|
その5.竜田丸で帰国。
竜田丸の船腹は、大きな白十字のマークと英語で、デイプロマット外交官という文字が鮮やかに印されて
いた。
そして、日英両国の抑留者の交換も支障なく行われ、竜田丸に乗船すると、懐かしの日本食のご馳走で、
またまた大名生活であった。
翌日、ロレンソマルヶスを出帆し、進路を真東に採り、インド洋を横断し、シンガポールを目指して進ん
だ。
夜になると、本船全般にイルミネーションが輝き、交換船なることを明示した。誤爆をさけるためであ
る。
コロンボの真南すなはちインド洋の丁度真ん中あたりが、日英海軍の激戦区域であるため、とくに警戒を
厳重にしたが、時々飛行機の爆音が真近に聞こえたり、国籍不明の船に尾行された時は大いに緊張したも
のである。
此の海域をどうにか脱してようやくジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡を通ってジャワ海に入り、日
の丸をつけた日本海軍の戦闘機に迎えられた時は、全くやれやれであった。
スンだ海峡の入り口では、海中に新しくできた活火山が溶岩を吹き上げている珍しい光景がみられたが、
これがクラカタウ島であった。
スンダ海峡を境にしてインド洋側は高波の荒れる大海に比し、ジャワ海側は美しい島々に囲まれる静かな
内海で、全く対照的である。
島の岸辺は椰子やマンゴウの木が深く海に覆いかぶさり、しかも岸辺からすぐ深いため、日本海軍の潜水
艦にとっては絶好のかくれ場所である。
そして翌日シンガポールに到着した。
当時シンガポールは日本の南方おける一大根拠地であり、南方総軍司令部があり、軍人が肩で風を切って
いた。
シンガポール港の入り口では、敵潜水艦の追尾を避けるため、何回もS字航行やジグザグ航行がおこなわ
れ、無事入港した。
軍楽隊に出迎えられて、凱旋将軍のごとく上陸した。
三菱商事の駐在員に迎えられたときは、全く生還したという実感がしみじみ湧いてきた。
街は日本軍戦勝の景気のよいニュースに溢れていたが、外国帰りの我々には言論統制の厳しさが気にな
り、なんとなく溶け込めぬ雰囲気であった。
まして外地の行政などなんら経験のない若い将校や軍属が、民間人や外地人を顎で使って好い気になって
いるさまはアブナッかしくてみていられず、これで大丈夫かなと危惧の念をふかくした。
2日間の停泊の後、シンガポールを出帆し、仏印沿いに北上したが、この辺は米国潜水艦の銀座通りで、
毎日のように日本船が襲われ撃沈され、多数の犠牲者を出していた。
幸いここも無事通過し、東シナ海を北上すると、秋の気配も日毎に濃くなっていつた。
そして長い航海の末、昭和17年9月の終わり、懐かしの横浜港に入港した。
4年ぶりに兄弟親戚に出迎えられ上陸した。
|