2012年1月2日(月):2012年の最初の城攻略戦

 2012年、最初の城攻略戦は、「三河・遠江攻略戦」にしました。7時に出発して、最初は東端城を攻略しました。東端城は、三河大浜の長田重元が嫡子尚勝に築かせ、東端城主とした。長田尚勝の弟が永井直勝である。永井直勝は、天正12年の小牧・長久手の合戦で秀吉方の池田恒興を討ち取る戦功をあげた。この戦功により、徳川家康は永井直勝を兄尚勝に替わって東端城主とした。尚勝は神官となって退いた。 1615年(元和元年)に永井直勝が常陸国笠間に移封され、城は廃城となりました。
 
 東端城を攻略するのは2回目で以前は2007年でしたので、4年以上前でした。城跡は、現在では城山稲荷社となっていました。入り口にお正月らしく門松がありました。以前にはなかった東端城と城主の永井伝八郎直勝の説明の碑と略年表の碑がありました。
 
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 次に安城古城を攻略しました。安城古城は、11世紀〜15世紀にかけて荘園があった時代の館跡です。この地にあった志貴荘という荘園の荘官の居館跡とも考えられている。志貴荘は西イメージ 4三河きっての大きな荘園であり、室町時代には和田氏五代の本拠となった。代々荘園の主や有力者が居を構えてきましたが、和田氏が1438年(永享10年)に安祥城を築いて移転したため、廃城になったとの説があります。そしてその後、1540年(天文9年)に起こった第一次安城合戦では、織田勢が安祥城を攻めたとき、松平一党がここを前線基地のひとつとしてここに陣を敷いています。
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 安城町社口堂にある児童公園の片隅に、安城古城の看板と祠がありました。城址である児童公園への住宅地内の道は非常に狭い上に、非常に分かり辛かったです。公園隅に土塁があり、土塁への登り口に説明板が設置され、土塁上には祠が祀られていました。土塁の奥が竹薮になっており、その気になって見れば、何となく城址らしい雰囲気がありました。
 
  次に岡崎城に行きました。岡崎城は言わずと知れた徳川家康が生まれた城です。龍城神社は、岡崎城内にありました。神社は徳川家康公と、その忠臣・本多忠勝公とを合祀する東照宮(岡崎東照宮)です。徳川家康公にあやかり、出世開運・厄除・家内安全を祈願する参拝客で賑わう神社ですが、早朝なのでまだそんなに人はいませんでした。徳川家康公が生まれた岡崎城本丸は、別名"龍ヶ城"。もともとこの山には龍神が棲んでおり、守護してきたと言われてきましたのが、神社の由来です。神社で交通安全のお祭りを購入しました。
 
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2012年1月1日(日):お正月

イメージ 3 2012年の年が明けました。「あけましておめでとうございます」「HARRY NEW YEAR」今年は良い年になりますように・・・紅白を見て、カウントダウンをして寝たのですが、朝は7時前に目が覚めてしまいました。
 
 2012年の最初の散歩を散歩道でしました。歩いているとミツカンの本社に門松が飾られて、これぞ日本のお正月という感じでした。それから半田駅に行くとSLのお正月バージョンになっていました。日本の国旗が飾られていました。1時間ほど散歩しました。穏やかなお正月という感じでした。
 
 
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 結婚してから、お正月の恒例になっている嫁の両親と知多半島のはまる食堂に行きました。10時前に行き、新年初の温泉に入ります。まるは食堂に横に「うめの湯」がありました。新年はお風呂は5時から営業しているようです。泉質は、ナトリウム・塩化物強塩泉でお湯は海に近いので塩辛いです。両親とは11時半の集合の予定でしたが、11時くらい食堂に入りました。すでにかなり混んでおり、11時半には満席状態でした。お正月から大盛況でした。
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 コースは2000円から5000円までありました。まるは食堂は大きなエビフライが有名なので、エビフライメインの2000円のコースを頼みました。コース内容は付出し、 さしみ並、 エビフライ(2匹)、 煮魚、 めし、 みそ汁でした。刺身並みが、めちゃかたくて噛むのが大変でした。えびフライはおいしかったです。
 
 

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2011年12月31日(土):おおみそか

 急に11月になったころから、忙しくなり年末はかなりハードでした。日曜日が休めただけでもましかな?って感じでした。頑張ったので、なんとか穏やかなお正月を迎えれそうです。お正月休みは31日から1月4日までの5日間です。朝から近所を散歩しました。アパート横にあった小さな工場が壊され、さら地になっていました。ここには何が建つのでしょうか?それから蔵の街の運河沿いを散歩しました。
 
 
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 ミツカンの酢の博物館「酢の里」でも、しめ縄が飾られ正月の用意がされていました。それから
喫茶店にモーニングを食べに行きました。けっこう混んでいました。家に帰り我が家でも鏡餅を飾り、お正月の用意をしました。昨日まで仕事でしたので、大掃除はやらずにゆっくりしました。
来年はいい年になりますように・・・
 
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2011年11月26日(土):サツキとメイの家と香嵐渓の紅葉

 11月に入り、めちゃ忙しくなりました。日曜日しか休みがなくなり、疲れて動けませんでした。月末になり、何とか連休が取ることができましたので、以前から行きたかった香嵐渓に行くことにしました。香嵐渓は紅葉で有名で道が1本しかないので、大渋滞することでも有名でした。新聞でライトアップされた香嵐渓の記事が載っていたので今回はライトアップされた紅葉を見ることにしました。
 
 ゆっくり目に出発して、最初にモリコロパークにある「サツキとメイの家」に行きました。モリコロパークは、愛知万博が行われた場所です。万博に3回行きましたが、その跡地を整理して綺麗な公園になっていました。少し万博のころの面影もありました。モリコロパークでも綺麗に紅葉していました。
 
