くじら通信

新進気鋭の歯科技術者集団 DENTIC ( http://www.dentic.jp) 率いるくじらこと大石耕史のごく私的な日記

総義歯のはなし

すべて表示

『三国志』 魏書東夷伝  倭人条  その三

(『三国志』 魏書東夷伝  倭人条  その二からの続き)


 その国は、もとは男子を王としたが、七〜八十年ほど前、倭国が
乱れ、何年も互いに攻め合ったので諸国は、共に一女子を立てて
王とした。これを卑弥呼という。彼女は、神がかりとなり、
おそるべき霊力を現した。すでに年をとってからも、夫をもたず、
弟がいて、政治を補佐した。王となってから、彼女をみたものは
少なく、婢千人をその身辺に侍らせ、ただ一人の男子が、飲食を
給し、女王のことばを伝えるのに居処に出入りした。宮殿・物見楼・
城柵などは厳重に設けられ、つねに兵器を持った人々がこれを守衛
していた。

 女王国の東、海を渡ること千余里で、また国々があり、これらも
すべて倭種の国である。また侏儒国はその南にあり、人々の身長は
三、四尺で、女王国を四千余里離れている。また裸国・黒歯国は
その東南にあり、舟行一年で到着できるという。

 これらを含めて倭地の様子を尋ねると、海中の島々の上にはなれ
ばなれに住んでおり、あるいは離れ、あるいは連なりながら、
それらを経めぐれば、五千余里にもなるだろう。

 

 景二年六月、倭の女王は大夫灘升米を帯方郡に遣わし、魏の
天子に朝献したいと請求した。帯方太守劉夏は、役人を遣わし、
これを引率して洛陽に至らしめた。その年の十二月、魏の明帝は
詔して、倭の女王に次のように述べた。

「親魏倭王卑弥呼に命令を下す。帯方太守劉夏が使を遣わし、汝の
大夫灘升米と次使都市牛利を送り、汝の献じた男の生口四人、女の
生口六人、班布二匹二丈を奉り、わがもとに至った。汝の国ははるか
遠いのに、使を遣わし朝貢したのは、汝のわれに対する忠孝の現われ
で感心なことである。今、汝を親魏倭王に任じ、金印・紫綬を与える
ことにし、それを包装して帯方太守に託して、汝に授けることとした。
汝は倭人を綏撫しわれに孝順をなせ。汝の使者難升米と牛利は、遠く
からはるばる労して来朝したので、難升米を率善中郎将、牛利を
率善校尉に任じ、ともに銀印・青綬を授けることとし、引見し賜物
してこれを送り返す。今、交龍錦五匹、絳地十張・絳五十匹・紺青
五十匹を汝の国信物にたいする回腸として与え、またとくに、汝に
紺地句文綿三匹・細班華罽罽五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・
銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を与えよう。これらの品物は、みな
包装して難升米・牛利に託するので、かれらが帰国したら、簿録
(物品目録)と品物を照合して受け取り、悉く汝の国の人々に示し、
魏が汝を大切に思っていることを知らせなさい。よって鄭重に、
汝に好物を与えるのである。」と。

 正始元年、帯方太守弓遵は、建中交尉梯儒らをつかわし、この

詔書と印綬をもって倭国に行かせた。使者は、魏の少帝の使者と
いう立場で、倭王に謁し、詔書をもたらし、賜物としての金帛・錦罽・
刀・鏡・采物を贈った。倭王はこれに対し、使者に託して魏の皇帝に
上表文をおくり、魏帝の詔と贈物に答礼の謝辞をのべた。

 同四年、倭王はふたたび大夫伊声耆・掖邪句ら八人をつかわし、

生口・倭綿・絳青鎌・緜布・帛布・丹・木附(ゆはず)・短弓矢を献上した。
掖邪狗らは、率善中郎将の印綬を授けられた。同六年、小帝は詔
して、倭の使者の難升米に、黄色の軍旗あたえることにし、帯方
郡に託して、これを授けさせた。

 同八年、帯方郡の太守王頎があらたに任官された。倭の女王卑
弥呼はもともと狗奴国の男王卑弥弓呼と不和で、倭の載斯鳥越らを
帯方郡につかわし、互いに戦っている状況を報告した。そこで
太守は塞曹掾史張政をつかわし、先の詔書と黄色の軍旗をもって
行かせ、難升米に授けて檄文をつくって卑弥呼に教えさとした。

 その後、卑弥呼が死んだ。大いにを作りその径は百余歩、殉葬
された奴婢は百余人であった。倭では女王の死後、男王を立てたが、
国中が服従せず、互いに殺し合い、このとき千余人が殺されたという。

 そこでまた卑弥呼の女である年十三の壱与を立てて王とし、
国中がようやく治まった。張政らは、檄文をもって、壱与を教え
さとした。壱与は、倭の大夫率善中郎将の掖邪狗ら二十人をつかわし、
張政らの帰国を送らせた。よってかれらは魏の朝廷にいたり、
男女の生口三十人を献じ、白珠五千孔・青大匂珠二枚・異文雑錦
二十匹を貢進した。



(『三国志』 魏書東夷伝  倭人条  終わり)



 その後、邪馬台国(倭国全体も)は中国の記録から姿を消します。

(倭が再び中国の記録に登場するのは、そのまた一世紀後です)



その他の最新記事

すべて表示

古筑紫海 中つ海

2014/3/30(日) 午前 10:54

今から3,500年前の昔、筑紫平野のほとんどすべては海でした。 当時、縄文晩期の海岸線はおよそ標高35m。 筑紫と中東を結ぶ船が、しきりに往来していたそうです。 神社伝承を調べていて観えてき ...すべて表示すべて表示

(『三国志』 魏書東夷伝  倭人条  その一からの続き)  倭では、男子は成人も子供もみな顔や体に入墨をしている。昔か ら倭の使いが中国に来るとき、みな大夫と称する。夏王朝の六代の王 小康の子が、郡に封ぜられたとき、断 ...すべて表示すべて表示

 倭人は、帯方郡の東南の大海の中にあり、山や島によって国や村 をなしている。もと百余国に分かれていて、漢の時代に朝見してくる ものがあり、現在では、魏またはその出先の帯方郡と外交や通行を しているのは三十国である。 ...すべて表示すべて表示


.


みんなの更新記事