な病気である事もあって、就労ができない。時折、近くの公園などで見かけるが、決して贅沢などとは程遠い生活をしていると感じる。大半の受給家庭が、倹しい生活を余儀なくされている。その中で精神的なゆとりを持つことすら許されないとすれば、人間として許されない強制であろう。
 最初に述べたが、もし、年金制度が抜本的に改正されて無年金がなくなれば、この生活保護受給者は、一気に半分になる。更に、年金制度と一緒に医療保険制度を改革すれば、この保護費の総額は、最低見積もっても2兆円以下に抑えられるだろう。何も遮二無二、減額を論じる必要はない。
 片山さつき氏だけではなく、自ら独力してきたから、現実に多くの所得や名誉、権力を得ているのだと自負心を持つことは、別に批判しないが、どんなに努力しても報われない人も少なからず存在し、それらの人々を差別するような発言は、卑劣でさえある。
 人間は所得や、資産、あるいは権力の有無で存在価値が決まるわけではない。小生は自分なりに努力して来たが、それによる所得や財産を当然と考えた事はない。むしろ世の中に生かされ、そして自分が恵まれている環境にあることに常に感謝している。それこそ僥倖であるとさえ思っている。
 だから、生活保護に陥っている人を差別的に見ることはしない。努力しないから、あるいは、年金を納めなかったから今があるのでは、とする勝者側の見方には辟易とさせられる。
 不安定な職しか得られず、最低限の年金すら支払えなかった人を多く見ている。小生のアパートに住む老女は、小学校しか出ておらず、戦後の混乱期に中小企業の賄いとして今で言うアルバイトで生活して来た。年金制度が出来てからも、最低の賃金で働き、家賃を支払うと生活費が数万円しか残らないと言う極貧の環境で生活した人である。しかしその貧困に人間性を失う事無く、暮らし、結果、生活保護に至っている。この人に年金を支払わなかった事を非難できるのであろうか?
 生活保護に至った結果、僅かな預貯金すら禁止され、数年前までエアコンすら付ける事ができなかったのである。これらの受給者に僅かな余裕すら持ってはならないと言える人間がいるとすれば、その人こそ、人間性の欠落した人格破綻者であろう。
 河本氏の問題が、喧伝されてから、報道機関など、減額必至であるとか、あるいは、上記に挙げた、大阪西成区の高齢労働者の受給態度などを引き合いに出して、パチンコや飲酒、あるいは、喫煙にまで文句をつけているが、その程度の管理は、それこそ自己責任であり、社会が非難することではなるまい。不正受給と、生活態度の問題は次元の違う問題であり、重箱の隅を突きまくる、現在の報道姿勢はいただけない。
 また、偽名で労働し、僅かな収入を得て、それを隠したからと言って、直ぐに不正受給だというのにも独善の押し付けが見られる。真の不正受給とは、町田市などの団地群に見られるので、その当たりを取材すべきだろう。
 生活保護を受け、低家賃で都営住宅に住みながら、高級外車を乗り回し、別所帯と偽って、旦那は、暴力団員、いくつもの飲食店を経営、あるいは、同和関係者などは、その権力を大いに行使して、都営住宅に優先的に入居して、偽装離婚して妻を寡婦の母子家庭として生活保護を受けて、その実、同居しており、高級車を乗り回すなど当たり前の様になっている。これらこそ、不正受給であり、弱者がその社会的に阻害されている事を、僅かな抵抗とばかりに、先に述べたように偽名で働くなど、それらの比較すれば遥かに罪は軽いのである。
 しかし、右翼団体やヤクザ、そして同和には行政は腰が引けており、それらが俎上に上がる事はない。しかも報道機関ですら、彼等を批判する事はない。まるで自らを安全圏に於いて、抵抗出来ない弱者だけを訴状にあげてスケープゴートにしているとしか思えないのである。
 町田市の忠生やその周辺の都営住宅を取材するが良い、都営住宅に一千万円以上する高級外車が停まり、ブランド品に身を包んだ人間が大手を振って生活しているのを容易に見かけることが出来るのである。何故、小生がこれを知っているのか?それは、小生の知己が、この周辺で生活しているからだ。
 この姿は、江戸川区の葛西や、江東区の砂町でも見ることが出来る。つまり、こう言うものこそ、不正受給であり、犯罪なのである。そこをスルーした、報道に正義などない。
 国が面倒見てやっているとする、現在の生活保護制度には、何ら正義など存在しない。福祉政策の抜本的な改正と、公務員の意識改革が先に進まない限り、この手の論議は、ただの弱いもの虐めでしかないと断言して終わりにする。
 不気味な社会が現れ始めていると感じる。