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イメージ 15 サツキとメイの家は映画『となりのトトロ』に登場するサツキとメイの家を映画のままを再現し た、大人気の施設でした。以前に愛知万博の時にハガキで応募して2回行きましたが、今回で3回目で、数年ぶりでした。入場できる人数が限られており、1日14回の時間制(30分間・入れ替え制)で、1ツアーあたり50名程度でした。往復はがきによる予約が定員に満たなかった日は、当日券を午前8時30分から”サツキとメイの家受付所”にて先着順に販売するということでしたので13時すぎに受付に行くと、14時半からの当日券を買うことができました。この後、30分程度で本日の分の当日券が売り切れました。
       
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 まだ集合まで時間がありましたので、近くに展望台がありましたので行きました。展望台からは、サツキとメイの家の全景が見えました。時間がない人は、ここで記念撮影していました。この家は日本の伝統的な家屋に洋風の2階建てが増築された間取りが特長で、構造から仕上げ部材まで全てにおいて本当の当時の家の技法にのっとって建築されてました。
 
 
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  時間になりましたので、集合場所に行きました。集合場所では注意事項の説明があり、整列してサツキとメイの家に向かいました。内覧の見学を15分、外観からの見学を15分の計30分の見学が出来、50人を2班に分けて内覧と外観の見学を順番にしました。細かい部分まで再現されていました。入り口の表札には草壁と書いてありました。玄関を開けて中に入りました。下駄箱があり、そこに靴を入れました。下駄箱にはさつきちゃんとめいちゃんの靴が入ってました。いろんな場所に細かい演出がありました。残念ながら家の中の撮影は禁じられていました。ただ外観からのみ撮影が出来ました。映画の中での状態を再現するため、木材などには年月が経った日焼け状の処理を加え、草壁家が住んでいる状態を想定した小道具も各部屋に配置されていました。書斎脇の扉を開けると階段がありました。この階段はマックロクロスケが逃げ込んだ二階に向かいます。マックロクロスケがいる雰囲気がありました。残念ながら2階には登ることができませんでした。
 
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 サツキとメイの家は昭和10年頃に造られた、築約25年の家と想定、1階・28.5坪、2階(屋根裏)・4.3坪で、部屋の数は和室×3、洋間×1、屋根裏×1、台所、風呂、便所付でした。外見の木材は、柿渋や炭煤などで塗り、年月を経た状態を表現しており、瓦はひとつひとつ手焼きであえて色ムラを強調したりざらつきを持たせて、年月を経た状態を表現しているそうです。
  
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 台所と屋外の2箇所にポンプがありました。台所のものは比較的状態がよく、屋外のものは錆付いた外観となっていました。井戸の近くに映画に登場した穴の開いたバケツがありました。本当に細かい部分まで再現されていました。
 
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 サツキとメイの家の後にしてモリコロパークの紅葉に楽しみました。紅葉は綺麗でした。
 
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 モリコロパークを後にして、長久手天然温泉 ござらっせに行きました。ござらっせとは長久手の方言で「お越し下さい」の意味です。和風の「1F」と洋風の「2F」の雰囲気が異なる2つの浴場がありました。源泉かけ流しをはじめ湯船の種類も豊富でした。1時間程度入浴して、香嵐渓方面に向かうべく、猿投グリーンロードに行きました。通常は、力石ICから約15分で到着するのですが、紅葉の時期なのである程度の渋滞するのは覚悟していたのですが・・・
 
  力石ICまでは順調に進みましたが、力石ICを降りた瞬間から渋滞が始まりました。本来は15分程度で到着するのですが、1時間経過してもほとんど進みませんでした。17時の時点でナビでは到着地点まで9・8㌔でしたが19時の時点で残り3.8㌔で2時間経過しても6㌔しか進みませんでした。なんと時速3㌔でした。渋滞になる前は、ライトアップは21時までなので、余裕で到着すると思っていましたが、2時間経過しても到着しないのは、香嵐渓の紅葉をなめてました。しかも一番の見ごろの時期で昨日の新聞の一面にも紹介されていたので、訪れる人が多いみたいです。
 
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 ライトアップの終了が21時でしたが、駐車場まで行くと、まだかなりの時間がかかりそうでしたので途中の民間の駐車場が運よく1台空いていましたので、そこに駐車しました。料金は1000円と高めでしたが、このまま車で行くよりは、歩いて行ったほうが間に合いそうでしたので1キロくらい歩いて行きました。なんとか20時半前に香嵐渓に到着し、紅葉のトンネルをくぐりました。
 
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  今が盛りの香嵐渓の紅葉。休前日の夜と言う事だけあって、人出も最高潮でした。赤く染まった紅葉に、ライトが当てられ、まるで山全体が燃え盛る炎のようにも見えるその姿は幻想的でした。至るところで素晴らしく美しい光景が見られました。
 
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  対岸から見た飯盛山の様子は赤々と燃える様な紅葉のライトアップと、街灯の緑がカラフルでした。
 
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 3時間以上の渋滞を耐えながら苦労してきた香嵐渓、綺麗にライトアップされた紅葉に感激して、帰りには「綺麗だった〜、楽しかった〜」の言葉が出ました。この時期、車が渋滞するのは避けられない事なのです。それはやはり渋滞を圧しても来たい魅力がそこにはあるからなんだと思います。でも地元の人は大変ですね。 香嵐渓のライトアップは本当に綺麗でした。来た甲斐がありました。帰るころにはライトアップが終了しましたが、まだ香嵐渓向う道は大渋滞していました。
 
 
 

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2011年10月30日(日):秋の半田運河ぶら散策

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イメージ 2 今日は半田運河の会・主催の「秋の半田運河・ぶら散策」に参加しました。スタート、ゴールまで約6000歩。景観を楽しみ、風を感じて秋の半田運河をひとめぐり。1時間程度の散策でした。3箇所のチェック・ポイントの橋でスタンプをもらいました。多くの人が参加していました。
 
 
 
 

