彦根城で、甲冑で見る武将(おとこ)達の関ヶ原が開催されていました。平日に休みが取れましたので、行ってきました。彦根城は言わずとしてた徳川四天王の井伊家の居城です。国宝4天守閣のうちのひとつです。佐和口門から攻略を開始して、表門かあら天秤櫓を目指しました。
特別展は彦根城内の重要文化財「天秤櫓」にて、開催されていました。表門から攻略を開始しました。入場料の600円を払い坂を登って行きます。博物館の前にはひこにゃんのパネルがありました。表門から坂を上がっていくと廊下橋(非常時には落とし橋となる)が見えました。この橋を中央にして建てられているのが天秤櫓である。テレビの何度も撮影に使われているのを見たことがありました。
天秤櫓は 廊下橋を中央として左右対称に建てられていました。、この櫓は、豊臣秀吉が創築した長浜城大手門を移築したといわれている。城門は、正面約4.3mで、全部樟材を用いて建築されています。左右両端に二重の多聞櫓のあるコの字形で、奥に突き出た続き櫓の構えである。左右対称で、ちょうど天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばれた。この形式は、わが国城郭のうち彦根城ただ一つです。入り口に各武将の旗が建っていました。
天秤櫓の内部の関ヶ原において東西に分かれて戦った戦国武将の甲冑(レプリカ)の展示されていました。入り口には関ヶ原の戦いの絵図が展示されていました。
甲冑は西軍から撮影しました。最初は立花宗茂。立花宗茂は立花道雪の養子でして高橋紹運の子。関ヶ原の戦いでは東軍の京極高次が守る大津城を攻めていました。猛将の立花宗茂が関ヶ原にいたら戦いはどうなっていたのでしょうか?
その次は、直江兼続でした。愛の前立てが有名な兜で、会津遠征を決意させるきっかけとなった直江状で有名です。それから直江兼続の主君の会津120万石の上杉景勝でした。次に六文銭で有名な真田幸村の甲冑でした。
それから真田幸村の父の・真田昌幸の甲冑でした。真田昌幸は関ヶ原の戦いの前哨戦で東軍、徳川秀忠の部隊約3万8,000の大軍を僅か2,000の兵力で篭城して迎え撃ちました。次は
西軍の総大将の毛利輝元の甲冑でした。毛利輝元は石田三成らに擁されて大坂城西の丸に入った。 その後は西軍の総大将として大坂城にあったが、9月15日の関ヶ原本戦においては自らは出陣せず、一族の毛利秀元と吉川広家を出陣させました。
それから悲劇の武将・大谷吉継の甲冑でした。大谷吉継は負けるとわかっていても親友の石田三成のために西軍に参加しましたが、当時業病とされていた病(ハンセン病と云われている)故に輿に乗って軍を指揮しました。次は、島左近の甲冑でした。島左近は石田三成の家臣で
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの人物であった。島左近の最期の折の勇猛さ・狂気じみた奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となっており、黒田隊の兵士たちは関ヶ原から数年が過ぎても戦場での悪夢にうなされ、夢枕で左近が発した「かかれーっ!」の声を聞いて恐怖のあまり布団から飛び起きたと言われるほどです。
次は島津義弘の甲冑でした。関ヶ原の戦いには参加しながらも戦場で兵を動かそうとはせず、敗北後、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破して、徳川家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。西軍の最後は、石田三成でした。石田三成は豊臣秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任され、五奉行の一人でした。実質的な西軍の総大 将として参加しました。
次は東軍です。東軍の最初は総大将の徳川家康です。 徳川家康の鎧は有名な甲冑は何種類もありますが、この甲冑は、歯朶具足と呼ばれ、徳川家康が関ヶ原合戦の際に着用し、大坂の陣にも身近に置いたという具足で、いずれの戦も勝利したことから吉祥の具足として尊ばれ徳川将軍家の武器の筆頭に位置づけられました。本物は重要文化財で久能山東照宮博物館蔵です。
次に東軍の武将の甲冑です。最初は徳川四天王の甲冑です。四天王のうち、本多忠勝の甲冑でした。本多忠勝は関ヶ原の戦いでは徳川家康本軍に従軍し、井伊直政と共に先鋒部隊の軍監でした。「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八郎忠勝」と言われた武将。
それから井伊直政の甲冑でした。井伊直政は彦根藩祖で、井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として特に有名であります。関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となりました。次に榊原康政でした。関ヶ原の戦いにおいては、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍していました。