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生活保護制度の問題点について・・・・・・(1)

 河本と言う芸人がこの数年、かなり稼いでいるにも拘らず、実母が生活保護を受給していた問題で、この制度のあり方に厳しい世論が出ている。国民年金の最低受給額より、かなり大目の受給額や、医療費や住宅手当なども、この論議の俎上に上がっている。
 
 自民党の片山さつき氏などに至っては、この不公正を是正する為には、生活保護適用条件を厳格化して、更には、現在の経済状況を考えて減額も視野に入れるべきだとするまで言及している。
 
 果たして、その程度の改革などでこの増え続ける生活保護家庭を減じる事が可能だと思っているのだろうか、それこそ、ただ不正受給が起こっているから・・・あるいは、保護が手厚すぎて、その甘い汁から抜け出せない事を引き合いに出して、それを今以上に減額する事は正論なのだろうか?無論、中には、不届きにも不正に受給している輩も存在するだろうが、現実には、その受給家庭を見ると、過半近くが、65歳以上の無年金の高齢者で、これは、今更、この制度から抜け出せるはずもないと言うことくらい、殆どの人が理解できるだろう。更に、残りの大半が母子家庭、本来、労働しなければならないと看做される需給は、10%に満たない。この10%の中に不正受給と思われる人の大半が含まれていると推察される。
 
 病気や怪我で、一時期、収入が途絶え、結果、生活保護という制度を頼ると言う労働年齢にある人々が、その甘い知るに群がり、惰眠を貪ると言うのは、この制度がある以上、致し方ないリスクのひとつだろうと思っている。
 
 むしろ我が国の実態は、他の先進諸国よりこの不正受給は遥かに少ないと思っている。我が国の人口比率から、考えると、フランスなど、300万世帯を超える需給であり、これは、人口比率で言うと、我が国の2倍程度も多い事になる。
 
 我が国の場合、年齢から考えて、年金制度が不安定で、その受給資格が厳しい事もあって、無年金の高齢者が多いことが問題で、もし、年金制度が、民主党の言う様に国民全てが最低保証年金を受給できる制度に変更されれば、65歳以上で現在、生活保護により全面的に国から支援を受けて生活を維持している高齢者家庭は、半減する。小生の資産では、3兆7誠意億円の生活保護費の内、少なくとも1兆円以上は、年金制度に吸収され、更に、医療補助制度も相当に減額される事に繋がる。
 
 つまり、2兆円程度は、年金制度と新しい医療制度に吸収される可能性が高いのである。
 
 本来、生活保護にあたる家庭が、現実にはこの制度を受け難い状況下にあり、結果、孤立し、そして最悪のケースの場合、餓死や孤独死に至る事件など、枚挙に暇がない。
 
 何故、我が国の生活保護制度は、受け難いのか、それは、受給審査のおりに、必ず親族、3親等内の親戚に、援助の意志を確かめると言う行政側のシステムが存在するからだ。生活保護を受給すると言ういわば、これを恥とする文化が存在し、その恥を親戚に知られる事を躊躇うからに他ならない。
 
 生活保護制度の根幹に「親族の援助は出来るだけ受けるように」とする文言があるからだ。そして本来、この制度は、国民の権利でありながら、その権利を主張するためには、その恥を忍ばなければならないと言う門を潜る必要が強制されるためである。
 
 次の問題は、生活保護に関わる生活には、常に行政からの監視を受ける事を甘受しなければならない、ごく最近まで僅かな貯金や、生命保険や損害保険などの加入が禁止されていた。大阪市や北九州市など、エアコンを付けることすら禁止していたのである。その為に、高齢者が熱中症で死亡すると言う悲劇すら起こっている。現在は、10万円程度の預貯金は認められているし、エアコンも許可されているのだが、それでも尚、生活の根幹に至る監視は続くのである。
 