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2011年10月26日(水):甲冑で見る武将(おとこ)達の関ヶ原

 彦根城で、甲冑で見る武将(おとこ)達の関ヶ原が開催されていました。平日に休みが取れましたので、行ってきました。彦根城は言わずとしてた徳川四天王の井伊家の居城です。国宝4天守閣のうちのひとつです。佐和口門から攻略を開始して、表門かあら天秤櫓を目指しました。
 
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 特別展は彦根城内の重要文化財「天秤櫓」にて、開催されていました。表門から攻略を開始しました。入場料の600円を払い坂を登って行きます。博物館の前にはひこにゃんのパネルがありました。表門から坂を上がっていくと廊下橋(非常時には落とし橋となる)が見えました。この橋を中央にして建てられているのが天秤櫓である。テレビの何度も撮影に使われているのを見たことがありました。
 
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 天秤櫓は 廊下橋を中央として左右対称に建てられていました。、この櫓は、豊臣秀吉が創築した長浜城大手門を移築したといわれている。城門は、正面約4.3mで、全部樟材を用いて建築されています。左右両端に二重の多聞櫓のあるコの字形で、奥に突き出た続き櫓の構えである。左右対称で、ちょうど天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばれた。この形式は、わが国城郭のうち彦根城ただ一つです。入り口に各武将の旗が建っていました。
 
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  天秤櫓の内部の関ヶ原において東西に分かれて戦った戦国武将の甲冑(レプリカ)の展示されていました。入り口には関ヶ原の戦いの絵図が展示されていました。
 
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 甲冑は西軍から撮影しました。最初は立花宗茂。立花宗茂は立花道雪の養子でして高橋紹運の子。関ヶ原の戦いでは東軍の京極高次が守る大津城を攻めていました。猛将の立花宗茂が関ヶ原にいたら戦いはどうなっていたのでしょうか?
 
 その次は、直江兼続でした。愛の前立てが有名な兜で、会津遠征を決意させるきっかけとなった直江状で有名です。それから直江兼続の主君の会津120万石の上杉景勝でした。次に六文銭で有名な真田幸村の甲冑でした。
 
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 それから真田幸村の父の・真田昌幸の甲冑でした。真田昌幸は関ヶ原の戦いの前哨戦で東軍、徳川秀忠の部隊約3万8,000の大軍を僅か2,000の兵力で篭城して迎え撃ちました。次は
西軍の総大将の毛利輝元の甲冑でした。毛利輝元は石田三成らに擁されて大坂城西の丸に入った。 その後は西軍の総大将として大坂城にあったが、9月15日の関ヶ原本戦においては自らは出陣せず、一族の毛利秀元と吉川広家を出陣させました。
 
 それから悲劇の武将・大谷吉継の甲冑でした。大谷吉継は負けるとわかっていても親友の石田三成のために西軍に参加しましたが、当時業病とされていた病(ハンセン病と云われている)故に輿に乗って軍を指揮しました。次は、島左近の甲冑でした。島左近は石田三成の家臣で
治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城と謳われるほどの人物であった。島左近の最期の折の勇猛さ・狂気じみた奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となっており、黒田隊の兵士たちは関ヶ原から数年が過ぎても戦場での悪夢にうなされ、夢枕で左近が発した「かかれーっ!」の声を聞いて恐怖のあまり布団から飛び起きたと言われるほどです。
 
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 次は島津義弘の甲冑でした。関ヶ原の戦いには参加しながらも戦場でイメージ 15兵を動かそうとはせイメージ 16ず、敗北後、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破して、徳川家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。西軍の最後は、石田三成でした。石田三成は豊臣秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任され、五奉行の一人でした。実質的な西軍の総大 将として参加しました。
 
 次は東軍です。東軍の最初は総大将の徳川家康です。 徳川家康の鎧は有名な甲冑は何種類もありますが、この甲冑は、歯朶具足と呼ばれ、徳川家康が関ヶ原合戦の際に着用し、大坂の陣にも身近に置いたという具足で、いずれの戦も勝利したことから吉祥の具足として尊ばれ徳川将軍家の武器の筆頭に位置づけられました。本物は重要文化財で久能山東照宮博物館蔵です。
 
 次に東軍の武将の甲冑です。最初は徳川四天王の甲冑です。四天王のうち、本多忠勝の甲冑でした。本多忠勝は関ヶ原の戦いでは徳川家康本軍に従軍し、井伊直政と共に先鋒部隊の軍監でした。「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八郎忠勝」と言われた武将。
それから井伊直政の甲冑でした。井伊直政は彦根藩祖で、井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として特に有名であります。関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となりました。次に榊原康政でした。関ヶ原の戦いにおいては、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍していました。
 
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 次に黒田長政の甲冑でした。黒田長政は豊臣秀吉の軍師である黒田孝高(官兵衛・如水)の長男で、関ヶ原の戦いでは、黒田隊の活躍は凄まじく、長政は調略においても西軍の小早川秀秋吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目も務めた。次に福島正則の甲冑でした。福島正則は賤ヶ岳の七本槍の一人で、関ヶ原では井伊直政・松平忠吉らに抜け駆けされイメージ 24激怒したが、宇喜多勢1万7,000と激闘を繰り広げた。次は、細川忠興でした。細川忠興は足利氏の支流・細川氏の出身で、実父細川藤孝。茶人としても有名で、利休七哲の一人です。関ヶ原では黒田長政らと共に石田三成の本隊と激闘を演じた。次は山内一豊でした。山内一豊は妻が内助の功で知られる千代で有名。関ヶ原の戦いでは諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言した。本戦では毛利・長宗我部軍などの押さえを担当し、さしたる手柄はなかった。それから藤堂高虎でした。藤堂高虎は何度も主君を変えた戦国武将として知られ、築城の名手でした。関ヶ原の戦いでは、大谷吉継隊と死闘を演じました。
 