次に黒田長政の甲冑でした。黒田長政は豊臣秀吉の軍師である黒田孝高(官兵衛・如水)の長男で、関ヶ原の戦いでは、黒田隊の活躍は凄まじく、長政は調略においても西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目も務めた。次に福島正則の甲冑でした。福島正則は賤ヶ岳の七本槍の一人で、関ヶ原では井伊直政・松平忠吉らに抜け駆けされ激怒したが、宇喜多勢1万7,000と激闘を繰り広げた。次は、細川忠興でした。細川忠興は足利氏の支流・細川氏の出身で、実父細川藤孝。・茶人としても有名で、利休七哲の一人です。関ヶ原では黒田長政らと共に石田三成の本隊と激闘を演じた。次は山内一豊でした。山内一豊は妻が内助の功で知られる千代で有名。関ヶ原の戦いでは諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言した。本戦では毛利・長宗我部軍などの押さえを担当し、さしたる手柄はなかった。それから藤堂高虎でした。藤堂高虎は何度も主君を変えた戦国武将として知られ、築城の名手でした。関ヶ原の戦いでは、大谷吉継隊と死闘を演じました。
会場内には、甲冑体験コーナーとバーチャルスタジオが設置してありました。井伊直政と石田三成と島左近の甲冑の試着ができるようでした。セットは彦根城天守閣をバックに撮影をできました。平日でしたので、試着している人が少なかったので石田三成と井伊直政の甲冑を試着しました。甲冑を来て何枚も写真を撮影しました。2回目は、係員に撮影してもらったのですが、上手に撮れていたので、年賀状の写真に採用しました。
それから、彦根城の天守閣を攻略しました。天守は3階3重、規模は比較的小ぶりですが、屋根は「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓」、3階には高こう欄らん付きの「廻縁」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。 その構造は、通し柱を用いないで、各階ごとに積み上げていく方式をとっており、全体として櫓の上に高欄を付けた望ぼう楼ろうを乗せる古い形式を残していました。
天守閣の中、一、二階も、外周の通路と、小部屋に区切られていました。全体にはせまく、階段も急でありました。、随所にある三角形の穴は鉄砲狭間で外からは見えないように工夫され、鉄砲を撃つための穴です。彦根城は一度も戦を経験することなく平和な江戸時代を送りました。この時代には藩主が天守を訪れることも余りなく、天守には歴代藩主の甲冑などが収納されていました。江戸時代の天守は、軍用建築というよりも、城下から見上げる彦根藩の象徴という役割を担っていたようです。
天守閣を後にして井戸曲輪に向かいました。門扉の説明があり
ました。城の門にある乳金物の説明がありました。これは門扉の釘隠しとして打つ乳房形の金物です。そんな「釘隠し」の中でも「乳金物」は、城郭や寺社など格式のある建物の門の目立つ場所に使われています。これは、女性のおっぱいの形をしており、子孫繁栄の想いが込められていると以前、松山城に行った際に説明を受けた記憶があります。
井戸曲輪は、天守北側直下で、黒門南側材木蔵付近から本丸と西の丸の間へと至る搦手道の途中にありました。扇形で削平が不完全なこの曲輪では、石組み溝で集められた雨水を浄化して貯水する井戸があり、北東隅には塩櫓が築かれていました。井戸曲輪では食糧を中心とした備蓄庫の役割を果たしていた。井戸曲輪直下の石垣は城内で最も高い石垣でした。
それから内郭北東面の黒門から出ました。大名屋敷である楽々園、大名庭園である玄宮園に近い門でした。井伊直弼の生誕地の碑がありました。
次に玄宮園に行きました。 玄宮園は彦根城の北東にある、大池泉回遊式の旧大名庭園。彦根城天守閣や茂った木々を背景に、大きな池に突き出すように臨池閣が立ち、築山には鳳翔台がありました。この鳳翔台は、彦根藩の賓客をもてなすための客殿で、ひなびた趣のある建物
でした。樹木・岩石・池を巧みに配し、池の周りに、湖南省洞庭湖の瀟湘八景にちなんで選ばれた近江八景、竹生島や沖の白石などを模して造られており、情趣のある庭になっていました。
鳳翔台では、抹茶を楽しむことができました。楽々園とともに国指定の名勝でした。園内から彦根城天守がよく見えました。
次にキャッスルロードに行きました。彦根城の堀端から京橋方面を向かい、石垣を抜けると、まっすぐに通りが広がりました。通りの愛称は「夢京橋キャッスルロード」でした。白壁と紅殻に煤を混ぜた黒格子、いぶし瓦。切妻屋根の傾斜を揃え、景観を大切にした暮らしの見え隠れする古くて新しい町、「OLD NEW TOWN」が「テーマ
です。戦国グッツを買おうと思ったら自分の気に入ったものがなかったので他を探しました。
キャッスルロードから少し車で移動すると花しょうぶ通り商店街がありました。その商店街に
戦国丸という戦国グッツのお店があり、そこでは帽子を2つ購入しました。伊達政宗と真田幸村の帽子を購入しました。伊達政宗は紺色で、真田幸村は赤色でした。Tシャツも欲しかったのですが、そこにはなく、同じ商店街にあるお店を紹介してもらいました。少し歩くとお店があり、そのお店は、戦国グッズ専門店しょうぶ屋でした。「しょうぶ屋」は、戦国ブランド「サムライズムアート」の正規取扱店であり、全国でもここにしかない“戦国時代グッズ”を専門に扱う珍しい店でした。ここではTシャツを2枚購入しました。予算的にかなりオーバーしてしまいました。商店街の入り口には石田三成の家紋と説明がありました。
帰りに関ヶ原古戦場に寄ってから帰りました。笹尾山の石田三成の陣跡を攻略しました。この陣跡は1600年(慶長5年)9月15日、笹尾山一帯の石田隊6千余は、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、前衛隊長の島左近らの指揮の下、すさまじい死闘を展開した場所です。それから開戦地の記念碑の前で撮影して、古戦場を後にしました。