 また、13万円程度の生活費の他、家賃や医療費などは、現物支給であり、総額が20万円を超えていると言っても自分の意思で使える現金は、先に上げた13万円程度にしかならない。
 
 飢えなければ良いとする、この制度の問題点があり、もう少し、受給者の自由を認めた上で、その管理状況に問題点がある受給者だけを特出して監視を強化すればよいと考えられるのではないか。
 
 特に高齢受給者の場合、年金制度の抜本改革が実行されない限り、受給生活から脱する事は不可能で、これらと一時受給者を同次元で管理すると言う矛盾に行政も気付く必要がある。
 
 病気や怪我、あるいは失業などで一時的に受給せざるを得ない家庭や、母子家庭の様に、子供が一定の年齢に達するまで就業が難しいケースなどを分けて、考えるべきで、これを片山さつき氏は、厚労省の別の制度である。就業支援制度を引き出して、職業訓練などで得られる支援制度に移行すると述べていたが、官公庁が所管する職業訓練制度では、安定した職が得られないのが実態である。特に、中学卒業などの学歴に問題がある場合、これをスキルを上げて正社員などの安定した職に付かせるというのは、現在の社会環境では、殆ど不可能である。自らが努力せずにスキルが得られない場合はともかく、保護者の経済状況で学歴を得られず、そのまま低所得に甘んじている場合、ここに手を差し伸べるのは、行政しかない。しかし、現実には、厚労省の就職支援制度では、十分なスキルが与えられる訳ではなく。結果、生活保護と不安定な職の間で行き来しているのが実態である。
 
                                               (2)に続く

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オーム事件の本質とは?

 今日、NHKの特集でオーム事件の本質をテーマにした特別番組が放送された。実は、小生は、この番組を見ていない、後日、録画を見る予定だが、この時間、女子バレーの対ロシア戦を見ていた。
 
 過ぎ去った、この手の番組より、バレーボールの方が魅力的であったと言う事である。つまり、この記事は、NHKの番組に対する、批評ではなく、オーム事件を小生なりに、与えられた報道などからの情報や、この教団に興味を持って事件以前に接触していた友人からの伝聞などから、小生の一私見として書いてみるつもりである。
 
 小生は、この事件、実は、ごく単純な若者の暴走でしかないのではないかと思っている。何故、そう思うのか、それは、これから例を挙げて説明する。
 
 まず、オーム真理教の事を分析する前に、極々似た組織が小生の近くに存在した事を述べておく。これは新興宗教ではないのだが、「塾」と名乗っては、塾長への忠誠心を求め、そのカリスマ性で、過激な行動を起しつつあった。この人物、何故、浅原彰晃になり得なかったか、それは、組織経営に空想を求めなかった為で、もし、彼の空想を組織に求めていたら、恐らくは、オーム以上に危険な存在になっていたと思っている。
 
 その彼も、現在、小生と同年齢になり、自らの実力に限界を感じたのか、塾を解散し、現実社会で中小企業の経営者として生活している。
 
 彼が、塾を結成したのが、昭和50年代後半で、最初は、5〜6名の会員から始まった。若干右翼系の組織なのだが、右翼と言うほどの政治的なイデオロギーはなく、単純に心と精神を鍛えなおすべきだと言う抽象的なスローガンで発足していた。実は、この男、小生の実弟の同窓で、空手の有段者で、男は当然の様に強くあらねばならないと言う種類の人間である。ただ単純なだけに彼に付いて行きたいと言う若者も多く、一番多いときには、道場と称する塾に、通う会員は、5百人を超えていたと記憶している。
 
 価値観が多様化し、男女平等が徐々に広がり始めた頃で、強い男、あるいは、控えめな女性像を追い求めると言う時代の変化に付いて行けないと言うのが彼らの組織の色であったと思う。だが、その会員の中には、彼のためであるなら死ねると言い切る何人かの信奉者もおり、彼等が幹部として組織を運営していた。
 