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イメージ 29 会場内には、甲冑体験コーナーとバーチャルスタジオが設置してありました。井伊直政と石田三成と島左近の甲冑の試着ができるようでした。セットは彦根城天守閣をバックに撮影をできました。平日でしたので、試着している人が少なかったので石田三成と井伊直政の甲冑を試着しました。甲冑を来て何枚も写真を撮影しました。2回目は、係員に撮影してもらったのですが、上手に撮れていたので、年賀状の写真に採用しました。
 
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 それから、彦根城の天守閣を攻略しました。天守は3階3重、規模は比較的小ぶりですが、屋根は「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓」、3階には高こう欄らん付きの「廻縁」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。 その構造は、通し柱を用いないで、各階ごとに積み上げていく方式をとっており、全体として櫓の上に高欄を付けた望ぼう楼ろうを乗せる古い形式を残していました。
 
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 天守閣の中、一、二階も、外周の通路と、小部屋に区切られていました。全体にはせまく、階段も急でありました。随所にある三角形の穴は鉄砲狭間で外からは見えないように工夫され、鉄砲を撃つための穴です。彦根城は一度も戦を経験することなく平和な江戸時代を送りました。この時代には藩主が天守を訪れることも余りなく、天守には歴代藩主の甲冑などが収納されていました。江戸時代の天守は、軍用建築というよりも、城下から見上げる彦根藩の象徴という役割を担っていたようです。
 
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 天守閣を後にして井戸曲輪に向かいました。門扉の説明があり
ました。城の門にある乳金物の説明がありました。これは門扉の釘隠しとして打つ乳房形の金物です。そんな「釘隠し」の中でも「乳金物」は、城郭や寺社など格式のある建物の門の目立つ場所に使われています。これは女性のおっぱいの形をしており、子孫繁栄の想いが込められていると以前、松山城に行った際に説明を受けた記憶があります。
 
 井戸曲輪は、天守北側直下で、黒門南側材木蔵付近から本丸と西の丸の間へと至る搦手道の途中にありました。扇形で削平が不完全なこの曲輪では、石組み溝で集められた雨水を浄化して貯水する井戸があり、北東隅には塩櫓が築かれていました。井戸曲輪では食糧を中心とした備蓄庫の役割を果たしていた。井戸曲輪直下の石垣は城内で最も高い石垣でした。
  
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 それから内郭北東面の黒門から出ました。大名屋敷である楽々園、大名庭園である玄宮園に近い門でした。井伊直弼の生誕地の碑がありました。
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 次に玄宮園に行きました。 玄宮園は彦根城の北東にある、大池泉回遊式の旧大名庭園。彦根城天守閣や茂った木々を背景に、大きな池に突き出すように臨池閣が立ち、築山には鳳翔台がありました。この鳳翔台は、彦根藩の賓客をもてなすための客殿で、ひなびた趣のある建物
でした。樹木・岩石・池を巧みに配し、池の周りに、湖南省洞庭湖の瀟湘八景にちなんで選ばれた近江八景、竹生島や沖の白石などを模して造られており、情趣のある庭になっていました。
 
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 鳳翔台では、抹茶を楽しむことができました。楽々園とともに国指定の名勝でした。園内から彦根城天守がよく見えました。
 
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イメージ 51 次にキャッスルロードに行きました。彦根城の堀端から京橋方面を向かい、石垣を抜けると、まっすぐに通りが広がりました。通りの愛称は「夢京橋キャッスルロード」でした。白壁と紅殻に煤を混ぜた黒格子、いぶし瓦。切妻屋根の傾斜を揃え、景観を大切にした暮らしの見え隠れする古くて新しい町、「OLD NEW TOWN」が「テーマ
です。戦国グッツを買おうと思ったら自分の気に入ったものがなかったので他を探しました。
 
 キャッスルロードから少し車で移動すると花しょうぶ通り商店街がありました。その商店街に
戦国丸という戦国グッツのお店があり、そこでは帽子を2つ購入しました。伊達政宗と真田幸村の帽子を購入しました。伊達政宗は紺色で、真田幸村は赤色でした。Tシャツも欲しかったのですが、そこにはなく、同じ商店街にあるお店を紹介してもらいました。少し歩くとお店があり、そのお店は、戦国グッズ専門店しょうぶ屋でした。「しょうぶ屋」は、戦国ブランド「サムライズムアート」の正規取扱店であり、全国でもここにしかない“戦国時代グッズ”を専門に扱う珍しい店でした。ここではTシャツを2枚購入しました。予算的にかなりオーバーしてしまいました。商店街の入り口には石田三成の家紋と説明がありました。

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  帰りに関ヶ原古戦場に寄ってから帰りました。笹尾山の石田三成の陣跡を攻略しました。この陣跡は1600年(慶長5年)9月15日、笹尾山一帯の石田隊6千余は、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、前衛隊長の島左近らの指揮の下、すさまじい死闘を展開した場所です。それから開戦地の記念碑の前で撮影して、古戦場を後にしました。
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2011年10月22日(土):第三次東美濃平定戦・第弐陣

次に鶴ヶ城を攻略しました。鶴ヶ城は、鎌倉時代に美濃守護となった土岐光衡によって築かれたと云われているが、これには諸説があり定かではない。鎌倉時代の正中の変では、土岐頼兼が本拠としたことで有名であり、土岐氏が本拠を美濃中部の川手城等へ移してからも、東美濃の拠点の城 であった。元亀・天正年間に武田氏が美濃へ侵攻すると、鶴ヶ城が織田氏東濃防衛の主城となり、1574年(天正2年)に起きた武田氏との明知城の攻防戦で織田信長は河尻秀隆を入れて改修させたとされます。1582年(天正10年)の甲斐侵攻時には織田信長が、この城に宿泊したとされます。
 
