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東京から弟夫婦が0歳の甥っ子を連れてやってきた。東京は駐車場が高いし、車は売ってしまい、基本的に電車で子供と一緒に行動することが多いと言っていた。
ケニアでは、電車はないが、バンタイプの相乗りタクシーで「マタツ」と呼ばれる乗り物が庶民の足として利用されており、マタツの車内では、よく子供を見かけた。狭い車内で、授乳する母親の姿があり、泣き叫ぶ子供がいた。子供が騒いでいる時、親や周囲の大人は注意することもなく平然としている。「子供は騒いで当たり前」と思っているのであろう。
日本では、子供が電車やバスの車内で騒ぐと、周囲の乗客に迷惑をかけることになるから親は子供をしかりつけたり注意したりする。周囲の乗客の何人かは、騒がしい子供やその両親をちらちら見たり、にらみつけることがあるかもしれない。日本では、公共空間(特に閉鎖的な場所)で静かにしなければならないという意識が極端に強いような気がする。
ケニアでも子供は辺りかまわず、騒いでわめき散らす。日本でも同様。違いはそれを注意するかどうかで、結局注意してもあまり効果がない。日本の場合、子供が両親、親戚以外の大人と接する場合、そのほとんどが全く面識のない他人であるが、ケニアはコミュニティ(地域)の人間関係が密接で、子供は地域の大人たちの集団に見守られ、教育されていると言える。
先日、ある国連機関で働く日本人女性のお話を大阪で聞いてきた。会場は小さな建築事務所で、数名の参加者のうち、一人の女性が「成人の儀式の重要性」について発言した。彼女は、日本には、ケニアの割礼(サーカムシジョン)のような成人の儀式がないと思うが、あるとすれば何がそれに該当するのかといった質問を演者の国連職員に投げかけていた。日本にはない、あるとすれば成人式ぐらいであろうという回答があったように記憶している。
日本の成人式に関しては、
「第二次世界大戦後、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを『国民の祝日』と名づける。」という意義の元、昭和23年、国民の祝日に関する法律が公布・施行された。 国民の祝日として、1月15日に成人の日が制定され、この日は「大人になったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます」とされている。(ただし現在では、平成12年法律改正に伴い、1月第2月曜日が成人の日)
日本の成人式の成立は、昭和23年と非常に新しい。ケニアの伝統儀式「割礼」(聖書に記述される(ユダヤ教の)circumcisionの訳語)とは比べ物にならない。
ケニアでも、42あるすべての民族で割礼の儀式があるわけではなく、トゥルカナ族やルオ族など一部の民族はそのような風習を持たず、他の民族から、「いつまでたっても子供」と軽蔑されることも多々あることは、私がケニアにいた2年間で痛感した。子供と大人の区別は多くのケニア人にとってとても重要なものだということである。
日本の場合はどうか。日本では、小学校から高校まで、学校では先輩後輩の区別がはっきりしているし、学年が上の人、年上の人に対しては敬語と使用し、敬意を表さなければならないという教育をされてきている。社会に出ても、多くの企業・行政では年功序列の制度が残っており、「年齢」は重要なキーワードになっている。日本人は、学年、勤続年数、年齢といった尺度を重んじる。
例えば、ケニアにいた時、日本人のことをよく知っているケニア人女性から、「なぜ日本人は友達を紹介するとすぐに年齢を聞いてくるのか?」と質問を受けたことがあった。確かに、ケニアで人の年齢を聞かれたことは、自分の年齢以外には2年間でほとんどなかったような気がする。
日本ではよく、「もう、○○歳になったんだからちゃんとしなさい」「30歳までには結婚したい」「恋愛対象は年下」といった、年齢に基づいた発言がよく聞かれる。そのようなことを考えていると、別に日本で明白は成人の儀式がなくてもいいんじゃないかなと思えてくるのである。
ところで、今日、NHKで「日本のこれから〜ともに語ろう、日韓の未来〜」という興味深い番組が放送された。特に韓国人から見た日本人の姿が紹介され、いくつか共感できることがあった。例えば、
・日本人は電話の応対などで、今まで会ったこともない人に「お世話になっております」という言葉を使う。
・日本人はカップルであっても割り勘で金を払う
・社交辞令が多く、本音で言っているのかどうか見極めが難しい。例えば、食事に誘った時、「また今度にしましょう」と返事をしても、多くの場合全く行く気がないし、食事の話を待っていても一向に何も言ってこない。
・日本人は一人で居酒屋などに食事に来る男性が多いが、実はみんな寂しい思いをしている。
また、韓国の意外な慣習の紹介では、男性同士が同じベットで寝たり、デザートの皿を男性数名で共有して一緒に食べたりする例が紹介されたが、ケニアでは男性同士が真剣な話をする時、お互いに手をつなぐ文化があったことを思い出した。
先の例では、ケニアでは社交辞令は少なく、割り勘の文化もなかった。ただ、一人で飲食店に来ているケニア人男性は多かった。中には、寂しそうにしているケニア人もいた。
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