 現実に三島由紀夫が割腹自殺を遂げた事を極端に評価して、警視庁を占領してクーデターを計画すると言った話題が会議と称する会合で出るほどであった。更に、国立国会図書館や、出身の大学図書館などで、TNT火薬の製造法から、起爆装置の開発など、行い始めていた。
 
 その計画は、微に入り、細を穿ったもので、過去にあった2.26事件や5.15事件などを研究し、彼らがどうして失敗したかなど、研究すると言う具合であった。彼らの夢は、あくまでも空想でしかないのだが、酒を飲んでは、30歳そこそこの高学歴な若者がエネルギーを持て余して、そのぶつけ所を、その会に求めていた。周囲から、塾長と崇められ、本人も有頂天、そして、何でも出来るのではと言う結論へ向かい始めた時に、オーム事件が起こったのである。
 
 彼らの空想は、オームの起した現実に打ち砕かれたと言う事になる、彼らの夢や空想は、この事件で終わったと思っている。
 
 先を越されたと言うのではなくオームの結末が余りにお粗末であったからだ。後にオーム事件の真相が、報道などで明らかになってくると、かなり乱暴な計画と経費をかけている割にお粗末な行動などが塾の会員にも徐々に伝わってくる、現実に、オームより以上の具体性を持って彼らは計画していたのである。しかし、彼等程度の組織では、クーデターどころか、単なる犯罪者にしかなれないのが現実である。この現実に彼らの空想は、吹き飛ばされたと言うことだろう。
 
 もし、オーム真理教事件が、起こらなければ、恐らくは、彼らが似たテロを行っていたと考えている。それほど、オームと似た組織であった。
 
 さて、小生が、何故、この組織を取り上げるのか、それは、この組織が弟の友人が作った事で、彼らが、資金作りや組織管理などで小生に度々、意見を求めて来ていた為に、彼らの行動を知ることが出来たからで、後に、オーム真理教へ帰依して入信し、出家した知己の子供などから効いたオーム真理教の考え方とに共通点が多い事に気が付いたからに他ならない。
 
 オーム真理教が多くの信者を獲得して巨大化して行く頃には、教組であった浅原彰晃は、まだ30代半ばで、まだ若造である。更にその信者となると、当時20代前半であり、有名大学などの学生も多く入信していた。実は、この点も、似ていて、東京大学から早慶、それも理系の学生が多く参加している点も似ている。オームが毒ガスなどに頼ったのに対して、彼らは、TNTやニトログリセリンなどの爆発物、あるいは過酸化物を使った火薬などを研究題材としていた。
 
 サリンを製造するのは、難しいが、TNTやニトログリセリンは、さほど難しくない、現実に、高校生などが悪戯半分で製造して誤爆し、負傷すると言う事故が起きている。しかし、サリン以上に効果は大きく、もしTNT火薬を1トン程度製造できれば、間違いなく、警視庁周辺は瓦礫の山になるだろう、現実に、学生運動最中にも、三菱重工ビル爆破なども起こっており、彼らが、自らの軽薄さに気が付かずにオーム同様、実行していたら、その被害は、オーム事件の数倍規模では終わらなかったと思っている。
 
 高学歴で空想壁があり、そこにカリスマ性のある指導者、この条件を満たせば、間違いなく、あの手の組織は、いつの時代でも存在できるのだと思っている。
 
 それは、彼らが社会経験のない若造であるからだ。現在の社会は、特に価値観の多様化した先進諸国の場合、暴力革命や軍隊などのによるクーデターは起せないのである、況や、小さな一部の新興宗教やそう言った団体が社会をひっくり返すほどの行動を起せる土壌にないと言うのが現実である。その現実を知らずに空想の世界に溺れ、自らの行動が社会を暴力で従わせる事が可能だと信じ込んだ時に、悲劇が始まる。
 
 オーム真理教事件も同様の次元であり、若造が、酒や薬物でブレーンストーミングと称した一種のトランス状態を作り上げて空想を肥大化して、教組ともども、その空想に邁進してしまう。互いに具体的な勝算や政治など元々念頭になく、また万が一失敗した場合の覚悟もなしに行った愚挙が、この事件の本質だと思っている。
 