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国道19号線瑞浪バイパスと県道352号線との鶴城交差点を曲がって高速道路の高架下を潜り、突き当たりを左に曲がって側道を進むと諏訪神社がありました。この辺りに駐車して側道を15分程度歩くと右側に登山道の入口がありました。入り口に鶴ヶ城の案内板と石碑が建てられていて、ここが大手門跡のようです。石碑は立派なものがありました。時間の関係で石碑だけを撮影しました。
 
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次に大井城を攻略しました。大井は美濃国の東部に位置し美濃と信濃の両勢力の接点のあたる要所でありました。1438年の「永享の乱」の後、美濃守護土岐持益が築いたとされる。この乱で守護土岐持益は、信濃国境に近い要衝大井の守備を同族の原秀行(初代守護土岐頼貞の兄定親の玄孫)に命じ、阿木川右岸の段丘上に大井城を築き、名を大井遠江守秀行と改めた。
 
1473年(文明5年)「応仁の乱」の時期、信濃守護小笠原氏に攻められ落城しました。以来天文年間(1532〜55年)まで信濃勢の駐留が続きました。戦国時代に入り、土岐守護家も斜陽化し小笠原勢も東美濃から撤退すると、替わって岩村城を本城とする遠山氏が、勢力を広げ岩村城の外郭防衛のため遠山18城を構成させこの大井城も外郭に組み入れられて、重臣藤井宗常が城将となって城の修築を行った 1572年(元亀3年)武田信玄の美濃攻略が始まり武田の武将秋山信友に岩村城が奪取され、翌年の1573年(天正元年)大井城も武田勢に攻略された。秋山信友は大井城の重要性に着目し、城郭を甲州流技法にのっとり大改築し腹心の部将を城将に入れて岐阜の信長と対峙させた 。1575年(天正3年)織田信長は東濃地域から武田勢を一掃するため嫡子信忠を総大将とした大軍を投入し本拠岩村城を攻撃奪取し、この大井城も落城したその後大井城は使用されることなく廃城となった 。
 
城址は大井小学校となり、遺構は残っていませんでした。小学校校舎が櫓っぽくていい雰囲気を醸し出していました。校舎建設時に発掘調査が行われ、石垣など、大井城の遺構が発見されたそうです。城跡碑もあるようでしたので、小学校周辺を30分程度散策しましたが、見つかりませんでした。そのわかり大井宿の石碑がありました。本陣門や説明の看板がありました。大井宿は、江戸から数えて46番目であり美濃中山道ではもっとも賑わった宿だったようです。
 
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次に苗木城を攻略しました。苗木城は貞応元年(1222年)加藤景朝が遠山荘の領地を受領し、加藤姓を改め、遠山景朝と名乗り、美濃遠山氏の開祖となり、嫡孫・遠山孫太郎左衛門尉景長が南部に岩村城を北部には元弘年間(1331〜33)高森山に砦を築き、苗木城とした。この城跡は山城独特の要害の堅固さが特色である。

 
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 遠山氏の一族は、戦国時代に恵那地方を支配した豪族です。本宗家は岩村城にあったようですが、城山の地に苗木城を築いたのは苗木遠山氏です。天文年間(15321555)に遠山直廉によって築かれた。遠山氏は、織田氏に従っていたため、岩村城が武田氏によって落城すると、織田方の苗木城が最前線となった。武田家の家督を相続した信勝の母は織田信長の養女ですが、彼女は東美濃の遠山一族である苗木城の遠山直廉のところに織田信長の妹が輿入れして生まれた娘である。

 
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 苗木城は天正2年(1574年)に武田勝頼の侵攻を受け、その後天正10年(1582年)の武田氏滅亡までは武田の支配体制化に組み込まれる事になります。そして、武田の滅亡からわずか3ヵ月後に本能寺の変が勃発すると、今度は森長可によって攻め落とされています。本能寺の変後、徳川方の遠山友忠は天正11年、豊臣方の森長可は苗木城を攻められ、落城した。遠山親子は血路を開き、馬籠を経て、浜松の家康の元へ逃げた。その後、苗木城は城代として、森蘭丸の母方の祖父である林常照が、慶長5年(1600)森忠政が信州・海津城へ転封するまで城代を務めた。
 
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 慶長4年(1599年)森氏に代わって川尻氏が苗木城に入りますが、川尻氏は関ヶ原の戦いに当っては西軍に味方しました。このとき、徳川家康の下に身を寄せていた遠山友政は、家康から戦いのための備えを借り受けるとともに、苗木城攻略を下命され、この城を奪還する事に成功しました。関ヶ原の役以後、遠山友忠の子友政が先祖伝来の苗木城、1万5百石を与えられ、遠山氏12代の居城として明治維新を迎え、明治4年(1871)に城は取り壊された。
 
苗木城は2回目の攻略でしたが、1万石の城主の城とは思えない素晴らしい大規模な石垣群でした。苗木遠山資料館に車を止めて歩いて攻略を開始しました。資料館の横には、女男岩がありました。この岩は代々、藩主が立派な世継ぎを授かることを祈り名づけたそうです。風呂屋門跡から攻略を開始して、足軽長屋跡がありました。
 
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風呂屋門から入城すると、左側に巨岩と石垣、右下には急崖の天然の空堀がありました。そこから先に進むと本丸石垣群が見えてきました。正面に、山城としては非常に大規模な本丸石垣群が見えてきて感激ものでした。
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そこを、さらに奥へ歩いて行くと風吹門跡に到着しました。風吹門の中が三の丸跡でした。風吹門のすぐ横に大矢倉跡があり、切り込みはぎの石垣と天然の巨石が見事でした。大矢倉に登りました。この櫓から見る本丸の姿も実に素晴らしかったです。
 
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三の丸を通って本丸に向かって行くと左側に駈門跡・大門跡がありました。馳門跡には枡形石垣があり、遥か下の方に木曽川に架かる鉄橋が見えました。
 
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それから大門跡と奥に御朱印蔵跡がありました。大門は、苗木城で一番大きな門で二階建てで、二の丸と三の丸を仕切っていました。大門は領主の江戸参勤出立時等の大きな行事以外は開けず、普段は左側にある潜り戸を通行していたとのことである。大門を入ってすぐの所に重要な品々が納められていたという御朱印蔵跡がありました。御朱印蔵は、切石できっちり積まれた石垣の上に建てられていました。蔵は、領地目録や朱印状など重要な文書や刀剣類が納められていた。蔵への出入りには、梯子が使用されたようです。そこから見ると右下に二の丸跡が見えました。石がいっぱい転がっており多分、建物の礎石でしょう。
 
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イメージ 16そこからは登り道でした。綿蔵門跡・坂下門跡・菱櫓門跡と登っていくと菱櫓に出ました。菱櫓は切込はぎでなく、打込はぎの石垣の実に綺麗な石垣でした。石垣の下に千石井戸跡というのがありました。苗木城の一番高い場所にある井戸にあり、どんな日照りのときでも水がかれたことがなく、千人の用を足すということでなずけられた井戸でした。
 
 
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 さらに登っていくと本丸口門跡・玄関口門跡があり山頂の本丸跡に着きました。本丸の石垣は
見事でした。本丸へ行くまでに武器蔵・具足蔵があり、その礎石が残っていました。本丸はわずか400㎡しかなく、、ここに天守・台所・居間・次の間・千畳敷等が構えられていたそうである。そして岩盤そのものを天守台としていたそうです。
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 天守跡からの眺望は素晴らしく、眼下には木曽川の流れと中津川の市街地、さらにその向こう側には恵那山をはじめとする美しい山並みが望めました。
 
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 天守台の石垣には自然の巨石が2つあり、その巨石の上を跨ぐ形で天守が建てられていました。天守閣は3階構成となっており、1階が天守縁下、2階は玉蔵となっており、最上階部分の3階が天守となっていたようです。現在は柱を使って当時の三階部分一部を復元され、展望台ともしていました。岩を削り取って柱を据えた跡が残っていました。現在の復元の展望天守柱も、その柱跡を使用して建てられていました。
 
  
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  反対側の方へ降りて行くと、本丸を支える石垣の一部として組み込まれたとてつもなく大きな岩がありました。これが馬洗い岩でした。そこから笠置矢倉跡経由で大手門に戻りました。30分程度の予定でしたが、いろんな場所を見ていたら気がついたら1時間半くらい経過していました。けっこう汗だくだくになった攻略でした。
 
 
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次に久米ヶ城を攻略しました。久米ヶ城は、貞和年間に松尾城主小笠原貞宗の弟貞長が築城した。 その後、戦国時代中期まで九代200年に渡って小笠原氏が在城した。久米ヶ城は、松尾城(飯田市)の支城にあたる。小笠原氏は、当初大きな勢力を誇っていたが、小笠原惣領職をめぐって、松本の深志小笠原氏、伊那の鈴岡小笠原氏、松尾小笠原氏の間で内部争いが続き、次第に弱体化していった。 1554年(天文23年)には、武田信虎の子晴信(信玄)が、貞忠の子、信貴を先鋒として、下伊那に侵入し、松尾小笠原家は再興されることになった。しかし、信玄没後の1582年(天正10年)、織田信長が甲斐への侵攻を開始すると、信貴の子、信嶺は戦うことなく織田軍に降伏。本能寺で信長が惨死した後は、家康によって本領が安堵されるが、1580年(天正18年)、秀吉の国替え政策により、家康が関東に移封されると、小笠原氏もそれに従い、以後、久米ヶ城も廃城となった。
    
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 久米ヶ城は、独立丘の城山山頂に築かれた城で、現在は城山公園となっていました。久米ヶ城は、本丸が公園で物見櫓が建てられていました。いる愚痴には、冠木門がありました。本丸から空堀(道路となっている)を隔てて二の丸・三の丸があり、ここには城山荘がありました。360度遮るものはなく、伊那谷から中央・南アルプスの山々が一望でき、観光協会が「信州サンセットポイント」として一押ししている場所でした。
 
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最後に松尾城を攻略しました。松尾城は、室町時代に信濃守護小笠原氏によって築かれた。小笠原氏は、小笠原長秀が深志小笠原氏を継ぎ、弟政康が松尾小笠原氏となった。深志家と松尾家は、小笠原惣領職・信濃守護職を争い、更に松尾家分家鈴岡家も加わって三つ巴の争いをしている。1493年(明応2年)頃、松尾城の小笠原定基は毛賀沢川を挟んで位置する鈴岡城主で信濃守護職の小笠原政秀を倒した。当時、小笠原家は深志小笠原氏,鈴岡小笠原氏,松尾小笠原氏と三家に分かれて対立していた。
 
 1542年(天文11年)諏訪を掌握した武田氏は1554年(天文23年)に、松尾小笠原氏も武田氏の軍門に下り、伊奈方の先方衆となった。1582年(天正10年)には織田氏が伊奈に進攻し、小笠原信嶺は戦うことなく、織田軍に降伏。1590年(天正18年)、小笠原信嶺は家康の関東転封に従い武蔵本庄1万石を与えられた。 松尾城は廃城となった。
 
 松尾城は、北に北の沢川、南に毛賀沢川に挟まれた河岸段丘の先端部に築かれた城でした。 現在、本丸・二の丸が城址公園として整備されていて、曲輪・空堀・竪堀等の城の遺構が残されていました。公園内には立派な城址石碑がありました。攻略した時間が遅く、周囲が暗くなってしまいましたので石碑だけを撮影しました。
 
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2011年10月22日(土):第三次東美濃平定戦・第壱陣