 検察や裁判所などが殊更に、この事件を社会危機として敢えて複雑化して社会に訴える事を目的に粉飾された事実は、浅原を極悪人にしたて、しかも政治的な内乱でもなければクーデターでもテロでもない、計画殺人と言う矮小化した訴追により、浅原を矮小化す過ぎたことで、後にこの事件の本質であるとか、分析を施した番組や報道などを作らせて、人々の記憶に残そうとする官僚らしい、単純で低俗な世論誘導が見え見えである。
 
 本来、この事件は、若造どもが、社会を理解せずに、自らの陶酔と空想に溺れた結果であり、そう複雑なものではないと小生は理解している。
 
 何故ならば、もし、小生が浅原であれば、裁判に於いて自己弁護する事はない、「信者の罪は、全て私の責任に於いて行わせたもので、裁くのであれば私一人を裁くが良い、そして私は、この乱れた世の中を変革する為に、この純粋な行為を行ったもので、私利私欲ではない、お前たち人間には、私は裁けない。」と言ったきり黙秘する。これで浅原は宗教史上に名を残す教祖となる。
 
 浅原が単純で馬鹿であった事が、信者離れを起し、組織の結束力が薄くなったが、もし、浅原が、自らを高みに挙げる発言をしてれば、彼を死刑にした時点で、彼の死は殉教となり、彼は信者にとって永遠の英雄となる。この姿は、処刑された後に別れ別れになったキリストの弟子たちの姿を見れば明らかで、そう言った意味では、浅原の軽薄さは、現権力にとってあり難い存在であったろう。
 
 しかし、余りに軽薄で低俗だとなれば、彼らの行動を読めなかった公安警察などに批判が集まる、これを抑止するためには、彼らは強力な組織であり、そして複雑な言動であったと国民に知らしめる必要があり、その結果が、今まで報道されたオーム事件の真実ではないかと思っている。
 
 この事件は、そう言った複雑怪奇なものではなく、ただ社会性のない、しかも高学歴な若造たちが、空想に溺れ、そして薬物や酒の力を借りてトランス状態を作り上げて、互いに引っ込みが付かずに、行動に発展したと言うものだと小生は理解している。
 
 現在の残る、光の輪やアレフなど、真理教が分裂して新興宗教が生まれているのだが、これらの危険性を法務省や裁判所などは、常に警笛を鳴らしているのだが、小生の考えでは、彼らにそれほどのカリスマ性があるとも思えないし、また、浅原彰晃やその周辺にいた幹部たちも、既に社会に居るものは、50代近くになっており、社会の現実や事実を既に知る立場になっている、彼らが暴走する可能性は、ごく普通のイスラム教徒が暴走するより遥かに安全だと思っている。
 
 ヤクザ以上に国家が、管理し続ける必要が、彼らのどこにあるのか、政府もあるいは司法も具体的に述べていない。
 
 述べていないのではなく、述べられないのが事実で、彼らの引き起こした犯罪は、ただ単純な組織による若造の空想と現実性のなさが原因である為に、国家を転覆させるほどの組織力も思想や哲学も持ち合わせていないと言えない為に、粉飾した危険性を喧伝しているだけであろうと小生は結論している。
 
 どういった時代であったと、今、思うと感じる。バブル景気で、20代の若造が、年間所得数千万円、あるいは数億と言う時代で、若造が、天下を取ったと夜の街で大騒ぎしていたのを思い出す。
 
 何でも出来る、何でも叶えられる、そんな時代が徐々に崩壊し始め、それでも、若者は、時代は我々にあるのだと盲信していた時代であった。そんな落とし子の一つが、この事件の本質であろうと考えている。
 
 更に世は、深刻な状況になり、若者は夢を語らなくなったと感じる。夢を見てもどうせ果たせないと言う諦観、ある種のニヒリズムである。その虚無が自殺者を増やし続け、若者の精神を蝕んで行く、更に追い討ちを掛けたのが、東日本大震災であり、福島の原発事故だろう。絆と言われてがんばる若者も多いのだが、その反面、世の中への懐疑心は容易に融けないでいる。
 
 オームや、それに似た組織は、時代の婀娜花であったと思うのだが、これから一層、組織ではなく、若者個人として、社会への鬱憤やストレスを、ぶつけるのではないかと感じている、この数年、自殺願望の若者が、暴走し、犠牲者を増やしている。オームや、そう言った組織を監視する以上に、これらの社会の閉塞感を政治は、いち早く解決する必要があると申し述べて終わりにする。

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思いやり社会と言うけど・・・・・・

 吉本興業の芸人、河本(?)が、年収5千万円もあるのに、実母が生活保護を受給していた問題で、報道関係は、道義的責任は重いだの、中には不正受給だのと言った否定的な見解を述べているのだが、果たして、彼の行動に問題があるのだろうか?
 