 今日は、東美濃の城を攻略しました。最初は今城でした。今城は、天文年間に小池家継が築いたと云われている。 小池氏の自出は定かではないが鎌倉時代には鳥羽院の北面の武士であったらしい。1565年(永禄8年)、美濃を制した織田信長は、森可成を金山城主に封じて東美濃の旗頭とした際、東美濃の諸将と同様に小池氏は現在の可児市南西部を支配していたこの地方の豪族であったが、この頃信長に帰順し、森氏の家臣となったとされる。
 
1582年(天正10年)、織田信長が本能寺の変にて討たれると、それまで森氏に従っていた東濃諸将はこぞって森氏に反旗を翻した。 森長可は、反抗する諸将を各個撃破しこれを鎮圧したが、このおりに今城も落城し、廃城になったと思われる。家継は帰農したと伝わる。
 
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今城は、可児市今町、『今公民館』の南に、『今老人憩いの家』がありました。ここからお城までの案内板があるので、ここに車を停め歩きました。看板に従い80m程南下した左手小山が城跡でした。地元の方の協力によって非常に綺麗に整備されていました。石碑・説明板さらに場所を示す標柱があり、わかりやすかったです。その縄張りは、山頂部に周囲を土塁に囲まれた一の曲輪があり、虎口が南北に2個所ありました。
 
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 次に土田城を目指しました。少し迷っている途中に、土田宿本陣跡の石碑を見つけました。土田宿本陣には織田信長や徳川秀忠、初代尾張藩主の徳川義直もここに宿泊したという記録が残っています。江戸時代初期は中山道の木曽川の渡し場が土田(土田の渡し)に設置されていたため、土田宿は中山道の宿場町として栄えました。しかし、時代とともに渡し場が上流に移動し、また少し東に中山道の宿場町として伏見宿が新たに設置されたことにより、土田宿は中山道の宿場町の座から陥落し、利用客も少なくなったと説明の看板に書いてありました。
 
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  土田城は、文明年間に土田義久によって築かれた。土田氏は鎌倉時代の功臣、近江の佐々木義詮の末裔、山内秀久が土田に移り大炊戸渡しの利権を握り近隣に戦力を伸ばし、土地名の土田氏を名乗ったのに始まる。土田秀久、政久と続き、政久の二男、甚助は丹羽郡小折城主の生駒家に養子となり生駒親重と改める。土田氏は、明智長山城の明智氏に従い、1556年(弘治2年)に明智氏が斎藤義龍に攻められた時、土田源太夫は明智氏と共に討ち死にした。三男の土田三郎は1582年(天正10年)6月、坂本城にて討死したという。
 
親重の死後は、城主は親正となり織田信長に仕えるが、生駒親重は嫡子親正と共に織田信長に仕え、本領を安堵された。 その後、親正は戦功を重ねて豊臣秀吉に仕えて、1587年(天正15年)には17万6千石を拝領し讃岐国丸亀城主となり、讃岐一国を領して高松城を築き、本領の土田城は必然的に廃城となった。土田城は、生駒氏の出世城とも云われ、織田信長の生母土田御前の実家の城でした。大脇地区公民館前に土田城の石碑と案内板がありました。土田城への登城口もここから登るようでしたが、時間的に攻略はあきらめました。
 
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  次に久々利城を攻略しました。久々利城は、歴応年間に土岐康貞によって築かれ、2代康頼から久々利氏を称した。天文年間、久々利氏は金山城主斎藤正義に属していたが、正義は横暴なこともあり、天文17年に久々利頼興(悪五郎)は正義を久々利城に招き謀殺した。天正10年、本能寺の変が起きると、それまで金山城主森長可に従っていた東美濃の諸将が反旗を翻した。1583年(天正11年)、久々利頼興は金山城で謀殺され、久々利城には森家家臣戸田勘左衛門が城番となった。 慶長5年、森忠政が信濃川中島に移封され、金山城が廃城となった時、久々利城も廃城となった。
 
 久々利城は、可児郷土歴史館の北側の山に築かれていました。可児郷土歴史館の道路を渡ったところに、久々利城の登城口があり、石碑と説明板が設置されていました。 久々利城は、本丸・二の丸・三の丸と段差のある曲輪があり、どの曲輪も木々が切り払われて切岸が良く確認できようでしたが、今回は石碑を撮影しただけでした。
 
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次に高山城を攻略しました。高山城は、1337年(建武5年)美濃源氏の一族・高山伊賀守秀頼が築城したと考えられる。秀頼末裔の高山伊賀守光俊没後の1556年(弘治2年)、武田信玄の命を受けた平井光行が高山へ兵を進め城主となるが、その子平井頼母は織田信長に属した。そのため1574年(天正2年)、平井光行の子光村が城主の時、甲斐の武田勝頼の東美濃攻めによって攻略され落城した。その後岩村城主田丸直昌の支城となったが、1600年(慶長5年)関ヶ原の合戦にて西軍方となり、東軍妻木勢によって攻められ落城したと伝えられる。
 
 高山城といえば、同じ岐阜県にある飛騨高山城が有名ですが、こちらは土岐市内にある美濃高山城です。高山城は、遠山18支城の一つに数えられている城で、土岐駅から土岐川を挟んで南正面に見える丘陵上に築かれていました。現在、城址には水道貯水池があり、高山城まで車で登れました。ちょうど貯水池前に高山城の案内板がありました。案内板にある縄張り図によると、丘陵先端部に3つの曲輪が設けられた城であったようです。
 
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駐車場が三の曲輪でした。高山城は、三の曲輪の北に二の曲輪と一の曲輪配した曲輪配置で、三の曲輪と一の曲輪の高低差は12mでした。広い一の曲輪の大部分を水道施設が占拠していました。各曲輪はかなり細長い曲輪でした。公園のように整備されているので、遺構はあまり見られませんでした。
 