 自民党の衆議院議員、片山さつき氏に至っては「不正受給として告発するべきだと」なんと国会で述べている。
 
 子供が老いた親の面倒を見るのは、当然だと言う社会的な意志が、ここに働いていると感じる。何故ならば、親と子の関係は、通常考えられる以上に複雑で、特に、子供が独立してから以降に於いては、その関係は、更に複雑になる。一概に子供が老いた両親の面倒を見るべきだとする社会的意志が、当然であると断言できるほど、簡単なものではない。
 
 彼の場合がそうだとは言わないが、例えば、借金苦に、妻子を捨てて行方不明になった父親などが後にホームレスになり、行旅死亡人となって、漸く身元が判明した場合、その遺骨を引き取り拒否するなど、現実に起こっているし、逆に健康を悪化させて、入院などした場合、その援助をを拒否するなど、これも良くある事例だろう。この場合、子供がある程度の財産資産を持っていたとしても、援助などを拒否する場合も少なからずある。
 
 それでもなお、親子なのだからと言って、その面倒を強制的に見なければならないとする方が、問題だと思っている。
 
 無論、河本氏と実母の関係がそうだとは言わないが、芸人などの場合、自立した生活を安定的に得るのは、僥倖に近いと言われる、現実に、僅か数年、莫大な収入があってもブームが去り、出演などの露出が著しく減り、収入も失われると言うケースは、枚挙に暇がない、何かのCMなどで自虐的に一発屋と歌って登場する芸人などもいるほどである。彼が、自分の将来にある程度の危機感を持っているとすれば、この数年、収入が増えたとしても、それが安定的に続かないのではとする不安を抱えているとならば、母親の援助を充分にできずに、不足分を生活保護に頼ったとする姿は、必ずしも批判されるものではない。
 
 不正受給と言うものは、生活保護を請けながら、現実には、多大な援助を受け、更には、収入も確保できているのに、保護を受けていた場合に限るべきで、親子関係が存在するからと言って一概にしかも一方的に非難するのは、聊か軽薄であろう。
 
 小生は、彼を擁護するつもりも、彼のファンでもないが、どうも加熱した報道に危惧を持つ、どうも社会が硬直化して、自らの価値観や社会観で、そうで無い者を徹底的に血祭りに上げると言う状況が、続いていると思う。これは、一種の弱いもの虐めで、この社会の硬直感が、子供たちの陰湿な虐めに反映している様な気がする。
 
 今朝、日本テレビのウェークアップで、ル・クプルの女性歌手が、「思いやり」をテーマにした小学生などを対称として活動をしていると言うノンフィクションが放送されていたが、この思いやりと言うテーマは、人間社会が如何に精神的に豊かになったかの指標のひとつであろうと思っている。いみじくも、今年の正月に、小生の記事に、思いやりをテーマとして一本書いたのだが、どうもわが国だけではなく、先進諸国もまた、社会的に思いやりを失いつつあると危惧している。
 
 他人のちょっとした過ちに対して重箱の隅を突くような非難、それを増徴させる様な過熱した報道、これらも、同じく、配慮を欠いた思いやりのなさが原因だろう。
 
 「他人の不幸は、蜜の味」と言う、この感覚は、配慮の欠如と共に卑しい妬みが根底にある。思ったより、彼の収入が多く、自らの収入の少なさや社会が不況に喘いでいる現状を考えて、そこから発せられる妬みと言う負の感覚、これは大変に卑しい心根の表れで、恥ずべき行為でもある。
 