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  次に妻木城を攻略しました。妻木城は、南北朝時代に美濃守護土岐頼貞の九男頼基が妻木郷を与えられ、妻木氏を称してこの地に築城したと云われている。妻木氏は、土岐嫡流家に従い、応仁の乱以後土岐氏没落後は斎藤氏に従った。織田信長が美濃を制圧すると、東美濃の諸将と同様に金山城主森可成を旗頭としてその下知に従った。1582年(天正10年)本能寺の変で妻木広忠は明智光秀に従っており、近江国坂本にて自刃した。一説に明智光秀の妻は広忠の女という。広忠の子妻木貞徳は織田信長の馬廻を務めていたが本能寺の変後は家督を妻木頼忠に譲り隠居した。 
 
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1600年(慶長5年)、関ヶ原の役では妻木頼忠は東軍に与し、西軍に与した岩村城主田丸具安と戦った。 戦後、頼忠は妻木7,500石を領して妻木城に居城した。妻木氏は、頼忠−頼利−頼次と3代続いたが、頼次に継嗣なく断絶となり、妻木城も廃城となった。
 
 妻木城は、山麓に平素の居館を置き、背後の城山山頂部に詰の城が築かれた典型的な中世城郭でした。山麓の御殿跡・士屋敷跡は、石垣で固められた3段の曲輪から構成されていました。妻木城の山麓遺構は山頂の遺構と共に県史跡に指定されており、石垣に区画されたかなり広い土地が段々に続いていました。御殿跡では門跡や池跡、井戸跡といった遺構もありました。
 
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次に小里城を攻略しました。小里城は、1534年(天文3年)に土岐康流の子小里光忠によって築かれたと云われるが定かではない。小里氏は土岐成瀬の四男土岐元頼を祖とするという。
1572年(元亀3年)、信濃伊那谷を制した武田信玄は、美濃・三河に侵攻し、美濃諸将と美濃上村で合戦した。 甲斐国武田氏の部将秋山信友が美濃に侵攻し岩村城を落とすと、明知城主遠山景行とともに小里光忠・光次父子は織田方として戦った(上村合戦) 武田軍が明知城を包囲すると、織田信長は後詰に出向いたが到着を待てずに落城した。この合戦で明知城主遠山景行や小里光忠も討ち死にし、岩村城・明知城も武田氏が占拠した。織田信長は鶴ヶ城に河尻秀隆、小里城に池田恒興を城番として置き、城の改修を行った。
 
1574年(天正2年)、織田信長が岩村城攻略の向城として、東美濃の拠点鶴ヶ城を修築すると共に、小里光明に小里城の修築を命じた。1575年(天正3年)、織田勢による岩村城奪還が成ると小里城修築も不要となり工事は中止となった。
 
1582年(天正10年)、本能寺の変で、織田信長が討たれると、小里光久が山城国二条城にて討死した為、小里氏の家督は光久の後見人であった叔父の小里光明が継いだ。光明は金山城主森長可には従わず、東美濃の諸将も金山城主森長可に反旗を翻したが、森長可によって掃討され、小里城も攻め落とされた。 小里光明は三河に逃れ徳川家康に仕えた。 この落城後に小里城は廃城となった。
 
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 県道20号線と県道33号線が交わる交差点のすぐ側に小里城への登城口がありました。大きな案内板と石碑と小里城の旗が道路脇にあったのですぐわかりました。石碑のあるところからもう既に城域でした。山麓に大きく分けて3段に分かれた曲輪が配置され、大手門跡の左右には見事な石垣が残っているようでしたが、時間の関係で攻略をあきらめました。 一の曲輪には、穴蔵を持つ天守台が築かれているようなので再度、攻略したいと思います。
 
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2011年10月16日(日):大浜寺町ウォーキング

 今日は、大浜寺町ウォーキングに行きました。毎年、この時期に開催されます。港町・大浜にはたくさんのお寺があり、今はあまり見られなくなった昔のなつかしい路地も数多くあります。そんな大浜の街並みを歩くイベントが大浜てらまちウォーキングです。開催時間は9時半からで今年からゆるキャラの「てらまち小僧」が登場するようでした。実家から受付まで歩いて行きました。徳川家康の幼名、竹千代命名のお寺の称名寺を通りすぎて橋を渡ると、車が通行止めになり、歩行者天国になっていました。
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  開催時間にメイン会場に行くと「てらまち小僧」が登場していました。お寺をイメージしたキャラクターのようで、昨年、大浜てらまちのご当地キャラクターを大浜小学校児童から募集し、集まった260点の作品を昨年のてらまちウォーキング当日に大浜陣屋広場にて貼り出し一般来場者の方に投票していただき、投票上位の作品をもとに誕生しました。それからモデルコースに従い、大浜陣屋、正覚寺、林泉寺、常行院、九重味醂、西方寺に行きました。大浜陣屋とは1769年(明和6年)から1872年(明治5年)まで、駿河沼津領主・水野家が三河における領地を支配するために設置した役所のことです。
 
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イメージ 7 いろんな場所で、食べ物の販売などが行われていました。目新しいのは『へきなん焼きそば』でした。へきなん焼きそばの具材は碧南市が誇る素材ばかり!で、玉ねぎ、にんじん、白醤油、えびせんべいでした。ソースではなく白醤油で味付けがされていました。白醤油は江戸時代後期に碧南新川地区が発祥の白しょうゆ。通常のしょうゆとは異なり主原料は小麦です。美味しかったです。2時間程度散策しました。
 
 
   

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2011年10月15日(土):名古屋で生まれた人情居酒屋

イメージ 1 今日は、仕事が終わってから)名古屋で生まれた人情居酒屋「やぶや」に行きました。会社の同僚は電車で駅から20分くらい歩いてきました。飲酒するので自分も歩いて行きました。やぶ屋のお勧め料理は、八丁味噌タレを付けて七輪で焼く「七輪あみ焼きとんちゃん」でした。煙がもうもうで熱い中、七輪を使って名物のとんちゃんを焼きました。これがうまくビールが進みました。炭火の七輪で焼くのはいいです。
 
 
 

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