 駅で、身体がぶつかった事で、極端に憤り、所持していたサバイバルナイフで切りつけて殺人未遂に問われた30代の男の事が、加熱して報道されているが、それでは、幾ら混み合っているとは言え、他人を追い越して行く時に、身体をぶつけて、誤りもせずに行過ぎる配慮のなさは、批判されないでよいものであろうか?小生は、この容疑者を庇うつもりはない、どんな状況であれ、武器で攻撃し、一方的に加害する、この手の精神的に異常としか言えない人間は許してはならないとさえ思っている。
 
 しかし、もし、身体をぶつけた50代の被害者が一言「ごめんね」と誤っていたら、あるいは「失礼」と言っていたら、この事件は起こっただろうか?
 
 小生は、片耳の聴覚を失ってから、仕事ではマイカーを使わない。結果、公共交通機関を利用する事が増え、よくJRや地下鉄を利用するのだが、大きなバッグを提げたサラリーマンや、OLが階段などですれ違いざまに、その鞄をぶつけながら誤る事もせずに行過ぎると言う経験をする、中には小生が足の悪い老母を庇いながら階段などを上下する際に、聞こえよがしに「チェ」と舌打ちしながら、老母の脇をぶつかるように通り過ぎるなど、当たり前の様に起こっている。この時に一言「ごめんね」「失礼」と声を掛ければ、ぶつけられた方も、憤る事はない。
 
 無論、都市部に済む甘受すべきリスクであろう事は、理解しているし、逆に田舎暮らしの経験のない小生は、半ば諦めてもいる。
 
 しかし、この全てが。配慮のなさ、そしてそれは「思いやりのなさ」に起因していると思う。無論、その憤りを一方的な暴力で溜飲を下げると言う行動に許されるべき理由はない。しかし、中には、精神状態が不安定な人間が、少なからず存在する。自らの安全の為にも、この配慮を心がけて生活すべきではないだろうか?
 
 小生は、できるだけ、「失礼」と声を掛ける様にしている。
 
 思いやり社会は、他人に配慮して社会生活を営む事だと思っている。この配慮が、失われつつあり、それは個人個人の意志の問題ではなく、どうも社会的に硬直化してそう言った行動が当然として受け入れつつある為に起こるものだと思っている。ゆとりのない社会、そしてゆとりを否定する教育現場など、逆の行為で、ある意味、コンセンサスを与える社会状況が、更にこの手の事件を増やすのではないかと言う危惧である。
 
 どうも、配慮なき、無礼社会が大手を振って罷り通っている様に感じる・・・・・・・・・・・
 
 
 
 

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5月22日(火)雨ですね〜閑話休題 

 東京スカイタワー・・・・開業の日、雨・・・・・相当苦労して手にした入場チケット、残念でした。中途半端なタワーを作った因果ですか〜まあ、小生は、そんなに苦労してまでタワーに登ろうとは思わないから・・・・と言いつつ6月19日に家族を連れて登りますが。
 
 一昨日、歴史ミステリーと言う雑誌を購入した、創刊号で100円だった事もあって、どんな内容かお試し価格ってところか、さてその内容だが、全く読者を馬鹿にした最低の内容でしかない事が判った、2号からの購入はないと結論した。歴史ブームは悪い事ではないが、この手の雑誌が増えつつあるのは、ちょっと問題ではないかと感じる。何故ならば、既に歴史解釈として出回っている説を簡単に文章にしているだけと言うものが多く、到底、歴史の興味がある人を納得させるものではないからだ。せめて新しい解釈の一つでも紹介するくらいの気概が編集者の良識だろう。売らんが為だけの雑誌である。ディアゴスティーニと言う出版社、付録つきと題して、色んな分野の出版に挑戦している姿勢は評価するが、この様なものにまで、手を広げる経営姿勢は、いただけない。
 
 福岡市の高島宗一郎市長が、市の職員が続けて飲酒による事件などで、市の職員に対して向こう一ヶ月の外での飲酒行為を自粛するように要請した。さてさて、なんともはや、稚拙で乱暴な要請であろうか?橋下も同様だが、若い首長と言うのは、感情論に押し流されて、最早、独裁と言う行為に走りたがるのだろうか?得た権力を何が何でも行使したいと言う正に低俗な言動でしかない。
 
 飲酒して、喧嘩沙汰、暴力行為など、ちょっと昔ならば、当たり前の様に起こっていた。むしろ、昨今かなり減ったと感じる。増えていると感じるとすれば、それはマスコミが取り上げるからで、現実には、飲酒によるこの手の事件は、昭和60年代をピークとして減っているのが事実で、同じ福岡市職員が引き起こした飲酒運転で3人の子供が死亡した事故などで道路交通法の改正などがあり、飲酒運転そのものが増えていると感じるのも同様で、飲酒運転による死亡事故も、激減しているのだ。ただ、この手の事故が起きると、報道機関が大きく取り上げる為に、何となく増えていると勘違いしているのが世論であると断言する。
 
 役人に対して一般市民の目が厳しくなっている背景には、雇用の安定、身分保証がありながら、福利厚生も充実していることへの妬みなどや、官僚が振り回す権力への抵抗感が、この手の小役人まで及んでいるからだろう。公平に見れば、役人であれ、一般民間会社の社員であれ、大学生であれ、酒に飲まれて暴力沙汰など、容認されるものではない。しかし、この程度の脱線を厳しく抑制すると、社会の閉塞感は相当にストレスとして覆いかぶさるもので、重傷者が出たとか、あるいは、一方的な暴行行為でない限り、互いの話し合いで解決すべき程度の問題ではないかと思うのだが、どうも、福岡市の対応は、場当たり的で軽率としか言いようがないと思う。
 
 昨夜も渋谷駅で、口喧嘩の末、50代の男性が刺された事件があった。こう言った事件を見聞きするたびに最近の若い人は、喧嘩の仕方を知らないと思う。我々の世代が学生であった時代にも、肩がぶつかった、目が合ったなどで、駅や繁華街で喧嘩沙汰が起こっていたが、武器をチラつかせてなど、凶器を手にして喧嘩などあまり聞いた事がない、精々、ヤクザや街のチンピラ同士の喧嘩に道具が使われた程度である。大概、素手で殴りあい、軽微な怪我で終わった。しかし、昨今、直ぐに凶器を手にして簡単な喧嘩が殺人未遂や殺人に至るものが増えてきていると感じる。
 
 暴力事件は、減りつつあると言うのだが、どうも素人同士の喧嘩に凶器が使われるのは、どうも危険な世の中になりつつあると感じる。何故だろうと考えてみると、最近の人は、喧嘩の仕方が判っていないのではないか、と言う思いがする。我々の世代は、兄弟も多く、かなり激しい兄弟げんかなどを経験するし、男の場合、喧嘩することもまた人間関係を培う手段の一つであったように思う。一人っ子が増え、更に教育現場では、厳しく暴力行為を否定する為に、陰湿な虐めは増えている反面、殴り合いなどの暴力的な喧嘩が影を潜めた結果、どうも喧嘩の仕方を理解できないまま、大人になった為ではないかと思う。
 
 暴力行為は、当然否定されるべきだが、少年期に、敢えて暴力行為である喧嘩を教える大人がいないと、去勢された陰湿な男が増え、結果、殴り合いには恐怖を感じ、身を守るためのツールとして凶器を準備する、なにか対立が起こると、その凶器を持ち出してしまう。この気の弱さが原因しているとしか言いようがない。
 
 先週、新小岩で起こった暴行事件も同様で、女性を殴る蹴ると言う暴行に及ぶ行為も同様で、自分より弱い存在に対して強い暴行で答えると言う、精神的に未熟で脆弱、こう言った男が増えるのものまた、男同士の喧嘩を経験しないで大人になったからではないかと思う。
 
 喧嘩もできない虚勢された男を数多く育てて、どうしようと言うのか、教育現場に猛省を促すものである。
 
 少年よ、殴り合いを経験して強くなれ、そして自分より強い者にどんどん挑戦し、自らも強くなれ、、現在の社会は、男性を去勢する様な、暴力行為の全てを禁じる、逆に不自然な社会が出現しているのでは、と感じる。
 
 これも社会の歪ではないかと思うのだが・・・・・・・・・・・・・・・
 
 

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